ブラウン(読み)ぶらうん(英語表記)Charles Brockden Brown

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン(James Brown)
ぶらうん
James Brown
(1933―2006)

アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。黒人ボーカリストの代名詞ともいうべきスターであり、1950年代以降、何度か浮き沈みはあったものの、つねに第一線で活動し、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」の称号をほしいままにする人物であった。

 ジョージア州メーコンの貧しい家庭に生まれる。10代のころは強盗をはたらき、矯正施設に入れられたこともあった。荒れた生活を救ってくれたのが大好きだった音楽で、仲間のボビー・バードBobby Byrd(1934―2007)と1955年グループを結成し、まずザ・フレームズを名のり、次にフェーマス・フレームズへと発展していった。

 ブラウンは当時からゴスペル・ソングに影響されたエネルギッシュなボーカルを得意としていた。1956年に発売されたデビュー作「プリーズ・プリーズ・プリーズ」も、教会の熱狂が最高潮に達したときの高揚感をラブ・ソングへみごとに移しかえたものである。しかしこのころのブラウンは、歌手としての実力はあってもなかなかヒットが出なかった。「プリーズ…」に続くヒットは、2年も後の1958年の「トライ・ミー」で、このバラードはリズム・アンド・ブルース・チャートの1位に輝いた。

 1960年代に入り、ブラウンはバンドのリズム改革を始める。当時のリズムの主流はブギ・ウギの流れをくむビートから、よりビートの強い各楽器のリズムが絡みあうアフリカ系ポリリズム(複合リズム)へと変わりつつあった。これがのちにファンクとよばれるものである。ブラウンはこういった黒人音楽の変化を鋭く察知し、自分たちがその先頭に立とうとしたのだった。1960年の作品「シンク」あたりでは、まだその変化ははっきりとはしないものの、「ビウィルダード」(1961)、「プリズナー・オブ・ラブ」(1963)といった得意のバラードをはさみ、1964年のダンス・ナンバー「アウト・オブ・サイト」になると、ブラウンを中心としてすべての楽器や肉声が大中小さまざまな打楽器のアンサンブルのようになった。そして「パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ」(1965)、「コールド・スウェット」(1967)、「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック&プラウド」(1968)などの歴史的なファンク作品を立て続けに発表していった。1970年には、10年後のラップの出現を予言したともいわれる作品「ブラザー・ラップ」に加え、ブラウン・ミュージックの金字塔「セックス・マシーン」が発売されている。

 このようなブラウンのヒット曲のアイディアやエネルギーは、すべて黒人社会から吸収したものだった。上記の作品にしても、路上で生活する者たち(「セックス…」)、薬物(「コールド…」)、黒人としての誇り(「セイ・イット…」「ブラザー…」)と、黒人社会の言葉と文化が濃厚に反映されている。ブラウンは、子供のころから培(つちか)われた自立と反逆の精神をもとに、同胞の黒人に対して「仲間よ立ち上がるのだ」と音楽でメッセージを送り続けていたのである。1968年に公民権運動の指導者であったキング牧師が暗殺された際、ブラウンがラジオに登場し、全米の怒れる黒人たちに向かって冷静でいることを訴えたという逸話からも、この時期の彼がどれほど黒人社会で支持されていたかがわかる。

 黄金期のブラウンを支えたのがJBズというバック・バンドだった。このバンドには多くのミュージシャンが出入りしたが、そのなかではアルト・サックスのメイシオ・パーカーMaceo Parker(1943― )、トロンボーンのフレッド・ウェズリーFred Wesley(1944― )、ベースのブーツィ・コリンズBootsy Collins(1951― )らが、その後もジョージ・クリントンの傘下に入るなど話題の多い活動をしている。

 1970年代に入って、ブラウンの勢いにも少しずつ陰りがみえ始めた。時代はファンクから比べればずっと単調なディスコ・ミュージック・ブームにさしかかり、ブラウンも時代の波にのみ込まれていった。だがこの時期のブラウンを一変させたのが、ラッパーのアフリカ・バンバータだった。バンバータはブラウンを自分たちのルーツであるといい、シングル「ユニティ」(1984)で共演、これが皮切りとなり映画『ロッキー4』(1985、シルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )監督)に使われた「リビング・イン・アメリカ」の大ヒットでふたたびスターの座に返り咲いた。その後、妻への暴行事件による2年間の投獄やセクハラ裁判など、ときおり私生活の暗部が顔を出したが、晩年まで昔と変わらないたくましく力強いステージを続けた。

[藤田 正]

『ジェームス・ブラウン、ブルース・タッカー著、山形浩生訳『俺がJBだ! ジェームス・ブラウン自叙伝』(1993・JICC出版局)』


ブラウン(Clifford Brown)
ぶらうん
Clifford Brown
(1930―1956)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。デラウェア州ウィルミントン生まれ。トランペット、ピアノなど多くの楽器奏法に通じる父親から13歳のときトランペットを贈られる。地元のハワード高校でジャズの普及に尽くす音楽教師からトランペット、ピアノなどの楽器奏法、和声法、作曲・編曲法を学び、短期間で才能を発揮する。このころから彼は「ブラウニー」の愛称で親しまれる。

 1948年、デラウェア州立大学に奨学生として進学するが音楽学部がなく数学を専攻。近距離にある大都市フィラデルフィアの、クラブでのセッションに参加。トランペット奏者のファッツ・ナバロFats Navarro(1923―1950)、マイルス・デービス、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972)、ドラム奏者のマックス・ローチといった、当時の最新鋭ジャズ・スタイル「ビ・バップ」の若手ミュージシャンたちと共演の機会を得るとともに、尊敬するナバロから激励され彼のスタイルに傾倒する。

