日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
グランドマスター・フラッシュ
ぐらんどますたーふらっしゅ
Grandmaster Flash
(1958― )
アメリカのクラブDJ、プロデューサー。本名ジョセフ・サドラーJoseph Saddler。DJとしてグループ、フューリアス・ファイブを率い、初期ラップ・ミュージックの革新を行った。西インド諸島バルバドスに生まれ、ニューヨークへ移住してきたカリブ系移民の子である。
幼いころから音楽好きだったフラッシュは、回転スピードを自由に調整できるターンテーブル(Technics SL-20)を手に入れたことをきっかけに、レコードに刻まれたビートを何度も繰り返したり、そのビートにあわせて仲間にしゃべらせたり(のちのラップ・ミュージック)して遊んでいるうちに、レコードが「聴くだけのもの」ではなく「演奏する道具」としても使えることに気づく。
1970年代なかば、フラッシュが暮らしていたニューヨーク市ブロンクス地区では、彼のようなDJやラッパーの卵が少しずつ誕生していた。金のない同地区の青年たちは、近所の空き地や広場でダンス・パーティーを開いたが、その中心となったのがジャマイカ系移民のDJクール・ハークDJ Kool Herc(1955― )やフラッシュたちDJである。フラッシュはターンテーブルを駆使し、さまざまな音のミックスや複雑なスクラッチ音を出すだけでなく、手や足など全身を使って「演奏」し踊った。
ラップがしだいに注目を浴びてきた1979年、フラッシュと彼の下に集まったフューリアス・ファイブは、デビュー・シングル「スーパーラッピン」を発表する。「フリーダム」「ザ・バースデイ・パーティ」がなどのヒットがこれに続いたが、フラッシュの驚異的なDJテクニックは「ジ・アドベンチャー・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ホイールズ・オブ・スティール」(1981)というシングルで決定的になる。また、勃興(ぼっこう)期のラップやDJを撮影した映画『ワイルド・スタイル』(1982、チャーリー・エーハーンCharlie Ahearn監督)の実演映像により彼の技術はさらに世界に広まり、シュガーヒル・ギャングらのラップ・ミュージックのヒットの後ろに、フラッシュのような改革者がいることを知らしめることになった。
グループの活動としては、1982年の「ザ・メッセージ」のヒットが重要である。それまで恋愛話やパーティー用の軽妙な内容が大半だったラップにあって、この曲はラップがアメリカの貧しい層から生まれ出たものであることを正面切って訴える内容をもっていた。この曲のヒットを機に、ラップはパブリック・エナミーに代表されるような人種問題のほか、アメリカの社会問題を告発するハードなメディアとしての機能をもつようになったのである。
しかしこのヒットはグループ全体の録音ではなかった。中心になったのはメンバーのメリー・メルMelle Mel(1962― )と所属レコード会社シュガーヒルのセッションマンのデューク・ブーティDuke Bootee(1951―2021)であり、これが火種となってチームは分裂状態に陥ってしまう。それ以後、フラッシュはソロ・アルバムを出すなどの活動を行ってきたものの、内容は1980年代初頭に世界に与えた衝撃からは遠い。
[藤田 正]