小説家。本名長谷川辰之助(はせがわたつのすけ)。別号冷々亭杏雨(れいれいていきょうう)。尾張(おわり)藩士長谷川吉数(よしかず)のひとり子として元治(げんじ)元年2月28日(一説には文久(ぶんきゅう)2年10月8日)江戸に生まれる。幕末から明治初年にかけての動乱期を江戸、名古屋、松江などで過ごし、最初は軍人となってロシアの南下政策からわが国を守ろうと考えたが、陸軍士官学校受験に失敗、外交官志望に転じて東京外国語学校でロシア語を学んだ。しかし在学中にロシア文学に興味をもち、学校が東京商業学校(現一橋大学)に合併されたことを不満として、1886年(明治19)退学、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)を訪ねて文学者として出発した。同年『小説総論』において、現象を借りて本質を写さなければならぬというリアリズムの理論を主張し、それに基づいて『浮雲(うきぐも)』(1887~1889)を発表したが、執筆中に生じた思想的動揺から観念や文学の価値を疑い、小説を中絶し、内閣官報局に入って官吏となった。官報局時代の彼は外字新聞の翻訳を担当するかたわら、内外の文献をあさって人生の目的や観念の存在価値を追求したが、結局それらの意味を確立することができず、「実感」を重んじて実業に従事したいと願うようになった。この探究の跡は手記『落葉のはきよせ』(1889~1894)に残されている。1897年官報局を退職、陸軍大学校などでロシア語を教え、1899年には東京外国語学校教授に就任したが、年来の志である日露問題への関心は消えず、両国の関係が緊迫化した1902年(明治35)外語大を辞任してウラジオストクに渡った。しかし現地の受け入れ先、徳永商店と肌があわず、北京(ペキン)で旧友川島浪速(かわしまなにわ)が主宰する警察学校の事務長となったが、ここでも川島と意見が対立して、1903年帰国した。
帰国後朝日新聞社に入社した彼は、周囲の説得に屈して1906年『其面影(そのおもかげ)』を『東京朝日新聞』に連載(刊行は1907年)、文壇に復活した。この小説は、知識や観念のために「死了」して真の行為を欠く知識人の内面の空白を批判したもので、『浮雲』の主題を引き継いだ作品である。この小説の好評に促されて1907年『平凡』を発表したが、小説家で終わるつもりはなく、1908年、朝日新聞露都特派員として日露の相互理解に尽くすべくペテルブルグに向かった。しかし不運にも着任早々不眠症に悩み、ついで肺炎と肺結核を併発して、ロンドン経由、船路帰国の途中、明治42年5月10日ベンガル湾上で没した。
文学者としての彼はわずか3編の創作といくつかの翻訳しか残さず、その実生活も失敗の連続に終わったが、「真理」を追求して経世済民の文学を目ざし、近代リアリズムと言文一致の主張によって近代文学の基礎を築いた功績はきわめて大きく、また翻訳においても『あひゞき』『めぐりあひ』(ツルゲーネフ原作。ともに1888)はじめ、『うき草』(ツルゲーネフ、1897)、『血笑記(けっしょうき)』(アンドレーエフ、1908)などのロシア文学を紹介し、後世に多大の影響を与えた。わが国最初のエスペラント語の教科書『世界語』(1906)を編纂(へんさん)した功績も忘れることができない。
[十川信介]
『『二葉亭四迷全集』全9巻(1964~1965・岩波書店)』▽『坪内逍遙・内田魯庵編『二葉亭四迷』(1909・易風社/復刻版・1975・日本近代文学館)』▽『十川信介著『増補二葉亭四迷論』(1984・筑摩書房)』▽『中村光夫著『二葉亭四迷伝』(講談社文庫)』▽『小田切秀雄著『二葉亭四迷』(岩波新書)』
明治期の小説家,翻訳家。本名長谷川辰之助。別号は冷々亭杏雨,四明など。尾張藩下級武士の独り子として江戸生れ。維新の動乱を体験し,幼少年期を名古屋,東京,松江などに過ごした。陸軍士官学校の受験に3度失敗したのち,対ロシア外交への関心から東京外国語学校露語科に入学。1881年から86年までの在学中に19世紀ロシア文学に目を開かれ,文学の意義と社会的役割を自覚した。86年1月,当時新文学の旗手と見られていた坪内逍遥をたずね,文学観を披瀝して逍遥に衝撃を与え,そのすすめで評論《小説総論》(1886)や《浮雲》(1887-89)を発表。後者は言文一致体によるリアリズム小説の野心作だったが,第3編に難渋して創作の自信を失い,89年から内閣官報局雇員となって海外の新聞・雑誌の翻訳に従事。のち,陸・海軍の大学校や東京外語の露語教授に任じられながら,国際舞台での活動を念願して職を捨て,1902年大陸に渡った。ウラジオストクでエスペランチスト協会に加入,北京では治安をあずかる警務学堂の提調代理(事務長)などを経験したが,志を得ず翌年帰国。日露戦争前夜の朝日新聞社に迎えられ,ロシアの新聞の翻訳・調査を担当。社では二葉亭と夏目漱石によって小説欄を充実させたい意向をもち,戦後はその要請を断りきれず,二葉亭は《其面影(そのおもかげ)》(1906),《平凡》(1907)を新聞小説として発表した。08年に朝日新聞露都特派員になり,宿願の国際的活動を夢見て勇躍ペテルブルグに赴任したが,ほどなく肺結核をわずらい,帰国の船中で没した。ロシア文学の翻訳は,新鮮な訳文で読者に感銘を与えた《あひゞき》《めぐりあひ》(ともに1888)をはじめ,《うき草》(1897),《血笑記》(1908)など生涯を通して多数にわたり,創作に劣らぬ価値をもつ。彼は終始,日本人の運命にかかわる姿勢で文学を考え,社会や政治の問題に深い関心をいだき続けた。エスペランチストとして《世界語》(1906)などの著書もある。
執筆者:畑 有三
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(佐伯順子)
