翻訳|Bernard
フランスのキリスト教思想家,聖人。ラテン名ベルナルドゥスBernardus。その人柄の魅力,文体の美しさゆえに〈甘蜜博士Doctor mellifluus〉と称される。ディジョンに近いフォンテーヌの貴族の家に生まれ,1112年ころ近親・兄弟ら30人とともにシトー会修道院に入る。3年後みずから場所の選定をした新設のクレルボーClairvauxの修道院長となる。以後シトー会は急速に発展し,彼の名声や影響力も広まる。1128年トロアの宗教会議で承認された神殿騎士修道会(テンプル騎士団)の会憲は彼の手になるものと言われ,彼が《神殿騎士への新たな軍役奉仕を讃(たた)う》で,異教徒との戦いへの関心を失った世俗騎士を告発し,新しい修道騎士の理想主義をたたえたことは会員の増大に資するところ大きかった。クリュニー修道院(院長ペトルス・ウェネラビリス)との論争,教皇インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の正閏問題への影響力,40年サンス公会議におけるアベラール批判,およびギルベルトゥス・ポレタヌス批判,41-43年ルイ7世との対立,45年南仏伝道,46年第2回十字軍勧説も注目される。また教皇権における両剣論の主張や神の恩寵と人間の自由意志に関する論考などは彼の学識の深さをよく示している。彼はさらに当代きっての人文主義者であり,ソールズベリーのヨハネス,ギヨーム・ド・シャンポー,サン・ビクトールのフーゴーらとの交友,中世随一の図書館設立でも知られる。1174年列聖。
ベルナールは,彼の時代に芽生えはじめていたスコラ学の運動--理性の自律を強調し,学としての神学をめざす傾向--に対しては敵対的な態度をとったが,自身の神学的営みにおいて,アウグスティヌスに代表されるラテン教父神学と,オリゲネス,ニュッサのグレゴリオス,偽ディオニュシウスなどのギリシア教父神学を合流させ,豊かな実りを生みだした。その神学思想の核心は,托身と救済において示された神の愛を説いてやまないところにあり,それを彼は,もっぱらみずからの神秘的経験--しばしば霊的な婚姻として描写される,霊魂とキリストとの愛(カリタス)における一体化の経験--に密着しつつ展開した。意志の優位,恩寵の必要不可欠性の強調,救済史における聖母マリアの役割の重視,などがその神学説の特徴であり,流麗でリズミカルな文体の魅力とあいまって,愛における神との合一や祈りを中心におく神学的伝統の代表者とみなされる。
執筆者:今野 國雄+稲垣 良典
フランスの女優。本名はロジーヌ・ベルナールRosine Bernard。〈黄金の声voix d'or〉とたたえられた美声の持主で,19世紀末の名優〈聖なる怪物〉たちの一人。パリに生まれ,国立演劇学校(コンセルバトアール)を卒業し,1862年コメディ・フランセーズにデビュー。75年に同座の正式座員(ソシエテール)になる。77年,J.ラシーヌの《フェードル》のヒロイン役は大当りをし,同じく《アンドロマック》のヒロイン,V.ユゴーの《エルナニ》のドニャ・ソルを演じ,さらに79年のユゴーの《リュイ・ブラス》(初演)の女王役などは,名優ムーネ・シュリーとの共演でも評判となった。その年イギリス,アメリカを巡演し,世界的名声も得た。翌80年,コメディ・フランセーズを退団,その後はみずから劇団を組織し,民間の劇場に拠って小デュマの《椿姫》,V.サルドゥーの《テオドラ》《トスカ》などロマン派的な悲劇のヒロインを演じて大成功を収めた。94年には花形女優のかたわら私立劇場支配人も兼ねた。2年後こんどは男装してL.C.A.deミュッセの《ロレンザッチョ》の貴公子,さらに99年には劇場〈サラ・ベルナール座〉を開場し,シェークスピアの《ハムレット》の主役も演じた。1900年にはE.ロスタンが彼女のために書いた《鷲の子》をやはり男装で主演し成功した。14年壊疽(えそ)のため片脚を切断したが,舞台は捨てなかった。パリで没し,国葬の栄誉を受けた。サラ・ベルナールは天性の美貌と美声に加えて,卓越した演技力で人気を博し,世紀末の演劇の華であった。
