日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルナール」の意味・わかりやすい解説
ベルナール(Claude Bernard)
べるなーる
Claude Bernard
(1813―1878)
フランスの生理学者。ブルゴーニュの寒村に生まれる。初め劇作家を志した。パリ大学医学部に学んでマジャンディにみいだされ、コレージュ・ド・フランスの助手となる。1843年、胃液の研究で学位を得、こののち生理学の実験に専念した。1854年、新設のソルボンヌ(パリ大学)一般生理学講座の教授に就任(~1868)、1855年マジャンディの死後、コレージュ・ド・フランスの教授を兼ねた。1868年ソルボンヌを退いて自然史博物館へ転出、同年アカデミー・フランセーズ会員。
膵液(すいえき)の脂肪消化作用や肝臓におけるグリコーゲン生合成を発見し、肝臓から血液への糖の放出を「内分泌」と名づけた。延髄穿刺(せんし)によって過血糖、糖尿が現れる「糖穿刺」の実験を糸口として、代謝の背後にある神経調節に研究を進め、血管の収縮・拡張に対する交感・副交感神経の役割を解明、またクラーレや一酸化炭素の作用機序を明らかにし、近代毒物学、薬理学への道を開いた。1860年、健康を害して帰省したおりに書き上げたのが有名な『実験医学序説』(1865)である。こののちしだいに生命現象の本質に思索を深め、講義集『動植物に共通な生命現象』(1878~1879)などを残した。講義や著作のなかで彼が意義を説いた「内部環境(器官、組織、細胞を取り巻く血液や体液)の安定性」の概念は、以後の生物学に大きな影響を及ぼした。
[梶田 昭]
ベルナール(Sarah Bernhardt)
べるなーる
Sarah Bernhardt
(1844―1923)
フランスの女優。本名はロジーヌ・ベルナール。美貌(びぼう)と美声に恵まれ、熱気ある悲劇的演技で名声を得た。10月22日オランダ系ユダヤ人の母と放蕩(ほうとう)学生との間にパリに生まれた彼女は、幼いころは薄幸で、修道院に入り尼を志していた。演劇への興味はまったくなかったが、勧められてコンセルバトアールに入り、卒業後コメディ・フランセーズに加入するが認められず、私設劇場を転々とする。1869年にコッペの『行人』で主演、続いてユゴーの『リュイ・ブラース』の女王役が当たり、ふたたびコメディ・フランセーズに復帰。のちにアメリカ、カナダを巡演し、巨利を得た。名優コクランの相手役でその名はいよいよ高まり、『トスカ』『椿姫(つばきひめ)』などの当り役が続出、1899年にはサラ・ベルナール座を設立、堂々と男役ハムレットまでみごとに演じた。3月26日没。第一次世界大戦時には戦地慰問をするなど、愛国的精神に富んでいたサラは国民的芸術家として国葬の礼を受けた。
[加藤新吉]
『本庄桂輔著『サラ・ベルナールの一生』(1970・新潮社)』
ベルナール(Tristan Bernard)
べるなーる
Tristan Bernard
(1866―1947)
フランスの喜劇作家、小説家。主として20世紀初頭に活躍、伝統的な喜劇やボードビルを継承、発展させた。なかでも当たりをとった劇作は、『コドマ氏』(1907)、『小さなカフェ』Le Petit Café(1911)、『魅惑的な王子』(1913)、『ジュールとジュリエットとジュリアン』(1927)など。ユーモラスな筆致で時代の風俗、倫理を風刺した。ジャン・ジャックはその息子。
[渡辺 淳]
ベルナール(Emile Bernard)
べるなーる
Emile Bernard
(1868―1941)
フランスの画家。リールの生まれ。1884年からコルモンのアトリエに通い、マンクタン、ロートレック、ゴッホらを知るが、反抗的態度のため86年に追放される。ブルターニュのポン・タバンでゴーギャンと出会う。画風は急速に変貌(へんぼう)し、印象主義から新印象主義、そして88年夏までには、『牧場のブルターニュの女たち』により単純化された形態と太い輪郭線、平坦(へいたん)な色面からなる象徴主義的な総合主義の様式を確立。ゴーギャンにも影響を及ぼし、91年まで2人は緊密な関係のもとで制作する。しかし、総合主義の創始をめぐる確執もしだいに表面化するようになる。文筆にも手を染め、ゴッホ、セザンヌに関する著述のほか、彼らやゴーギャンと交わした書簡は資料として重要。パリで没。
[大森達次]
ベルナール(Joseph-Antoine Bernard)
べるなーる
Joseph-Antoine Bernard
(1866―1931)
フランスの彫刻家、挿絵画家。最初リヨンの美術学校、ついでパリのエコール・デ・ボザールに学び、1893年のサロンに石膏(せっこう)像『報われなかった希望』を出品して入賞。1900年のパリ万国博覧会には『別離』の群像を展覧し、25年の装飾美術展出品の『ダンスのフリーズ』は国の買上げとなる。彼の作品は、ドイツ人ヒルデブラントが提唱した、大理石の地肌を生かし鑿(のみ)あとを残す直(じか)彫りの技法をフランスに伝える。『ミシェル・ヤルベの記念碑』(1909~12)や『競技者』(未完)のように、絶えずモニュメンタルな性格を作品に与えようと試みた。バレリーの『魂と舞踏』による水彩画は、彼の微細な色彩家の側面を明らかにしてくれる。
[上村清雄]
ベルナール(Bernard de Chartres)
べるなーる
Bernard de Chartres
Bernardus Carnotensis
(?―1130ころ)
12世紀に有名であったフランス中北部の都市シャルトルの学校で教えた人文主義者。ソールズベリーのヨハネスが『メタロギコン』で、「われわれの時代のもっとも優れたプラトン主義者」「当代フランスにおける文芸のもっとも豊かな泉」とたたえ、伝聞によってその教育方法を紹介している以外に、詳細は不明である。ベルナルドゥス・シルウェストリスの散文韻文混合詩『大宇宙と小宇宙』を1876年に最初の印刷本にした刊行者によって、その著者と間違えられていた。
[柏木英彦 2015年2月17日]
『柏木英彦著『中世の春』(1976・創文社)』
ベルナール(Jean-Jacques Bernard)
べるなーる
Jean-Jacques Bernard
(1888―1972)
フランスの劇作家。第一次・第二次世界大戦間に主としてブールバール劇界で活躍した。喜劇作家トリスタンの息子だが、作風は父とはかなり異なり、知的、心理主義的で、沈黙に多くを語らせようとした「沈黙の演劇」の主張と実践は有名。『くすぶる火』Le Feu qui reprend mal(1921)、『マルチーヌ』(1922)、『旅への誘(いざな)い』(1924)、『国道6号線』(1935)、『イスパーンの庭師』(1939)などが評価されている。
[渡辺 淳]