 1949年トランペット奏者でビ・バップの立役者のディジー・ガレスピーがフィラデルフィア公演を行った際、ブラウンは臨時メンバーに採用された。そのただならぬ才能にガレスピーは驚き、プロ・ミュージシャンへの道を勧める。同年ブラウンはメリーランド州立大学の音楽学部に奨学生として入学、学生バンドに加わって演奏する。1950年交通事故に遭い1年間療養を余儀なくされる。1951年、回復とともに学業を離れプロ・ミュージシャンの道を歩み出す。同年短期間ながらビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共演し、パーカーをも驚嘆させる。1952年ドラム奏者、歌手のクリス・パウエルChris Powellのバンド「ブルー・フレーム」に加わり、初レコーディング(後に、1956年のブラウン最後の演奏とともに『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』(1952~1956)に収録される)を経験する。1953年ニューヨークを訪れ、ブルーノート・レコードのプロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―1987)の勧めにより早速レコーディングを行い『メモリアル・アルバム』(1953)を制作、ブラウンの初リーダー作となる。同年、編曲者・ピアノ奏者タッド・ダメロンTadd Dameron(1917―1965)のバンドに参加。ついでビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、ヨーロッパ・ツアーの折にハンプトンの目を盗んでレコーディングをし、アルバム『パリ・コレクション』(1953)を制作。1954年ドラム奏者アート・ブレーキーのセッションに参加し、ビ・バップを発展、洗練させた形態である「ハード・バップ」の誕生を告げる歴史的アルバム『バードランドの夜』を録音。同年ロサンゼルスでローチと双頭バンドを結成、この年のジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票により、トランペット新人部門第1位に選ばれる。またエマーシー・レコードと専属契約を結び多くの傑作を録音する。1956年フィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故により25歳8か月の生涯を終える。

 代表作は『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(1954~1955)、『スタディ・イン・ブラウン』(1955)、『アット・ベイズン・ストリート』(1956)。彼はガレスピー、ナバロらビ・バップ・トランペッター主流派の系譜に連なり、その卓越した演奏技術と輝くような音色はジャズ・トランペッターの理想とまでの高い評価を受けている。彼の率いた双頭バンドは、同時期のマイルス・デービス・クインテットと並んで、ハード・バップ・コンボの定型を作り上げた。また、リー・モーガン、ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)など多くのハード・バップ・トランペッターが彼の影響を受けている。

[後藤雅洋]


ブラウン(Alexander Braun)
ぶらうん
Alexander Braun
(1805―1877)

ドイツの植物学者。レーゲンスブルク生まれ。カールスルーエ、フライブルク、ギーセン、ベルリンの各大学の教授および植物園長を歴任した。淡水産の藻類のほか、とくにいわゆる顕花植物の研究に力を注ぎ、コケ植物の分類学的位置を明らかにしたうえ、裸子植物・被子植物、双子葉植物・単子葉植物の系統上の位置を明らかにした。この見方は同じドイツのアイヒラーAugust Wilhelm Eichler(1839―1887)やエングラーによって受け継がれ、近代的な植物系統分類学の基礎となった。そのほか、シンパーとともに葉序の配列について解析し、古典的に有名なシンパー‐ブラウンの法則を発見した。哲学者F・W・シェリングの自然哲学の影響を受けていたといわれる。

[佐藤七郎]


ブラウン(Robert Brown、植物学者)
ぶらうん
Robert Brown
(1773―1858)

イギリスの植物学者。スコットランドの牧師の子として生まれ、エジンバラ大学で医学を修めて軍医となる。植物学に興味をもち、博物学者バンクスJ. Banks(1743―1820)の推挙でイギリス海軍の探検船に乗り組み(1801~1805)、南アフリカ、オーストラリア、タスマニア地方の植物を調査して約4000種の標本を持ち帰った。ロンドンのリンネ協会の司書(1806~1822)、バンクスの蔵書や標本の管理者(1810~1820)を務めながら、オーストラリアの植物の記載・分類を行った。バンクスの死後、彼のコレクションが大英博物館に遺贈されるに伴い、ブラウンは同博物館植物学部長となり(1827)、死ぬまでその地位にあった。バンクスが残した家に住み、生涯独身であった。新しい属や科を記載することによって植物分類法を改良し、心皮の有無によって被子植物と裸子植物を明確に区別した。1827年、花粉内部の小顆粒(かりゅう)の不規則な運動(ブラウン運動)をみいだし、同様な運動は水中に浮遊する非生物的な微粒子でもみられることを確かめた。1831年には、植物の生細胞中に1個の核があることを明らかにした。

[檜木田辰彦]


ブラウン(Karl Ferdinand Braun)
ぶらうん
Karl Ferdinand Braun
(1850―1918)

ドイツの物理学者。ヘッセン州フルダの生まれ。マールブルクで学んだのち、1872年棒や弦の弾性振動の研究で学位を取得した。ウュルツブルク、ライプツィヒ、マールブルク、カールスルーエ、チュービンゲンの各大学に勤めたのち、1895年ストラスブール大学の物理学教授・物理学研究所所長となった。1874年鉱物性金属硫化物が一方向のみに電流を伝える性質をもつことを発見(鉱石検波器の原理)、1887年にはル・シャトリエと独立に平衡移動の法則に到達した。その後、電磁気学的研究を進め、1897年には陰極線管をもとに各種の電磁現象を調べるブラウン管(オシロスコープ)を発明した。また送信距離に限界をもつヘルツ発振器(火花放電による)の問題点を指摘、変圧効果によりアンテナと発振器とが同調する無線システムをはじめ、傾斜ビームアンテナなどを開発した。1909年マルコーニとともに無線通信の研究によりノーベル物理学賞を受けた。なおラジオ放送に関する訴訟でアメリカに渡ったが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)のため帰国できず、客死した。

[兵藤友博]


ブラウン(Michael Stuart Brown)
ぶらうん
Michael Stuart Brown
(1941― )

アメリカの遺伝学者。ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。ペンシルベニア大学で化学を学び、1962年に卒業、同大学で1966年に医学博士号を取得した。同年ボストンのマサチューセッツ総合病院で内科のインターンとして勤務し、1968年にアメリカ国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)で遺伝病の臨床研究員となった。1971年テキサス大学サウスウェスタン医学校に移り、1974年同校の準教授となり、1976年教授に昇格、1977年遺伝学教授および遺伝病センター所長に就任した。