執筆者:伊藤 洋
フランスの生理学者。ソーヌ川に沿ったサン・ジュリアン村でブドウ栽培を業とする家に生まれ,初等教育を受けたのち,リヨンのある薬屋に雇われたが,劇作家になる夢を抱いてパリに出た。しかし,こと志とくいちがい,やがて医学の勉強に身を入れるようになり,コレージュ・ド・フランスの生理学教授F.マジャンディの知遇を得て,1841年その助手に採用され,2年後には胃液の作用に関する論文で学位を受けた。54年ソルボンヌ大学生理学初代教授,同年アカデミー・デ・シアンス会員,翌55年恩師急逝のあとを継いでコレージュ・ド・フランス教授となり,69年フランス学士院会員に推挙されたが,すでにそのころから病気がちの日々を過ごすようになり,78年2月10日尿毒症で没した。彼が成し遂げた数々の画期的な研究業績(脂肪消化における膵臓の機能,交感神経の脈管運動,肝臓の糖産生など)は,いずれも19世紀後半から築き上げられてきた実験医学の先駆をなすものであり,それだけいっそうその革新的な方法論がわかりやすい文章で明快に主張されている主著《実験医学序説》(1865)は,生理学上の不朽の名作とされ,当時の医学界はもとより,広く文芸・思想界にまで多大の影響を及ぼした。
執筆者:秋元 寿恵夫
初期スコラの哲学者,文法家。ラテン名はベルナルドゥスBernardus。シャルトル学派の指導者の一人。ブルターニュに生まれ,1114年以後シャルトル大聖堂付属学校で論理学と文法を教えた。19年司教座尚書となる。24年パリで哲学を教え,ソールズベリーのヨハネスやギルベルトゥス・ポレタヌスのようなすぐれた弟子をもった。のちにシャルトルの司教に就いた。当代随一のプラトン主義者とみなされており,《ポルフュリオスの注解について》のなかでプラトンとアリストテレスを比較したのち,プラトン主義とエリウゲナに従って神,イデア,質料を見えざる3原理として立て,自然界を神のうちなるイデアの発現とする有機体的世界観を表明している。
執筆者:泉 治典
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フランスの生理学者。ブルゴーニュの寒村に生まれる。初め劇作家を志した。パリ大学医学部に学んでマジャンディにみいだされ、コレージュ・ド・フランスの助手となる。1843年、胃液の研究で学位を得、こののち生理学の実験に専念した。1854年、新設のソルボンヌ(パリ大学)一般生理学講座の教授に就任(~1868)、1855年マジャンディの死後、コレージュ・ド・フランスの教授を兼ねた。1868年ソルボンヌを退いて自然史博物館へ転出、同年アカデミー・フランセーズ会員。
膵液(すいえき)の脂肪消化作用や肝臓におけるグリコーゲン生合成を発見し、肝臓から血液への糖の放出を「内分泌」と名づけた。延髄穿刺(せんし)によって過血糖、糖尿が現れる「糖穿刺」の実験を糸口として、代謝の背後にある神経調節に研究を進め、血管の収縮・拡張に対する交感・副交感神経の役割を解明、またクラーレや一酸化炭素の作用機序を明らかにし、近代毒物学、薬理学への道を開いた。1860年、健康を害して帰省したおりに書き上げたのが有名な『実験医学序説』(1865)である。こののちしだいに生命現象の本質に思索を深め、講義集『動植物に共通な生命現象』(1878~1879)などを残した。講義や著作のなかで彼が意義を説いた「内部環境(器官、組織、細胞を取り巻く血液や体液)の安定性」の概念は、以後の生物学に大きな影響を及ぼした。
[梶田 昭]
