旺文社世界史事典 三訂版 「イタリアの統一」の解説
イタリアの統一
イタリアのとういつ
ナポレオン1世の侵入を機会にイタリア統一の気運が盛り上がったが,ウィーン会議はこれを旧体制に復帰させ,ヴェネツィア・ロンバルディアはオーストリア領となった。カルボナリによる数度の革命が失敗すると,マッツィーニの青年イタリアによる共和国建設,ローマ教皇を立てたイタリア連邦結成などの動きが起こった。いっぽう,北イタリアのサルデーニャ王国は,国王カルロ=アルベルトを先頭に独立と統一の運動を起こした。1848年の二月革命の影響のなか,サルデーニャ王はオーストリアに宣戦したが,ラデツキー将軍に完敗した。また,マッツィーニはローマ教皇領を占領してローマ共和国を建てたが,教皇を支持するフランス軍の干渉で失敗。以後,統一運動はカヴールの指導で近代化を進めるサルデーニャが中心となった。彼はナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び,1859年にイタリア統一戦争を起こし,マジェンタ・ソルフェリーノの戦いでオーストリアを撃破した。しかしフランスの裏ぎり(ヴィラフランカの和約)もあってロンバルディアを回復したにとどまったが,中部イタリア諸国から合体の申し出があり,カヴールは密約にそってサヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに,これを併合した。また1860年,千人隊を率いた青年イタリアのガリバルディはシチリアとナポリ王国を占領すると,翌61年これら占領地をサルデーニャ王に献上し,ここにイタリア王国が樹立された。残ったヴェネツィアを普墺 (ふおう) 戦争後に,ローマ教皇領を普仏 (ふふつ) 戦争後に合併して,1870年イタリアの統一は完成した。
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