 ともにコレステロールの研究を行ったJ・L・ゴールドステインとは、マサチューセッツ総合病院時代以来の長期間にわたる共同研究者であった。彼らは、生体内でコレステロールが生成される際の酵素の調整作用に注目し、とくに遺伝疾患である家族性高コレステロール血症について研究を進めた。そしてコレステロールの合成が、LDL(low-density lipoprotein、低比重リポタンパク)レセプターによって統御されているメカニズムを解明した。さらに、このメカニズムは遺伝子によってコントロールされ、遺伝子異常が家族性高コレステロール血症を引き起こすことも明らかにした。この業績によってブラウンは、ゴールドステインとともに1985年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

[編集部]


ブラウン(Herbert Charles Brown)
ぶらうん
Herbert Charles Brown
(1912―2004)

アメリカの化学者。ロンドンに生まれる。2歳のときに両親とともにアメリカのシカゴに移住した。14歳で父を亡くし、苦学してシカゴ大学で化学を学び、1935年にアメリカの市民権を、また1938年に博士号を取得した。シカゴ大学で助手を務めたのち、1943年ウェイン大学に移り1946年準教授になった。翌1947年にパーデュー大学の無機化学教授となり、1978年まで務めた。

 ブラウンは、シカゴ大学時代からホウ素の化学的研究に取り組み、水素化ホウ素ナトリウムNaBH4を発見、それが有機化合物に対して優れた還元力をもつことをみいだした。この化合物は、その後広く還元試薬として利用されている。また、ジボランB2H6の簡単な合成法を発見し、さらにジボランを不飽和炭化水素に反応させ、オルガノボランを合成することに成功した。これはハイドロボレーション反応とよばれ、有機合成において大きな利用価値をもつものであった。これらの業績により、1979年にノーベル化学賞を受賞した。ドイツの化学者ウィッティヒとの同時受賞であった。

[編集部 2018年10月19日]


ブラウン(Charles Brockden Brown)
ぶらうん
Charles Brockden Brown
(1771―1810)

アメリカの小説家。アメリカ最初の職業的小説家としてゴシック(恐怖)小説、心理小説を書き、後のポーやホーソンの先駆となった。『ウィーランド』(1798)では腹話術の声に操られた宗教的狂信者が描かれ、『オーモンド』(1799)では、倫理から解放されたと過信した殺人犯が、犯そうとした女に殺される。『エドガー・ハントリー』(1799)では、殺人、夢遊病、精神錯乱、アメリカライオンとの遭遇、インディアン相手の戦いなどが描かれ、次の『アーサー・マービン』(1799、1800)では、フィラデルフィアの黄熱病流行を背景に、殺人、裏切り、誘惑、自殺未遂、病死などが描かれる。そのほか、女性の結婚を扱った『クララ・ハワード』(1801)と『ジェイン・タルボット』(1801)がある。彼の小説は、異常心理、暗い感情の緊張、恐怖、殺人などの犯罪、そのほか異常なできごとの写実的描写を特色とするが、イギリスのW・ゴドウィンの思想と小説からの影響は否めないものの、ヨーロッパ風のゴシック小説からの脱却、S・リチャードソンにみられない知的女性像の創造など、アメリカ小説史上の意義は大きい。だが、小説としてクライマックスに迫力がなく、プロットのまとまりを欠く欠点がある。ほかに『月刊アメリカ評論』『文芸とアメリカの記録』を編集し、自ら短編小説や文芸批評を掲げた。アメリカの短編・批評の先駆者としても重要な存在である。

[松山信直]

『八木敏雄訳『ゴシック叢書10 エドガー・ハントリー』(1979・国書刊行会)』


ブラウン(Gordon Brown)
ぶらうん
Gordon Brown
(1951― )

イギリスの政治家。イギリス北部スコットランドの牧師の家に生まれた。「経済学の父」アダム・スミスの故郷で、リノリウム製造が盛んだった鉱工業都市カーコルディで青少年期を過ごし、エジンバラ大学に入学、歴史学を専攻。入学直前、ラグビー中のけがが原因で網膜剥離(はくり)となり、左目の視力を失ったが、優秀な成績で卒業、後に博士号も取得した。1976年からエジンバラ大学などで講師を務め、1980年にはスコットランド・テレビの記者となった。

 サッチャー保守党政権時代の1983年に、労働党から下院議員に初当選。当初はサッチャー政権の国有企業民営化に反対するなど伝統的左派イデオロギーの信奉者だったが、やがて現実主義路線に転換。1997年に、旧来の左翼でもなく、新自由主義でもない「第三の道」を掲げるブレア労働党政権が成立すると、財務相となり、イングランド銀行に金利決定権をゆだねる自由主義的な政策を発表した。イギリス近代史上において、財務相の在任期間は最長を誇る。2007年6月ブレア首相の退任に伴い首相に就任。2008年の経済・金融危機以来、経済・雇用状況が低迷、また財政赤字の削減が進展しないなかで行われた2010年5月の総選挙で大敗し、第一党の座を保守党に明け渡し退陣。


[宮明 敬]


ブラウン(Ernest William Brown)
ぶらうん
Ernest William Brown
(1866―1938)

イギリス出身のアメリカの天文学者。月の運行表の作製者。ハルに生まれ、ケンブリッジ大学でG・ダーウィンに天体力学を学び、1887年卒業。1889年より特別研究員となったが、1891年にアメリカに渡り、ペンシルベニア州立大学で数学教授に就任、1907年にエール大学数学教授に転じた。そして先達者ヒルGeorge W. Hill(1838―1914)の後継として、月の運行の理論的研究に専念し、1919年その計算方法に基づく『月運行表』を編成した。月の運行は摂動の影響を強く受けるので、天体力学のうちでもとりわけ複雑な計算理論を必要とするが、従来の表よりもはるかに精密であった。

[島村福太郎]


ブラウン(Fredric Brown)
ぶらうん
Fredric Brown
(1906―1972)

