イタリア王国(読み)イタリアおうこく[げんだい](英語表記)Regno d'Italia イタリア語

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア王国」の意味・わかりやすい解説

イタリア王国[現代]
イタリアおうこく[げんだい]
Regno d'Italia

現代イタリア王国 (1861~1946) 。 1859~60年にイタリア諸国をサルジニア王国に併合する形で国家統一が実現し,61年3月ビットリオ・エマヌエレ2世にイタリア国王の称号を与えることで成立。 66年にベネト,70年にローマを併合して国家統一をほぼ完成させ,71年ローマに遷都。立憲議会主義の政治制度をとったが,実際には制限選挙方式による寡頭支配体制であり,また地方自治を認めない中央集権体制であった。社会的には教皇問題をめぐる国家と教会の対立南部問題と呼ばれる北部による南部収奪など多くの難題をかかえた。 76年までは自由主義右派の政権,76年以降は自由主義左派の政権,20世紀初頭はジョリッティ体制と呼ばれ,第1次世界大戦後の 1922年にファシストローマ進軍によるファシズム政権が発足。 43年にムッソリーニが失脚して反ファシズム運動が強まり,国王ビットリオ・エマヌエレ3世もファシズムとの連帯責任を問われて 44年6月公的生活を退き,皇太子が国王代行となる措置がとられた。しかし国民君主制に対する批判は解消せず,46年6月の国民投票で共和制支持票が君主制支持票を上回り,イタリア王国イタリア共和国に移行した。

イタリア王国[近代]
イタリアおうこく[きんだい]
Regno italico

近代イタリアの王国 (1805~14) 。 1802年ナポレオン1世によってイタリア共和国に改組されたチザルピーナ共和国をさらに 05年3月再編して成立。ナポレオン自身が王位につき,夫人ジョゼフィーヌの連れ子ボアルネ公を副王とした。事実上フランス支配の王国で政治的にも財政的にも自立を欠いたが,『ナポレオン法典』の適用でブルジョア的諸改革がなされ,イタリア民族意識の覚醒も伴ってリソルジメント運動の機運を醸成した。

イタリア王国[中世]
イタリアおうこく[ちゅうせい]
Regno italico

中世イタリアの王国 (888~962) 。カロリング朝カルル3世の死で男系相続が絶え,女系の諸侯がイタリア王位を争い始めた 888年から,オットー1世 (大帝)が神聖ローマ皇帝に即位してイタリアをドイツ支配下におく 962年までの期間に存在した王国。この期間にベレンガーリョ1世,スポレト侯グイード,プロバンス侯ウーゴ,ベレンガーリョ2世らが互いに争いながら王位についた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア王国」の意味・わかりやすい解説

イタリア王国
いたりあおうこく
Regno d'Italia イタリア語

1861年3月に成立したイタリアの王国。サルデーニャ王国への他のイタリア諸国の相次ぐ併合によって実現された。ロンバルディアの併合は国際協定(1859年11月のチューリヒ条約)により、また他の併合(中部と南部)は無条件統合の賛否を問う人民投票により行われた。このようにイタリア王国は国民の合意に基づく近代的国家ではあったが、国民の大多数を占める貧困な農民層は統一事業から疎外され、統一国家においても犠牲にされたため、彼らは反体制に傾きがちであった。王国は、サルデーニャ王国から王家、憲法および多くの政治的、経済的諸制度を継承し、これらを全国に一方的に押し付けたため、いきおい露骨な集権的国家になった。憲法は単なる立憲君主主義であったが、創始者カブールの強い自由主義的志向が君主制を議会主義的軌道に据えたものの、憲法の保守的、反議会主義的解釈もしばしば現れた。北部資本主義の急速な発展とともに社会的矛盾も激化し、国家の不安定な基礎は、第一次世界大戦後の危機に際してファシズムを権力に導く結果になった。1946年6月、国民投票による王制の廃止をもって王国は終わった。なお、これと無関係であるが、同名の王国が、ナポレオンによって1805年から14年までイタリアの中北部地方に建設された。

[重岡保郎]

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