フランスの女優。本名はロジーヌ・ベルナール。美貌(びぼう)と美声に恵まれ、熱気ある悲劇的演技で名声を得た。10月22日オランダ系ユダヤ人の母と放蕩(ほうとう)学生との間にパリに生まれた彼女は、幼いころは薄幸で、修道院に入り尼を志していた。演劇への興味はまったくなかったが、勧められてコンセルバトアールに入り、卒業後コメディ・フランセーズに加入するが認められず、私設劇場を転々とする。1869年にコッペの『行人』で主演、続いてユゴーの『リュイ・ブラース』の女王役が当たり、ふたたびコメディ・フランセーズに復帰。のちにアメリカ、カナダを巡演し、巨利を得た。名優コクランの相手役でその名はいよいよ高まり、『トスカ』『椿姫(つばきひめ)』などの当り役が続出、1899年にはサラ・ベルナール座を設立、堂々と男役ハムレットまでみごとに演じた。3月26日没。第一次世界大戦時には戦地慰問をするなど、愛国的精神に富んでいたサラは国民的芸術家として国葬の礼を受けた。
[加藤新吉]
『本庄桂輔著『サラ・ベルナールの一生』(1970・新潮社)』
フランスの喜劇作家、小説家。主として20世紀初頭に活躍、伝統的な喜劇やボードビルを継承、発展させた。なかでも当たりをとった劇作は、『コドマ氏』(1907)、『小さなカフェ』Le Petit Café(1911)、『魅惑的な王子』(1913)、『ジュールとジュリエットとジュリアン』(1927)など。ユーモラスな筆致で時代の風俗、倫理を風刺した。ジャン・ジャックはその息子。
[渡辺 淳]
フランスの画家。リールの生まれ。1884年からコルモンのアトリエに通い、マンクタン、ロートレック、ゴッホらを知るが、反抗的態度のため86年に追放される。ブルターニュのポン・タバンでゴーギャンと出会う。画風は急速に変貌(へんぼう)し、印象主義から新印象主義、そして88年夏までには、『牧場のブルターニュの女たち』により単純化された形態と太い輪郭線、平坦(へいたん)な色面からなる象徴主義的な総合主義の様式を確立。ゴーギャンにも影響を及ぼし、91年まで2人は緊密な関係のもとで制作する。しかし、総合主義の創始をめぐる確執もしだいに表面化するようになる。文筆にも手を染め、ゴッホ、セザンヌに関する著述のほか、彼らやゴーギャンと交わした書簡は資料として重要。パリで没。
[大森達次]
フランスの彫刻家、挿絵画家。最初リヨンの美術学校、ついでパリのエコール・デ・ボザールに学び、1893年のサロンに石膏(せっこう)像『報われなかった希望』を出品して入賞。1900年のパリ万国博覧会には『別離』の群像を展覧し、25年の装飾美術展出品の『ダンスのフリーズ』は国の買上げとなる。彼の作品は、ドイツ人ヒルデブラントが提唱した、大理石の地肌を生かし鑿(のみ)あとを残す直(じか)彫りの技法をフランスに伝える。『ミシェル・ヤルベの記念碑』(1909~12)や『競技者』(未完)のように、絶えずモニュメンタルな性格を作品に与えようと試みた。バレリーの『魂と舞踏』による水彩画は、彼の微細な色彩家の側面を明らかにしてくれる。
[上村清雄]
12世紀に有名であったフランス中北部の都市シャルトルの学校で教えた人文主義者。ソールズベリーのヨハネスが『メタロギコン』で、「われわれの時代のもっとも優れたプラトン主義者」「当代フランスにおける文芸のもっとも豊かな泉」とたたえ、伝聞によってその教育方法を紹介している以外に、詳細は不明である。ベルナルドゥス・シルウェストリスの散文韻文混合詩『大宇宙と小宇宙』を1876年に最初の印刷本にした刊行者によって、その著者と間違えられていた。
[柏木英彦 2015年2月17日]
『柏木英彦著『中世の春』(1976・創文社)』