アメリカのSFと推理小説の作家。オハイオ州シンシナティ市生まれ。SF短編を1941年から書き始めた。軽妙洒脱(しゃだつ)、ぴりっとした風刺とコミックな落ちの利いた作風は当時としては珍しいもので、のちに短編集『天使と宇宙船』(1954)や『未来世界から来た男』(1961)などにまとめられた。短編とショート・ショートの名手であるが、奇抜な着想と巧みなプロット構成は長編においても同様で、異次元テーマの『発狂した宇宙』(1949)、ユーモアSFの『火星人ゴーホーム』(1955)、エーリアン・テーマの『73光年の妖怪(ようかい)』(1961)などの作品がある。SFと並行して推理小説にも手を染め、私立探偵エド・ハンター・シリーズの第一作『シカゴ・ブルース』(1947)でアメリカ推理作家協会賞を受賞し、同シリーズは7編、ほかに15編ほどの長編と短編集『まっ白な嘘(うそ)』(1953)などがある。

[厚木 淳]

『井上一夫訳『73光年の妖怪』(創元推理文庫)』


ブラウン(Sir Thomas Browne、医師、文人)
ぶらうん
Sir Thomas Browne
(1605―1682)

イギリスの医師、文人。ロンドンに生まれ、オックスフォード大学卒業ののち、フランス、イタリア、ドイツの各大学で医学を修める。ヨークシャーで開業後1637年ノリッジへ移る。1671年、医者としての功績でサーの称号を授けられる。旺盛(おうせい)な知識欲と希有(けう)な記憶力の持ち主で、医業のかたわら著述にも励み、『医師の信仰』(1643)など数編の著書がある。『医師の信仰』は信仰と理性の問題を扱い、科学の支配に抗して宗教擁護の立場をとる代表的著作。一般に『迷信論』の名で知られる『伝染性謬見(びゅうけん)』(1646)は、古今の俗間信仰を科学的に、あるいは詭弁(きべん)を弄(ろう)しつつ、博識を駆使して縦横に批判する。偶然発見された骨壺(こつつぼ)をめぐり独自の死生観、霊魂不滅論を展開する『壺葬論』(1658)も、ユニークな主題で注目に価する。しかし、彼の真骨頂は主題の独自性よりも優れた散文スタイルにあり、形而上(けいじじょう)詩に一脈通ずる大胆な措辞は、近年改めて高い評価を受けつつある。

[玉泉八州男]

『堀大司訳『医師の信仰』(『世界人生論全集4』所収・1963・筑摩書房)』


ブラウン(Samuel Robbins Brown)
ぶらうん
Samuel Robbins Brown
(1810―1880)

アメリカの改革派(オランダ系)宣教師。中国と日本で伝道活動をした。1859年(安政6)来日して数か所で教えたのち、一時帰国。再来日して、1873年(明治6)横浜の山手(やまて)にブラウン塾を開き、英学と神学を教えて横浜バンドの青年たち(植村正久や本多庸一(ほんだよういつ)ら)を育成した。

[川又志朗 2018年2月16日]


ブラウン(Robert Browne、会衆派の創始者)
ぶらうん
Robert Browne
(1550ころ―1633)

イングランドの分離主義者Separatistで会衆派Congregationalismの創始者。ケンブリッジ大学での学業のあと、イギリス国教会(イングランド教会)を批判する過激な説教をしたため、数回の投獄を体験する。移住先のオランダで執筆した論文「ためらうことなく改革を」(1582)に「ブラウン主義」と評価される思想を展開した。ここには初代教会への回帰志向が記述されている。教会を自覚的信仰者の自由な交わりと規定し、自律的な教会訓練を施し聖職者を選ぶべきだと考え、敬虔(けいけん)主義Pietismの先駆をなした。のち仲間から離脱し、国教会の叙任を受け(1591)、42年間聖職禄(ろく)を得たが、獄死説もある。

[川又志朗 2018年1月19日]


ブラウン(Thomas Brown、哲学者)
ぶらうん
Thomas Brown
(1778―1820)

イギリスの哲学者。エジンバラ大学教授を務めた。スコットランド常識学派に属するが、ヒューム、ミルらの伝統との中間的立場を代表する。彼は一方で、ヒュームより進んで因果関係を対象間の斉一的継起と断定するが、他方、外的存在の知識の場合と同様、因果的認識を直覚的、本能的な信念で基礎づける。また、筋肉と触覚の感覚を分け、心的能力の別を能力心理学的でなく、心的なできごとの類型の差とみたのも彼の特色である。著作には、ヒュームの因果論の検討(1805)や『人間精神哲学講』(1820)などがある。

[杖下隆英 2015年7月21日]


ブラウン(Joseph Rogers Brown)
ぶらうん
Joseph Rogers Brown
(1810―1876)

アメリカの機械技術者。ロード・アイランド州のプロビデンスに生まれる。父も機械工場主であった。1853年ブラウン‐シャープ社(2001年ヘクサゴンABグループにより買収)を創立し、有力な工作機械メーカーに発展させた。測定器具や工作機械の改良に貢献したが、ブラウンが設計しブラウン‐シャープ社が製作した機械は、万能割出し台を備え、螺旋(らせん)状の切削操作、歯車の切削、その他の工程に応じられるもので、万能フライス盤として機械工作技術に革命的な影響を与えた。没後、自動歯切り盤が彼の社で製作された。

[山崎俊雄]


ブラウン(John Brown)
ぶらうん
John Brown
(1735―1788)

イギリスの医学者。スコットランドのバーウィックシャー生まれ。エジンバラ大学に入学し、苦学して医学を修めた。同大学の内科学教授カレンWilliam Cullen(1710―1790)の手厚い庇護(ひご)を受けたが、のちにこれに背き、1779年、44歳のときにようやく学業を終えた。1780年に『医学原理』Elementa Medicinaeを著し、独自の医学理論を明らかにした。彼の理論の要点は興奮性ということにあり、生活体はすべてこれを有しており、健康時にはこれが中等度であって、過度か不足のときには病気であると説いた。そして病気の治療には、アヘン剤やウイスキーなどを好んで使用した。

[大鳥蘭三郎]


ブラウン(Nathan Brown)
ぶらうん
Nathan Brown
(1807―1886)

アメリカのバプティスト派の宣教師。来日前はビルマ(現、ミャンマー)とアッサムで22年間伝道し、『新約聖書』のアッサム語訳を完成。1873年(明治6)同派のゴーブルJonathan Goble(1827―1896)とともに来日し、横浜の山手(やまて)に日本最初のバプティスト教会を創立、死去するまで牧師を務めるかたわら、独力で『新約聖書』の日本語訳を進め、ヘボンらの共同訳より早く1880年に完成した。横浜外国人墓地にある墓碑にはGod bless the Japaneseと刻まれている。

