アルベルト(英語表記)Albert von Sachsen

改訂新版 世界大百科事典 「アルベルト」の意味・わかりやすい解説

アルベルト(ザクセンの)
Albert von Sachsen
生没年:1316ころ-90

中世のスコラ哲学者。ヘルムシュテットの富裕な家に生まれ,プラハで学び,パリに遊学して学士号を得た。パリ大学学芸学部教師として名声を博し,1353年に同大学の学長となった。62年ころパリを去り,アビニョンの教皇庁でウルバヌス5世に仕えた。ウィーン大学の創設に参画し,65年初代総長となったが1年で辞し,66年ハルバーシュタットの司教に任ぜられ,生涯その職にあった。彼の著作は自然学,数学,論理学にわたる。パリ時代の師ビュリダンインペトゥス理論を広めるとともに,投射体軌道の一部分曲線になることをインペトゥスの合成から新たに説明した。またブラドワディーンの運動式を紹介した《比の論考》も広く読まれ,アリストテレスの諸著への注釈や論理学教科書も書いた。独創性は少ないが,14世紀の学問的成果を後代に普及させた功績は大きい。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルベルト」の意味・わかりやすい解説

アルベルト
Albert

[生]1828.4.23. ドレスデン
[没]1902.6.19. エルス近郊
ザクセン王 (在位 1873~1902) 。皇太子の時代から軍事に秀で,プロシア=オーストリア戦争 (1866) ,普仏戦争 (70~71) で活躍。特に普仏戦争においては,北ドイツ連邦軍の将軍としてスダンの戦い勝利に貢献し,その功により陸軍元帥に昇進。またザクセン王としては,おもに軍事に関心を示したが,地方行政,教育,税制改革,王国の産業化にも努めた。

アルベルト
Albert

[生]1340頃
[没]1412
スウェーデン王 (在位 1364~89) 。メクレンブルク公 (在位 84~1412) 。マグヌス6世の甥。マグヌス6世を追放 (1364) したスウェーデン貴族から王に推されて即位。 1365年マグヌスの反攻を退けたが,民衆に嫌われ,デンマークマルグレーテ女王の軍に敗れて,捕えられ,退位 (89) 。

アルベルト
Albert, Heinrich

[生]1604.7.8. ローベンシュタイン
[没]1651.10.6. ケーニヒスベルク
ドイツの詩人,オルガン奏者,作曲家。いとこの H.シュッツに音楽を学ぶ。その後ライプチヒで法律を学び,1626年ケーニヒスベルクに移り,31年ケーニヒスベルク大聖堂のオルガン奏者となる。 38~50年8巻に及ぶ『アリア集』を出版,ドイツ歌曲の歴史に大きな足跡を残した。

アルベルト[ザクセン=コーブルク=ゴータ]
Albert, Prinz zu Sachsen-Coburg-Gotha

[生]1819.8.26. コーブルク
[没]1861.12.14. ウィンザー
イギリスのビクトリア女王の夫。イギリス名アルバート。ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の次男。 1840年結婚。 1857年以来 Prince Consortの称号を帯び,立憲君主制の理念に立って女王の統治を助けた。

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世界大百科事典(旧版)内のアルベルトの言及

【中世科学】より

…ヨルダヌスは棹秤や斜面の静力学的問題を〈仕事〉や〈モーメント〉の概念を内包する原理によってみごとに証明し,グロステストは数学的演繹と経験的実証とを結びつける数学的経験科学の独自の方法論を展開し,その弟子R.ベーコンはこの方法論をさらに発展させ,光学の研究においてそれを実践した。またこのとき新たに受容されたアリストテレスの自然学は,アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクイナスに大きな影響を与え,科学知識の原理的再編成がなされた。14世紀になると,こうしたアリストテレス的自然学のもつもろもろの難点が指摘され,〈ガリレイの先駆者〉たちが登場することとなる。…

※「アルベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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