フランスの劇作家。第一次・第二次世界大戦間に主としてブールバール劇界で活躍した。喜劇作家トリスタンの息子だが、作風は父とはかなり異なり、知的、心理主義的で、沈黙に多くを語らせようとした「沈黙の演劇」の主張と実践は有名。『くすぶる火』Le Feu qui reprend mal(1921)、『マルチーヌ』(1922)、『旅への誘(いざな)い』(1924)、『国道6号線』(1935)、『イスパーンの庭師』(1939)などが評価されている。
[渡辺 淳]
「ベルナルドゥス[クレルボー]」のページをご覧ください。
「ベルナルドゥス[シャルトル]」のページをご覧ください。
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1090頃~1153
フランスの修道院改革者,神秘思想家。シトー修道会に入会し,クレルヴォーに修道院を設立した。特にキリストの人間性を強調した思想に特徴があり,政治的にも当時最も影響が強かった。第2回十字軍の勧説者。
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…この考えは,ゲルマンの相続慣習に反し,しかも教会はこれに乗じて,のちに皇帝,王を教会の奉仕者と規定した(829)。帝国遺贈令の処置は宮廷の大部分を巻き込むイタリア王ベルナールBernhard(797ころ‐818)の反乱(818)を招き,822年教会は彼に痛悔を命じた。さらに後妻ユーディットとの間に末子カール2世をもうけると(823),その取り分をつくるために,数回にわたって分国令を改め,すでに成人している3子の反乱を招き(830),ランス大司教エボらもこれに加わり,一時廃位された(833‐835)。…
…さらには,生物主体が〈適応〉過程を通じて環境の中で最適な条件を選ぶという能動性を強調する立場も登場している。 クロード・ベルナールは外界の環境が激しく変化しても生物が生きていけるのはその〈内部環境milieu interieur〉(この場合の主体は細胞や組織)を一定に保つ能力があるためであるということを指摘し,この能力をホメオスタシスと呼んだ。今日この概念は外部環境にも逆輸入され,生態系のホメオスタシスといった使い方もされるようになっている。…
…【山本 紀夫】
[医薬としてのクラーレ剤]
クラーレに含まれる種々の物質のうち,ツボクラリンなどの有効成分の構造式が決定され,クラーレ剤の名で医薬として用いられる。 クラーレの作用部位が中枢神経系ではなく,神経筋接合部という運動神経と骨格筋との接合部位であることが,すでに1856年C.ベルナールによって示唆された。その後,さらに詳しい作用機序として,運動神経終末から遊離した伝達物質アセチルコリンの筋側の受容体への作用を,クラーレが競合的に妨げることが明らかにされた。…
…また,小説執筆のかたわら,ゾラは自らの自然主義文学理論を《実験小説論》(1880)にまとめあげた。バルザックの《人間喜劇》にならった〈ルーゴン・マッカール叢書〉全体の構想が,P.リュカの遺伝理論など生理学・生物学の成果に多くを負っているのと同じように,〈実験小説論〉は,クロード・ベルナールの《実験医学研究序説》に示された医学上の方法論をほとんどそのまま小説に適用することを主張するもので,ある環境に置かれた一定の遺伝的・生理的条件をもつ人間の変化反応を描く〈実験としての小説〉を提唱する理論であった。この理論はただちに多くの批判と反論を呼び起こし,科学的な実験と小説における想像上の〈実験〉を同一視するという基本的な誤りはその後も何度となく指摘された。…
…フランスの生理学者C.ベルナールの著書。生物と無生物とは,ちがった科学原理で支配されているとする生気論が登場していたフランス生理学界にあって,実証的思考を導入して実験を重視したF.マジャンディに師事し,実験生理学研究を推進してその後任者(1855年コレージュ・ド・フランスの医学正教授)になったベルナールが1860年,健康を害して郷里で約2年間静養中に,過去20年余にわたる研究をふまえて,実験的医学研究の方法論を執筆したのが本書で,65年パリで出版された。…