[川又志朗 2018年2月16日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン
Brown, Robert

[生]1773.12.21. アンガス,モントローズ
[没]1858.6.10. ロンドン
スコットランドの植物学者。エディンバラで医学を学んだのち,軍医となってアイルランドで服務。 1798年ロンドンを訪れ,当時ロイヤル・ソサエティの会長であった J.バンクスの知遇得た。彼のすすめでオーストラリア探検隊に参加し (1801~05) ,約 4000種の植物を採集。帰国後,それを分類して『オーストラリアの植物』 Prodromus Florae Novae Hollandiaeを著わす (10) 。また,花粉の形が植物を分類するための手掛りを与えることを示した。 1810年バンクスの私設図書館の館員となり,20年彼の植物コレクションを遺贈される。 27年大英博物館に新しく設けられた植物科の管理者となり,バンクスのコレクションをそこへ移す。同年,花の受精を顕微鏡観察している最中,水面に浮んだ花粉粒から出た小粒子が激しい振動運動を行うことに気づき,さらに採集後 100年を経ている植物標本からとった花粉粒の小粒子あるいは無機物の微粒子でさえも,水面で同じように運動することを見つけた。この現象は,その後物理学の研究対象となり,今日ブラウン運動の名で知られている。 31年,ランの受精を研究中に細胞の中に特定の構造が存在することを認め,それを核と名づけた。この発見は細胞内部の構造に対する生物学者たちの関心を高める結果となり,細胞学の興隆にとって,礎石の一つとなった。

ブラウン
Brown, George

[生]1818.11.29. エディンバラ
[没]1880.5.9. トロント
カナダの政治家。 1837年ニューヨークに移住し,43年にトロントへ移った。 44年に週刊紙『グローブ』 (のちに日刊紙となる) を創刊。この紙上において自由主義的見解や政教分離の主張,カトリック教会の影響力への攻撃,カナダ東部と西部の地域代表制による連合カナダ植民地議会ではなく,「人口比代表制」による議会改革案を展開した。カナダ東部 (現ケベック州) からは敵視されたが,カナダ西部 (現オンタリオ州) の農民,特にクリア・グリットからは絶大な支持を得,『グローブ』紙はカナダのジャーナリズムの歴史に一時期を画する人気と影響力を得た。カナダ西部の改革派を代表して 51年連合カナダ植民地下院に選出され,58年8月にはわずか2日間ではあったが A.ドリオンと組んで組閣した。北アメリカにおける植民地の連合には原則的に賛成していたが,保守派の J. A.マクドナルドと協働できなかったのを,64年6月の「大連立内閣」にマクドナルドとそろって入閣したことが,コンフェデレーション実現のきっかけとなった。

ブラウン
Brown, Gordon

[生]1951.2.20. グラスゴー
イギリスの政治家。首相(在任 2007~10)。フルネーム James Gordon Brown。16歳で奨学生としてエディンバラ大学に入学し,1972年卒業。大学講師,スコティッシュ・テレビの記者兼編集者を経て 1983年下院初当選。トニー・ブレアと親交を結び,労働党の政治理念改革を主導,国家社会主義の実現という旧来の路線から,市場経済との共存を目指す現実路線への転換をはかった。1997年の総選挙で労働党が圧勝すると,ブレア政権の財務大臣に就任。政策金利の決定権をイングランド銀行に移管するなどの改革を行ない,以後 10年にわたる在任期間中のイギリス経済の比較的安定した成長を実現した。ブレア退陣後,2007年無投票で労働党党首に選出され,首相に就任。2008年に起こった世界金融危機以降は国際的リーダーシップを発揮したが,国内での不人気を覆せず,2010年5月の総選挙で労働党が惨敗。13年ぶりに第一党の座を失った責任をとって党首を辞任し,首相職も辞した。

ブラウン
Brown, Lancelot

[生]1716. カークハール
[没]1783.2.6. ロンドン
イギリス 18世紀の自然主義造園の主導者。通称 Capability Brown。 1740年ストウのコバム卿の庭園師となり,W.ケントのもとで自然風の作庭を行うなかから,ケントの創始した非整形式造園を踏襲しつつ独自の様式を開拓。大きなスケールのなかに蛇行する湖と細流,木立ちや樹林帯などの大要素を散在させてつくるまろやかさ,スムーズに連続する変化,静寂さを特徴とする。また,建物も従来のように中心的存在として扱うのではなく,造園と同等の設計要素として位置づけ直して,風景のなかに「ピクチャレスク」に配され眺められる対象物となるよう,弟子の H.ホランドとともにパラディオ風の建築を多く建てた。クルーム・コート (1751~52) やクレアモント・ハウス (69~72) はその例。作庭例はドディントン・パーク (64) ,ブレニム宮庭園 (63) ,アシュバーナム (67) など 200近い。

ブラウン
Braun, Wernher von

[生]1912.3.23. ウィルジッツ
[没]1977.6.16. バージニア,アレクサンドリア
ドイツ生れのロケット工学者。富裕な貴族の家に生れ,1930年ベルリン工科大学在学中から宇宙工学の大家の一人である H.オーベルトの助手をつとめた。 32年ベルリン大学入学,34年に同大学からロケットエンジンの研究で学位取得。その後,軍からの援助でロケット研究を続け,第2次世界大戦末,世界最初の弾道ミサイルV-2を完成。戦後アメリカに帰化 (1955) ,アメリカ陸軍の研究所でロケットの研究を続けた。スプートニクでソ連に先を越されたアメリカが,エクスプローラの打上げでようやく面目を保ったのは,彼のグループの努力の結果であった。その後アメリカ航空宇宙局 NASAの枢要な地位にあって,アポロ計画を手がけ,サターン・ロケットの開発を指揮し,人類を月に送り込むことに成功。 72年 NASAを退き,フェアチャイルド社の技術開発の重役に就任した。

