アフォンソ
Afonso
生没年:?-1545
アフリカ,コンゴ王国の王(マニ・コンゴ)。在位1506-45年。15世紀末以降ポルトガル人が渡来するようになると,カトリックに改宗,1506年に即位してアフォンソ1世と称した(旧名ヌジンガ・ムベンバNzinga Mvemba)。彼は,ポルトガルと外交使節を交換し,宣教師,石工,鍛冶屋,農業技術者などを迎えいれて,キリスト教の布教を奨励するなど,ポルトガル文化の摂取につとめ,欧化政策に力を注いだ。2人の皇子をローマ教皇のもとに派遣し,欧風の宮殿を建て,教会や学校をつくり,首都ムバンザ・コンゴをサン・サルバドルと改称したほどである。しかし,ポルトガルのコンゴ進出の目的は,奴隷貿易の推進,象牙の輸入,鉱物資源の開発にあったため,コンゴ王国は急激に荒廃し,衰退に向かった。彼の欧化政策は,意に反してヨーロッパ勢力のコンゴ,アンゴラ支配の端緒を開く結果に終わった。
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアフォンソの言及
【ポルトガル】より
… 絵画が偉大な個性を発揮したのは,建築同様15世紀で,ファン・アイクの来訪(1428)によって,フランドルの写実的様式が隆盛を極めた。アフォンソ5世(在位1438‐81)の宮廷画家[ゴンサルベス]がリスボン派の総帥で,彼の《聖ビセンテ(ウィンケンティウス)の多翼祭壇画》(6枚)は,海洋国ポルトガルの一大ドキュメントであると同時に,15世紀ヨーロッパ絵画の最高傑作の一つである。ルネサンス期にはイタリアの影響も波及し,肖像画家モライスCristóvão de Morais(16世紀後半活動)らが活躍,18~19世紀にもビエイラFrancisco Vieira Portuense(1765‐1806),〈ポルトガルのゴヤ〉と呼ばれるセケイラDomingos de Sequeira(1768‐1837)を生んだ。…
【コンゴ民主共和国】より
…コンゴ王国のポルトガルに対する態度はきわめて友好的で,当時の王(マニ・コンゴMani Kongoと呼ばれた)ヌジンガ・ヌクウNzinga Nkuwu(在位?‐1506)は自らポルトガル名を採用してジョアン1世と称し,ポルトガルと外交関係を開いた。その後継者ヌジンガ・ムベンバ([アフォンソ1世]。在位1506‐45)はさらに熱心な欧化主義者で,キリスト教に入信し,ポルトガル語を学習し,臣下の高官に爵位を授け,欧風の宮殿を建て,キリスト教会や学校を造り,首都ムバンザ・コンゴをサン・サルバドルと改名したほか,王子をローマ教皇のもとへ派遣するなど,きわめて積極的な欧化政策を採用した。…
※「アフォンソ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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