…アラビア医学ではラージーとイブン・シーナーがこの病気について述べており,16世紀のパラケルススも知っていた。糖尿病を初めて近代医学的に研究したのは17世紀のイギリスの医学者T.ウィリスであり,19世紀のフランスの医学者C.ベルナールは血糖をとりあげ,糖尿病が病理学的に解明される道を開いた。 糖尿病は文明国ほど多く,また文字に親しむ人に多いともいわれる。…
…1879年ナポリでゾラ作《テレーズ・ラカン》のテレーズを演じ最初の成功を得る。80年トリノ市劇場の主演女優となり,同じころイタリアにやって来たS.ベルナールの《椿姫》を見て触発され,すぐにS.ベルナールの得意とした《バグダードの姫君》を上演して,まったく異なった役づくりで圧倒的好評を得た。85年以降,世界を巡演,S.ベルナールと人気を二分する国際的名女優となったが,当時の外面的な演技術を批判し,〈物の内面〉からの創造を目ざした彼女の演技は,〈人生そのものである〉とも評された。…
…1900年1月ローマのコスタンツィ劇場で初演。フランスの劇作家V.サルドゥーが名女優サラ・ベルナールのために書きおろした5幕からなる同名の戯曲からG.ジャコーザとイリカLuigi Illica(1857‐1919)が台本を共作。 1800年,オーストリア支配下のイタリアでナポレオン軍を迎えて各地で戦闘が行われているさなか,独立運動家たちの活動も加わって政情不安なローマを背景に,歌姫トスカと恋人の画家で自由主義者カバラドッシ,さらにトスカによこしまな思いを寄せる体制派の警視総監スカルピアの恋と葛藤を描いている。…
…しかし真価を示した代表作は,G.W.パプスト監督に招かれて出演したドイツ映画《パンドラの箱》《淪落の女の日記》(ともに1929)であり,とくに《パンドラの箱》(原作はドイツの劇作家フランク・ウェーデキントの連作戯曲《地霊》《パンドラの箱》)で演じた娼婦ルルによって世界的に注目を浴び,その後もルルはウェーデキントの原作よりもむしろこの映画によって伝説的な存在となり,のちにジャン・リュック・ゴダールは,彼の映画《男と女のいる舗道》(1962)でアンナ・カリーナが演じた娼婦ナナに,ルルのヘア・スタイルとメーキャップをさせたといわれる。ブルックス本人は,パプスト原案,ルネ・クレール脚本によるフランス映画《ミス・ヨーロッパ》(クレールが監督する予定だったがプロデューサーと折り合わず,イタリア人のアウグスト・ジェニナ監督作品になった)に出演したあとハリウッドに帰るが,作品に恵まれず,ナイトクラブのダンサーやセールスガールになるなど不遇の時代を送り,40年代後半から世間の目を避けて隠棲するうち,50年代半ばに《パンドラの箱》を中心にした旧作がヨーロッパとアメリカでリバイバル上映されたのを機に〈ルル・フィーバー〉が高まり,55年には〈シネマテーク・フランセーズ〉のアンリ・ラングロアが映画生誕60年記念展に〈不滅の女優〉としてブルックスの写真を飾り,またサラ・ベルナール主演の《ギーズ公の暗殺》(1908)がつくられてから50年後の記念の催しにも彼女を招待した。こうしてルイズ・ブルックスとその神話は復活した。…
…ミュンヘンのアカデミーで学び,1887年パリに出る。94年サラ・ベルナールの《ジスモンダ》のポスターを描いて,一躍,世紀末の代表的なグラフィック・アーティストになった。1904年まで,《椿姫》《ロレンザッチョ》《ハムレット》など,ベルナールのためのポスターを描きつづける。…
