アフリカ・バンバータ(読み)あふりかばんばーた(その他表記)Afrika Bambaataa

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフリカ・バンバータ」の意味・わかりやすい解説

アフリカ・バンバータ
あふりかばんばーた
Afrika Bambaataa
(1960― )

ラップ・ミュージックの先駆者的な役割を担ったアメリカのDJラッパー。本名ケビン・ドノバンKevin Donovan。

 ラップの勃興期だった1977年に、ホームタウンであるニューヨーク市のサウス・ブロンクス地区でDJを始める。当時のアフリカ・バンバータは、DJクール・ハークDJ Kool Herc(1954― )やグランドマスター・フラッシュといった仲間たちとともに、カリブからの移民の多いこの貧しい地区でラップやブレイク・ダンスを発展させた一人だった。それ以前は地域のギャング団に所属していたが、一説によれば彼は、暴力や争いをやめて自分たちが作り出した新しい文化「ヒップ・ホップ」で、互いが「競いあい」「高めあう」ことを提唱したといわれている。

 バンバータがポップ・ミュージックの表舞台に登場するのは1980年代に入ってからで、彼のラップ・チーム、ソウル・ソニックフォースが「プラネット・ロック」(1982)をヒットさせたことがきっかけだった。「プラネット・ロック」は、当時の西ドイツテクノグループクラフトワークの音楽を下敷きにした、ラップとしては画期的な作品で、そこにはDJとしてさまざまな音楽に深くかかわってきたバンバータならではのセンスが発揮されていた。

 バンバータはこのヒット以後、ブロンクス出身の若手ミュージシャンたちのリーダー的な役割をつとめ、当時は人気に陰りがみえていたソウル・ミュージックの大御所ジェームズ・ブラウンを自分たちのルーツであるとして共演し、若いヒップ・ホップ世代にブラウンの功績を認めさせた。また、パンク、ニュー・ウェーブのミュージシャン、ジョン・ライドンJohn Lydon(1956― )とも共演し、話題をよんだ。こういう意外性のある活動は、レコードをかけるDJが演奏家の代わりをするというラップ、ヒップ・ホップ独特の画期的な発想とも共通するものだった。

 1988年にはイギリスのUB40やボーイ・ジョージBoy George(1961― )らとも共演したが、ミュージシャンとしての人気は1980年代なかばまでがピークだった。

 彼の後輩としてデ・ラ・ソウル、トライブ・コールド・クエスト、ジャングル・ブラザーズといったラップ史に名を残す優れたグループが活躍している。

藤田 正]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android