ブラウン
Brown, James

[生]1933.5.3. サウスカロライナ,バーンウェル
[没]2006.12.25. ジョージア,アトランタ
アメリカ合衆国の歌手,作曲家。20世紀のポピュラー音楽界に最も影響を与えた一人で,「ショービジネス界一の働き者」「ソウルのゴッドファーザー」と称された。15歳のときに盗みを働いて教護院に収容され,そこで仲間とゴスペル・グループを結成。釈放後,ロック歌手のリトル・リチャードに見出され,音楽活動を始める。ファーストシングル『プリーズ,プリーズ,プリーズ』(1956)は最終的に 300万枚を売る出世作となった。ヒットチャート入りしたシングルは約 100枚,アルバムは 50枚近く。1960年代には公民権運動を背景に黒人の地位向上を目指すメッセージソングを次々と書く。『コールド・スウェット』(1967)などでダンスブームの火つけ役となった。1980年代にヒップ・ホップの広がりとともにブラウンの曲は再び脚光を浴びた。1986年ロックの殿堂入り。

ブラウン
Brown, Michael S.

[生]1941.4.13. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の分子遺伝学者。フルネーム Michael Stuart Brown。ペンシルバニア大学卒業(1962),同大学で医学博士号を取得(1966)。マサチューセッツ総合病院でジョゼフ・L.ゴールドスタインと出会い,ともに国立衛生研究所 NIHに入所(1968)。テキサス大学医学部に招かれ(1971),1977年から同大学教授,遺伝疾患研究センター所長。家族性高コレステロール血症の患者と一般人との遺伝学的な差異を研究。コレステロールを含む血液中の低密度リポ蛋白質(LDL。→低比重リポタンパク)を細胞に取り込む受容体をつくる遺伝子の欠損が原因であることを発見し,コレステロール代謝の機構を解明した。ゴールドスタインとともに 1985年ノーベル生理学・医学賞を受賞。

ブラウン
Browne, Sir Thomas

[生]1605.10.19. ロンドン
[没]1682.10.19. ノーフォーク,ノリッジ
イギリスの医者。当代随一の散文の名手。オックスフォード大学で古典を修め,モンペリエ,パドバ,ライデンの各大学で医学を学んだ。帰国後ノリッジに定住,『医師の宗教』 Religio Mediciを書いた。この書は神秘主義的な信仰心と懐疑的実証的な科学精神とが奇妙に融合している個人的な手記だが,原稿のまま回覧されるうちに無断で出版 (1642) されたため,翌年みずから定本を出版した。『迷信論 (伝染性謬見) 』 Pseudoxia Epidemica (46) も好評を博したが,彼のラテン的な文体が完成されたのは『壺葬論』 Hydriotaphia,Urne-Buriall,『サイラスの庭』 The Garden of Cyrus (ともに 58) においてで,前者は発掘されたローマの骨壺に寄せて葬礼一般を論じながら,死と人間の名声のはかなさを瞑想したもの,後者はエデンの園から始る園芸の歴史を跡づけたもの。

ブラウン
Brown, Peter

[生]1665頃
[没]1735
イギリスの哲学者。トリニティ・カレッジ入学 (1682) ,同校フェロー (92) ,同校学寮長 (99) 。コークとロスの監督 (1710) 。最初は J.トーランドの『神秘ならざるキリスト教』 Christianity not Mysterious (1696) に対する批判によって有名になったが,さらにロックの観念説を批判し,われわれが精神的なものを知るのは物質的なものとの類比によってであると主張して,バークリーと論争をかわした。主著『人間悟性の所為,範囲および限界』 Procedure,Extent and Limits of the Human Understanding (1728) ,『自然的および人間的事物との類比により概念化させられる神的および超自然的事物』 Things Divine and Supernatural Conceived by Analogy with Things Natural and Human (33) 。

ブラウン
Brown, Herbert Charles

[生]1912.5.22. イギリス,ロンドン
[没]2004.12.19 アメリカ合衆国,インディアナ,ラフェーエット
アメリカ合衆国の有機化学者。2歳のとき渡米。1936年シカゴ大学を卒業後,同大学助手。1938年学位取得。1939年ウェイン大学助教授に就任,1947~78年パーデュ大学教授。シカゴ大学助手時代,ホウ素を研究し,ホウ素化合物ジボランの簡単かつ高収率の合成法を開発,また用途の広い還元試薬水素化ホウ素ナトリウムを発見した。1955年には,炭素二重結合をもつ有機化合物にジボランを反応させて有機ホウ素化合物を合成するなど,新しい合成反応を次々に展開し,有機化学の発展に寄与した。これらの業績により,1959年アメリカ化学会ニコルズ・メダルを受け,1979年ノーベル化学賞をゲオルク・ウィッティヒとともに受賞した。

ブラウン
Brown, Henry Kirke

[生]1814.2.24. マサチューセッツ,ライデン
[没]1886.7.10. ニューヨーク,ニューバーグ
ヘンリー・カーク・ブラウン。アメリカ合衆国の彫刻家。ニューヨークのユニオン・スクエアにある『ワシントン騎馬像』の作者として有名。ボストンで 3年間学んだのち,シンシナティに移り住み,その間の 1837年に初めて大理石の胸像を完成させた。1840年にニューヨーク州のオールバニに移ったのち,1842年から 4年間イタリアに遊学,新古典主義的彫刻を身につけた。1846年の帰国後は『ワシントン騎馬像』の制作に着手した。作品は 1856年7月4日の独立記念日に除幕された。多くの騎馬像を制作し,『リンカーン騎馬像』(リンカーン・スクエア),『復活の天使』(ブルックリン)などがある。甥のヘンリー・カーク・ブッシュ=ブラウン(1857~1935)も彫刻家で,『野牛狩り』,ゲティズバーグの『ミード将軍』や『レイノルズ将軍』の胸像で知られる。

ブラウン
Brown, Jim

[生]1936.2.17. ジョージア,セントシモンズ
アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手。本名 James Nathaniel Brown。NFL史上最も偉大なランニングバック RBと称される。シラキュース大学在学中,アメリカンフットボールとラクロスの全米代表選手として活躍。のちに両競技ともに殿堂入りを果たす。 1957~65年クリーブランド・ブラウンズに在籍し,ラッシングヤードと総獲得ヤードの記録を打ち立てた。この記録は 1984年にウォルター・ペイトンによって破られるまで保持した。また9シーズンの間で8回,リーディングラッシャーのタイトルを獲得。1キャリーあたりの平均獲得ヤード (5.22ヤード) の記録保持者。 30歳の全盛期に引退後,映画俳優に転身。

