桜田文吾(読み)さくらだぶんご

改訂新版 世界大百科事典 「桜田文吾」の意味・わかりやすい解説

桜田文吾 (さくらだぶんご)
生没年:1863-1922(文久3-大正11)

明治・大正期のジャーナリスト大我一寸法師と号す。仙台出身小学校助教を経て東京法学院(現,中央大学)に進み,のち陸羯南主宰の日本新聞社に入社。1893年に刊行された《貧天地饑寒窟探検記》はその3年前《日本》に連載された貧民街探訪記である。最も早い東京,大阪の貧民ルポで二葉亭四迷松原岩五郎,横山源之助の活動に影響を与えた。のち京都通信社を創設し,京都市会議員に当選した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桜田文吾」の解説

桜田文吾 さくらだ-ぶんご

1863-1922 明治-大正時代のジャーナリスト。
文久3年生まれ。陸羯南(くが-かつなん)の日本新聞社にはいり,東京,大阪のスラム街探訪記を連載して知られる。のち京都にうつり,京華社,京都通信社を創設し,市会議員をつとめた。大正11年12月31日死去。60歳。陸奥(むつ)仙台出身。東京法学院(現中央大)卒。号は大我,一寸法師。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例