明治の新聞記者,国粋主義者。名は実,羯南は号。弘前藩下級士族中田氏の出,のち徴兵逃れのため陸姓を名のる。東奥義塾をへて1874年宮城師範学校に入る。76年中退,上京して司法省法学校に入るが,賄征伐(まかないせいばつ)に関連して79年原敬らとともに退学する。《青森新聞》,紋別製糖所に勤めた後,81年に上京,83年太政官文書局に入り,内閣制創設とともに内閣官報局編輯課長となる。この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。その後1906年に病で新聞を譲るまで,彼は同紙の社主・主筆として言論一筋に生きる。この間,東邦協会,国家経済会,社会問題研究会,東亜同文会,国民同盟会などに参加する。1901年には近衛篤麿に従い清・韓を視察するが,このころから近衛との関係が親密化し,谷との関係がそれだけ疎遠となる。03年半ばより約7ヵ月欧州を漫遊した。羯南の国民主義は,政府の欧化政策だけでなく,民権運動の天賦人権論にたいする鋭い危機感を基礎としていた。このため,そこでは国民の歴史的継続性と有機的全体性の観念が打ち出され,伝統的な共同体的秩序の維持・再編や,この秩序の支点としての天皇の権威が強調される。しかし無限定の欧化が否定される反面,対外的独立の達成の観点から,立憲化や産業化の必要は明確に認識されていた。ごく概括的には,それは社会や文化の面ではできるだけ伝統を保守しつつ,政治や経済の面では漸進的に改革を実現しようとするものであったといえよう。こうした彼の立場は,初期議会の時期には民党よりもむしろ政府寄りであった。日清戦争後,戦後経営の名のもとに政府が急激な軍備拡張を行い,政党もこれを支持すると,彼は政党にたいし自由民権の思想を保守するよう訴えると同時に,軍国主義を批判して世界平和の理想すらを説く。歴代内閣のうち彼がもっとも期待をかけたのは,最初の政党的内閣隈板内閣であった。しかし,列強とくにロシアの中国侵出が進むと,彼は拡大した軍備の活用を説き,やがて対露開戦を主張する。明治日本に一般的であった,世界が列強とその植民地とに両極化するという国際観,および国民の存続・発展を至上命令とする価値観が,その原因であったと考えられる。
執筆者:植手 通有
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明治中期の代表的な言論人。本名実(みのる)。安政(あんせい)4年10月14日、陸奥(むつ)国(青森県)弘前(ひろさき)に生まれる。司法省法学校退校後、『青森新聞』編集長、北海道での官吏、太政官(だじょうかん)文書局、内閣官報局編輯(へんしゅう)課長を経て、1889年(明治22)新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となる。欧化主義に対して、雑誌『日本人』(政教社)の三宅雪嶺(みやけせつれい)らと国粋主義を主張し、徳富蘇峰(とくとみそほう)らの民友社と明治20年代の言論界を二分した。『近時政論考』で維新後の政治思想の変遷を論じて、自己の立場を「国民論派」とし、世論政治の実現を目ざした。また、対外的には大隈(おおくま)条約改正案反対運動の急先鋒(きゅうせんぽう)となり、東邦協会、国民同盟会に参画し、谷干城(たにかんじょう)、近衛篤麿(このえあつまろ)のブレーンとして対外硬派を形成した。生涯、新聞記者の使命というものをもっとも強く自覚して、政府や政党に一線を画し、政治的リアリズムに徹した論調を展開した。正岡子規(まさおかしき)の文学活動を全面的に後援し、鳥居素川(とりいそせん)、長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)らの言論人を育成した。明治40年9月2日没。墓所は東京・染井墓地。
[佐藤能丸 2016年8月19日]
『西田長寿他編『陸羯南全集』全10巻(1968~1985/オンデマンド版・2010・みすず書房)』▽『松本三之介編『政教社文学集』(『明治文学全集37』1980・筑摩書房)』▽『丸山真男「陸羯南と国民主義」(『民権論からナショナリズムへ』所収・1957・御茶の水書房)』
(有山輝雄)
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1857.10.14~1907.9.2
明治期の新聞記者。本名実。陸奥国弘前生れ。東奥義塾・宮城師範学校に学んだ後,上京し司法省法学校に入ったが中退。帰郷し青森新聞社の主筆。親戚の陸家の養子となる。1883年(明治16)上京し,太政官御用係・官報局編集課長を歴任。88年新聞「東京電報」を発刊。翌年新聞「日本」を創刊,社長兼主筆。政教社と提携して国民主義を主張し,言論界で指導的役割をはたした。
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…また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。これに対抗した三宅雪嶺,志賀重昂らの政教社は,雑誌《日本人》によって陸羯南の新聞《日本》とともに〈国民主義〉を唱えた。《日本人》は高島炭鉱の坑夫の労働条件の過酷さを訴えて,いわゆるルポルタージュの先駆となり,《日本》は正岡子規の俳句再興の舞台となって国民的なひろがりをもつ短詩型文芸慣習を定位するなど,日本の近代文学に貢献した。…
…陸羯南(くがかつなん)を社長兼主筆として東京で創刊された新聞。創刊は1889年2月11日。…
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