ブラウン
Brown, John

[生]1800.5.9. コネティカット,トリントン
[没]1859.12.2. バージニア,チャールズタウン
アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷解放運動者としての天命を悟り,1855年息子4人と奴隷州か自由州かでもめるカンザス地方に乗込んでゲリラ活動を展開,翌年5月ポタワトミーで奴隷制支持者5人を虐殺した (→ポタワトミー虐殺 ) 。カンザスを追われ,東部の奴隷制廃止論者の支持を得て,バージニアとメリーランドの山地に自由黒人,逃亡奴隷のための本拠地建設を計画。その一環として 59年 10月「ブラウンの蜂起」を起し,バージニア州ハーパーズフェリーにある連邦武器庫を襲撃して逮捕され,同年 12月絞首刑に処せられた。死後北部の奴隷制反対派から奴隷解放の殉教者,英雄としてあがめられた。

ブラウン
Brown, Francis

[生]1849.12.26. ニューハンプシャー,ハノーバー
[没]1916.10.16. ニューヨーク
アメリカのユニオン・チャーチの牧師,教育者,セム語学者。父はハミルトン・カレッジの学長 (1867~81) をつとめた S.G.ブラウン (13~85) ,祖父は「ダートマス大学事件」当時,同校の学長であった F.ブラウン (1784~1820) 。ダートマス大学,ユニオン神学校を卒業後,ベルリンに留学。 1879年ユニオン神学校の聖書言語学講師,81年助教授,90年ヘブライ語教授,1908年校長。言語学,語彙学の業績に対し,イギリス,アメリカの諸大学から名誉学位を授与された。主著『アッシリア語研究-旧約研究における利用と誤用』 Assyrilogy; its Use and Abuse in old Testament Study (85) 。

ブラウン
Brown, Charles Brockden

[生]1771.1.17. フィラデルフィア
[没]1810.2.22. フィラデルフィア
アメリカの作家。「アメリカ小説の父」といわれる。初め弁護士をしていたが,生来のロマンチックな気質から文筆に転じて,雑誌編集のかたわら翻訳,政治論文などを発表,W.ゴドウィンの影響を受け,またイギリスのゴシック小説にならって人間の異常な心理を巧みに描く恐怖小説を次々と発表,ポーやホーソーンの先駆となった。主著『ウィーランド』 Wieland (1798) ,『オーモンド』 Ormond (1799) ,『エドガー・ハントリー』 Edgar Huntly (1799) ,『アーサー・マービン』 Arthur Mervyn (1799~1800) など。

ブラウン
Brown, Samuel Robbins

[生]1810.6.16.
[没]1880.6.20.
アメリカのオランダ改革派宣教師。マカオに伝道 (1839~47) ののち来日して横浜に英語塾を開き,英語教育にあたった。『日本語の会話書』 Colloquial Japanese (63) を出版。一時帰国,1869年再来日して横浜の修文館で英語を教え,またブラウン塾を開いて日本の教会の指導者となった本多庸一植村正久井深梶之助押川方義らに神学を教えた。また新約聖書の日本語訳にも貢献した。

ブラウン
Braun, Karl Ferdinand

[生]1850.6.6. ヘッセン,フルダ
[没]1918.4.20. ニューヨーク
ドイツの物理学者。マールブルク大学,ベルリン大学に学び,1872年学位を得た。ウュルツブルク,マールブルク各大学を経て,テュービンゲン大学教授 (1885) ,シュトラスブルク大学教授 (95) 。熱力学などを研究したのち,74年整流作用をもつ結晶を発見,97年にはブラウン管を発明。 1909年 G.マルコーニとともにノーベル物理学賞受賞。第1次世界大戦中アメリカを訪れ,アメリカの参戦により抑留されたまま死亡した。

ブラウン
Brown, George Alfred

[生]1914.9.2. ロンドン
[没]1985.6.2. コーンウォール
イギリスの政治家。トラック運転手の子として生れ,労働組合運動に参加,のち労働党の実力者となった。 1945年下院議員,51年に公共事業相として入閣,60~70年労働党副党首。 64年労働党の H.ウィルソン内閣の経済相,66年8月外相。熱心なヨーロッパ統合運動の推進者で,外相在任中ヨーロッパ共同体 EC6ヵ国を歴訪し,67年イギリスの EC加盟 (第2回) を申請した。ウィルソン首相と衝突して 68年3月辞任。 70年6月の総選挙で落選し,上院議員に任ぜられた。同年ジョージ=ブラウン George-Brownに改姓。

ブラウン
Brown, Ernest William

[生]1866.11.29. ハル
[没]1938.7.22. コネティカット,ニューヘーブン
アメリカの天文学者。ケンブリッジ大学卒業。 1891年アメリカに渡り,のちハバーフォード大学教授 (1893) ,エール大学教授 (1907) 。月の運動理論を三体問題として研究し,1919年従来の5倍も詳しい月の位置表を完成。ほかにトロヤ群の相互作用,冥王星の天王星,海王星に対する引力効果の研究がある。ロイヤル・ソサエティ会員 (1897) ,14年同ソサエティのロイヤル・メダル受賞。アメリカ科学アカデミー会員 (23) ,37年同アカデミー,ワトソン・メダル受賞。

ブラウン
Brown, Olympia

[生]1835.1.5. ミシガン,プレーリーロンド
[没]1926.10.23. メリーランド,ボルティモア
アメリカ合衆国の女権拡張論者。1863年ユニバーサリスト教会の牧師に任命され,アメリカで初の女性牧師となった。1866年スーザン・B.アンソニーと出会い,その後女性参政権獲得のため奮闘。1873年の結婚以後も旧姓を保持した。1887年から 30年間ウィスコンシン女性参政権協会会長。

ブラウン
Brown, Hubert Gerald (Rap)