…それはカマルドリ会,カルトゥジア会,シトー会,プレモントレ会,騎士修道会,アウグスティヌス会,さらに托鉢修道会などで,ほかに女子のみの第2修道会や男女の第3修道会も成立した。新しい敬虔と〈神の国〉運動とを結合するこの改革は,12世紀に入ってクレルボーのベルナールにおいて頂点に達し,またアッシジのフランチェスコのような独特の人格を生んだのであるが,これらの人々にみる神秘主義は教会に対立する異端の登場と無関係ではない。 中世の異端は古代教会のアリウス派のように教義と信条をめぐって論争し,教会の外へ出て行くものではなく,むしろ教会的統一にさからい,その権威に従わないで熱狂的な行動を起こすか,あるいは権威と理性の対立を主張するものであった。…
…ザンクト・ガレンは11世紀初めに寺伝の有能な編者エッケハルト4世Ekkehart IV(980ころ‐1060ころ)をもった。つづいて冷厳な雄弁僧ペトルス・ダミアニ(《歌の中の歌》その他の作者)や,カンタベリー大司教であったランフランクLanfranc(1005ころ‐89),アンセルムスの両権威,なかんずくパリ大学に多くの聴講者を集めたアベラールとその論敵で当時教界の重鎮であったクレルボーのベルナールらが次代を代表する。ことにアベラールとその愛人エロイーズの悲痛な恋愛の物語は人々にあまねく知られ,2人が交換した多くの書簡,とりわけ第1の《わが不幸の物語》は,中世宗教文学に異彩を放っている。…
…修道士志願者が減少し修道院の世俗化が目にあまる時勢を憂えて,創立者は〈ベネディクトゥスの会則〉の厳格な励行,粗衣粗食の質素な生活,荒地の開墾作業などによる霊性の復興をめざした。ロベール自身は1年後ベネディクト会へ戻ったが,第3代修道院長ハーディングStephen Hardingの時代(1109‐33)に規律と組織の面で基礎が固められ,特にシャンパーニュ貴族ベルナールとその一族多数の入会(1112)以来会勢は急速な発展をとげた。1114年起草された会則〈カルタ・カリタティスCarta caritatis(愛の憲章)〉は,キリスト教的愛徳の精神につらぬかれ,修道者の理想を高くかかげると同時に一般信徒への道徳的指針ともなり,修道会運営の新しい典拠とされた。…
…このいわゆる〈否定道via negativa〉または〈否定神学apophatikē theologia〉は以後ながく神秘神学の方法を規定した。新プラトン主義 中世のスコラ神学からもクレルボーのベルナールやボナベントゥラなど多くの神秘主義者が出た。ことにベルナールは意志の合致と愛による神との合一という,偽ディオニュシウスの思弁的な道とは異なった雰囲気の神秘主義を説いた。…
…実践的神秘神学の根拠は新約聖書のなかのキリストの生き方のうちにすでに見られ,パウロの手紙のなかで展開されている。中世初頭,クレルボーのベルナールは体系的ではなかったが,とくに《雅歌に関する説教》によって神との一致の至高の頂に達したことを示している。中世を通じて,実践的神秘神学はつねに教義(組織)神学に生命を与えていたことは,ボナベントゥラ,トマス・アクイナスなどの神学者に深い祈りと神秘体験がともなっていた事実によってわかる。…
…バッジE.A.W.Budgeはアフリカでは族長とその妻たちが従者の肩に乗って旅するのを常とすることを考えれば,ラーやオシリスの肩に乗ることも不思議ではないと言う(《オシリス》2巻)。12世紀の聖職者シャルトルのベルナールは,自分たちは小人だが巨人(すなわち古代の文化的遺産)の肩に乗っているために巨人よりも遠くまで見通せると語り,時代を経てニュートンも同じことを述べた。 アイブル・アイベスフェルトI.Eibl‐Eibesfeldtは,深い毛で覆われていた人類の祖先は,毛流の方向の結果,肩の毛が逆立っており,肩幅を広く見せていたと言う(《比較行動学》)。…
※「ベルナール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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