改訂新版 世界大百科事典 「アルナルドダブレシア」の意味・わかりやすい解説
アルナルド・ダ・ブレシア
Arnaldo da Brescia
生没年:1100ころ-54
イタリアの教会改革運動者。ブレシアに生まれる。パリでアベラールに学んだといわれる。1119年にブレシアに戻り,聖職売買や教会の世俗化を激しく攻撃し,人々に衝撃を与えた。聖堂参事会の首席司祭として市民に大きな影響を与えたが,教皇によって追放されてパリへ赴いた。ここでアベラールとベルナール(クレルボーの)の論争に参加。前者を支援したが,サンスの教会会議でアベラールと共に有罪の宣告を受けた(1140)。彼はスイスへ逃れ,さらに教皇の許しを得てローマへの巡礼を行った。ちょうどローマでは市民による反教皇・自治獲得の運動が活発化しており,その熱心な支持者となった。彼は教会が財産や権力を放棄すること,聖職者が霊的活動に専念し,清貧であることを要求し,現実の教会はなんら使徒的な性格を持っていないと激しく攻撃した。この批判は市民の自治運動と結びつき,きわめて政治的・社会的な性格を帯びるに至った。教皇は彼の追放を命じたが(1148),効果はなかった。しかし,ドイツ王フリードリヒ1世バルバロッサの軍勢が教皇の意を迎えるために彼を捕らえ,教皇庁役人に引き渡した。アルナルドは処刑され,その灰はテベレ川にまき散らされたという。なお,〈アルナルド派〉と称する異端的宗教運動が,ロンバルディアにおいて,彼の死後も半世紀近く存続したことが知られている。
執筆者:清水 廣一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報