[生]1943.10.4. ルイジアナ,バトンルージュ
アメリカ合衆国の黒人運動指導者。サザン大学在学中に学生非暴力調整委員会 SNCCに加わり,公民権運動で活躍。1967年ストークリー・カーマイケルの跡を継いで SNCCの委員長に就任,暴力の必要性を公然と主張するなど黒人の闘争をいっそう過激な方向に導いた。幾度も逮捕されたのち亡命。著書 "Die, Nigger, Die!"(1969)。

ブラウン
Braun, Felix

[生]1885.11.4. ウィーン
[没]1973.11.29. クロスターノイブルク
オーストリアの詩人,小説家。ホーフマンスタールの影響のもとに印象主義詩人として出発。『新生』 Das neue Leben (1913) などの詩集のほか,1910年代のオーストリアを象徴的に描いた小説『アグネス・アルトキルヒナー』 Agnes Altkirchner (27) や詩劇がある。 1939年ロンドンに亡命。ウェルフェル以後のオーストリア詩壇の第一人者と目される。

ブラウン
Brown, John

[生]1735. スコットランド,バンクル
[没]1788.10.17. ロンドン
イギリスの医師。すべての病気は外的刺激に対する身体の反応 (興奮性) の過不足によって起り,治療法も鎮静と興奮の2方法があるだけと主張した。王立医師会会長を2度もつとめたが,彼の説には反対者が多く,借金と貧窮のうちにみずからも2つの薬,アヘンとアルコールを飲みすぎて自説の犠牲者となり,死期を早めた。しかし,生命現象を刺激に対する反応としてとらえ,その所在を筋肉と神経としたブラウン説は,その後の医学界に大きな影響を与えた。

ブラウン
Brown, Jacob Jennings

[生]1775.5.9. ペンシルバニア,バックス
[没]1828.2.24.
アメリカの軍人。 1798~1800年 A.ハミルトンの軍事関係秘書。 10年ニューヨーク州民兵軍の准将,12年のアメリカ=イギリス戦争ではニューヨーク州のフロンティアで活躍。 14年アメリカ陸軍の准将となり,カナダ侵攻作戦を試みチッペワとナイアガラで勝利を得たが,海軍の支援がなく失敗に終った。

ブラウン
Brown, Thomas

[生]1778.1.9. カーマブレック
[没]1820.4.2. ブロンプトン
イギリスの哲学者。スコットランド学派 (→常識哲学 ) に属する。 1810年エディンバラ大学教授。 D.ヒューム,T.リード,E.コンディヤックの影響を受け,連想心理学の確立に貢献。主著『人間精神の哲学』 Lectures on the Philosophy of the Human Mind (4巻,1820) 。

ブラウン
Brown, Nathan

[生]1807.6.22.
[没]1886.1.1. 横浜
アメリカのバプテスト派宣教師。ビルマ,アッサムで伝道活動のかたわら新約聖書をアッサム語に翻訳した (1848) 。帰米後奴隷解放運動に尽力。のち J.ゴーブルとともに来日 (73) して横浜バプテスト教会を創立。新約聖書の共同翻訳委員となったが,他派の宣教師と訳語をめぐって意見を異にし,単独で最初の日本語訳新約聖書を完成した (79) 。

ブラウン
Browne, Elliott Martin

[生]1900.1.29. ウィルトシャー,ジールズ
[没]1980.4.27. ロンドン
イギリスの演出家。 1935年カンタベリーにおける『寺院の殺人』の初演をはじめ,T.S.エリオットの作品を多く演出。また 51年には,1572年以来舞台で演じられたことのなかったヨーク聖史劇を上演するなど,現代の詩劇,宗教劇の復活上演の中心として活躍した。

ブラウン
Brown, Alexander

[生]1764.11.17. バリミナ
[没]1834.4.3. ボルティモア
アイルランド生れのアメリカの実業家。 1800年アメリカに移住し,アイリッシュ・リネンの輸入業者となり,貿易,銀行業をおもに扱う企業としてはアメリカ最古のアレクサンダー・ブラウン・アンド・サンズを設立,4人の息子も共同経営者として世界各地に支店を開設した。ほかに鉄道会社ボルティモア・アンド・オハイオ・レール・ロードの設立にも関与した。アメリカ最初の百万長者の一人。

ブラウン
Brown, John Mason

[生]1900.7.3. ケンタッキー,ルイビル
[没]1969.3.16. ニューヨーク
アメリカの劇評家。ハーバード大学卒業。『ニューヨーク・イブニング・ポスト』紙 (1929~41) や『土曜文学評論』誌 (44~55) などの劇評を担当。主著『観客席の二人』 Two on the Aisle (38) ,『ブロードウェー批評』 Broadway in Review (40) ,『物を見ること』 Seeing Things (46) 。

ブラウン
Brown, Ford Madox

[生]1821.4.16. カレー
[没]1893.10.6. ロンドン
イギリスの画家。ベルギー,フランスで学んだのち,ロンドンに定住,ラファエル前派のグループと交わった。明るい色彩と写実的技法で歴史画,宗教画を描き,本の挿絵も描いた。またステンドグラスを制作。主要作品は十数年を費やした大作『労働』 (1852~63,マンチェスター市立美術館) ,マンチェスター市役所の 12枚の壁画など。

ブラウン
Brown, Franklin. H.

[生]1882
[没]1973
日本にバレーボールバスケットボールを紹介し普及に努めたアメリカ合衆国のYMCA体育主事。 1913年東京 YMCAの招きで来日し,関係者にバレーボールとバスケットボールを伝えた。日本および極東スポーツ界の師といわれる。

ブラウン
Brown, Alexander

[生]1843.9.5. バージニア,グレンモア
[没]1906.8.25.
アメリカの歴史家。南北戦争で聴力を失い,郷土バージニア植民地の歴史を研究。従来のイギリス本国中心の解釈を否定し,ロンドン会社内のリベラル派が植民地の諸制度の発展に与えた影響を重視した。主著『合衆国の起源』 The Genesis of the United States (1890) 。

ブラウン
Brown, Henry Billings

[生]1836.3.2. サウスリー
[没]1913.9.4. ブロンクスビル
アメリカの法律家。海事法の権威として有名。 1890~1906年連邦最高裁判所の准判事。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報