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明治期の小説家,翻訳家
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1864.2.3/28~1909.5.10
明治期の小説家・翻訳家。本名長谷川辰之助。江戸生れ。東京外国語学校露語科の東京商業への再編を機に中退し,文学に接近。坪内逍遥の知遇を得て,1886年(明治19)ベリンスキーの文学理論に学んだ独自の写実理論「小説総論」を発表。ついで書かれた言文一致体の小説「浮雲」は,日本における最初のリアリズム小説で,ツルゲーネフ「猟人日記」の抄訳「あひゞき」などとともにのちの文学者たちに多大の影響を与えた。しかし,二葉亭自身は文学をみずからの天職とするにはなお懐疑的で,「其面影(そのおもかげ)」「平凡」の発表後,関心はもっぱら外交や実業にむかい,「朝日新聞」の特派員としてロシアに赴任,船での帰途肺結核のためベンガル湾上で客死した。
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… なお,この虚実の問題は,写実主義・自然主義などのように,現実対象の忠実な再現的描写を志す芸術の表現理論に共通する課題であって,明治以降もしばしば論争の種となっている。例えば坪内逍遥の《小説神髄》における模写主義の提唱は,虚構を排し事実をとることを説いたものであるが,これに対し二葉亭四迷は《小説総論》で〈虚相〉を写すべきことを主張し,森鷗外は〈早稲田文学の没理想〉(1891)で,逍遥の没理想論は世界は〈実(レアアル)〉ばかりでなく〈想(イデエ)〉に満ち満ちているという重大なことを見落としていると反駁(はんばく)した。さらに石橋忍月は《舞姫》評で〈虚実の調和〉ということを説いている。…
…北村透谷が〈写実も到底情熱を根底に置かざれば,写実の為に写実をなすの弊を免れ難し〉(《情熱》)と批判したように,そこには〈情熱〉,つまり外界を見るよりもむしろそれを拒絶するような一種の倒錯的な内面性が欠けていたのである。 一方,ロシア文学に通じており内面的であった二葉亭四迷は,いざ書こうとすると,《浮雲》がそうであるように,実質的に江戸文学(戯作)の文体・リズムに引きずられざるをえなかった。実際に,《浮雲》などより,彼のツルゲーネフの翻訳のほうが,のちの写実主義の文学に影響力をもったといえる。…
…明治の小説は,言葉の向こう側にあるモノやココロの世界,つまりは意味されるものの世界に読者の想像力をふりむける技法を開発しなければならなかったのである。そのもっとも有力な技法の一つは,言文一致体で書かれた二葉亭四迷の《浮雲》における語りの構造である。すなわち,主人公内海文三の内面に入りこむとともに,たえずそれを揶揄(やゆ)する声を響かせる無人称の語り手の存在である。…
…彼の作品は社会性は強いが,詩人,哲人,画家の目による自然,社会,人間の公正な観察と真実の描写,洗練された優雅な言葉,美しい調和が特徴である。日本には明治中期に二葉亭四迷によって《片恋》(《アーシャ》),《めぐりあひ》(《三つの出会い》),《あひゞき》(《猟人日記》),《浮き草》(《ルージン》)が紹介され,さらに英訳が入って,田山花袋,国木田独歩,島崎藤村などの自然主義に影響をあたえた。【工藤 精一郎】。…
…チェンバー兄弟編の百科全書の文学項目(Rhetorics and Belles Lettres)が菊池大麓によって《修辞及華文》(1879)として訳され,また《新体詩抄》(1882)の序文が詩論の発端を示すなどして,やがて坪内逍遥《小説神髄》(1885‐86)が出て近代文芸評論は成立する。このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。だが文学が他の諸価値から自立した世界を形づくり,かつそれが文学者の内心の思いの表現であることを表明したのは北村透谷であり,透谷を含む《文学界》グループが西欧近代のロマン主義の移植を媒介として近代的な文学観を確立したとみられる。…
…しかし作風の継続性を読者に印象づけるため,一作家の用いる筆名はしだいに少なくなっていった。日本の近代作家のペンネームには,〈くたばってしまえ〉をもじった二葉亭四迷のような乾いたユーモアを主張するまれな例を除けば,(夏目)漱石,(正岡)子規など古典の章句などから構成した雅号風のものが多かった。写生を創作の基軸としたとき,伊藤左千夫が平仮名〈さちを〉の称を捨て,長塚節が本名をつらぬいたことなどは,雅号と作家の近代意識との関連を考えさせる。…
…ロシア文学の日本語訳は,朝鮮や中国におけるロシア文学移入のきっかけを作ったという意味で,国際文化史的に見ても重要である。日本人にとってのロシア文学の魅力は,二葉亭四迷がいち早く指摘しているように,〈真面目(しんめんもく)に人生問題の全般に亘って考究し〉〈日本文学者のやうに,文学一点張りで他方面の事は関せず焉で居たのではない〉(《露国文学の日本に及ぼしたる影響》)ところにあった。最も文学的で〈血も涙もある〉ツルゲーネフがまず最初に,奥深い人生・社会問題,思想,観念が文学であつかえる,しかも芸術的な形であつかえるということを日本人に教えてくれたのであって,L.トルストイもドストエフスキーもツルゲーネフの開いてくれたこの水路を通って日本に入ってきた。…
※「二葉亭四迷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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