改訂新版 世界大百科事典 「イタリア王国」の意味・わかりやすい解説
イタリア王国 (イタリアおうこく)
Regno Italico
イタリアという地域が王国という一つの政治単位を構成するという観念がいつ生じたかを知ることは難しい。西ローマ帝国崩壊後,北イタリアに生まれた東ゴート王国,ランゴバルド王国は,それぞれ部族国家,つまりゴート族やランゴバルド族の国家であった。しかし,ランゴバルドを征服し,800年に皇帝に即位したカロリング家のカール大帝の場合は事情が異なる。彼はランゴバルド王国の伝統を重視し,その王となったが(774),自身は他部族たるフランク族の出である。これ以後,カール3世の死(888)に至るまで,カロリング家がランゴバルド王位を保持したが,それはもはや部族国家ではなく,北イタリアの王国である。ランゴバルド王国という伝統的な名称と並んでイタリア王国の名称が現れ,次第に普及したのはこの時代である。一般にカール大帝の子ピピンのイタリア王即位(781)またはその子ベルナルドの即位(810)をその画期としている。カール3世の死後,イタリアにおけるカロリング家(男系)が絶え(東・西フランク王国では存続),有力諸侯が王位をめぐって激しい抗争を続ける時代に入った。まずフリウリ侯ベレンガーリオ1世(ルートウィヒ敬虔王の娘の子)が王位を得た(888)が,スポレト侯グイドがこれに対抗。さらにプロバンスやブルゴーニュの王侯が介入し,イタリア王あるいは皇帝を称した。950年にイブレア侯ベレンガーリオ2世が王位についたが,間もなくザクセン朝のオットーがイタリアに進出し,962年に〈神聖ローマ皇帝〉に即位,イタリアをふたたびドイツと結合した結果,イタリア王国は消滅した。カール3世の死から962年までを〈独立イタリア王国〉の時代と呼ぶ場合もあるが,実情は王位をめぐる抗争とイスラム,マジャール両勢力の侵入による混乱の時代にすぎず,王国といえるようなまとまりは存在しなかった。なお,リソルジメントによって1861年に誕生したイタリア王国はRegno d'Italiaと呼ばれる。
→神聖ローマ帝国
執筆者:清水 廣一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報