ガリバルディ(読み)がりばるでぃ(その他表記)Giuseppe Garibaldi

デジタル大辞泉 「ガリバルディ」の意味・読み・例文・類語

ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)

[1807~1882]イタリア統一運動指導者青年イタリア党に入り、南米ブラジルの独立運動などに参加。1860年、赤シャツ隊を率いて全シチリアを解放した。国民的英雄としてたたえられる。

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精選版 日本国語大辞典 「ガリバルディ」の意味・読み・例文・類語

ガリバルディ

  1. [ 異表記 ] ガリバルジー( Giuseppe Garibaldi ジュゼッペ━ ) イタリアの愛国者。イタリア統一戦争に活躍。千人隊(赤シャツ隊)を組織して、全シチリア島を解放し、普仏戦争ではフランスを援護した。(一八〇七‐八二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガリバルディ」の意味・わかりやすい解説

ガリバルディ
がりばるでぃ
Giuseppe Garibaldi
(1807―1882)

近代イタリアの愛国者、軍人。ニースの船員の子として生まれ、15歳ごろから地中海や黒海を航海する。1833年中葉に、マッツィーニの結成した「青年イタリア」党の存在を知り、34年2月にはマッツィーニの企てたサボイア遠征に呼応するジェノバ蜂起(ほうき)に加わった。その失敗後、欠席裁判死刑判決を受けて南米に亡命。そこで、ウルグアイの独立運動のために、イタリア軍団を率いてブラジルと戦った。48年の第一次イタリア独立戦争に際して帰国し、義勇軍を率いてオーストリア軍と戦い、翌年ローマ共和国の防衛で国民的な英雄となる。ローマ共和国崩壊後、アメリカに亡命し、商業などを営み、54年イタリアに戻り、カプレラ島に居を構えた。この時期に、状況判断を欠く蜂起活動を繰り返すマッツィーニと決別し、ビットリオ・エマヌエレ2世サルデーニャ王国に接近し、ラ・ファリーナGiuseppe La Farina(1815―63)が結成した穏和な統一運動を志向する「国民協会」の名誉副会長となった。

 1859年の第二次独立戦争では、サルデーニャ王国軍の将軍に任命され、義勇軍「アルプス狙撃(そげき)隊」を率いてオーストリア軍と戦い、勝利を収めた。ビラフランカの講和後、サルデーニャ王国に不満を表明して将軍を辞し、カブールによる、生まれ故郷ニースのフランスへの割譲に激しく抗議した。60年4月、シチリア島のパレルモを中心に起こった反ブルボン家の民衆蜂起を支援する遠征隊「千人隊」(別名「赤シャツ隊」)を、クリスピなどとともにジェノバで組織した。同年5月6日、ジェノバのクワルトを出発した千人隊は、同11日にシチリア島西部のマルサラに上陸し、15日にはシチリア農民の参加を得て、圧倒的に優勢なブルボン軍に勝ち、27日にはパレルモを解放した。その後、大陸部に渡り南部イタリアを解放し、10月26日、カブールの派遣したビットリオ・エマヌエレ2世にその解放地を献上して、カプレラ島に引退した。61年にイタリア王国が成立したが、彼はローマとベネチアを欠く統一に満足せず、翌年に南イタリアのアスプロモンテで、さらに67年にローマ近郊のメンターナで武力行動に出たが、いずれも失敗に終わった。71年、フランス第三共和国をプロイセン軍の攻撃から守るために、義勇軍を率いてディジョンで戦った。これが彼の最後の戦闘であった。その後、イタリア王国議会の下院議員に選出され、民主勢力の組織化などに従事した。82年6月2日没。

 リソルジメント(イタリア統一運動)において彼の果たした役割はとりわけ軍事的なものである。しかし、名誉や地位を求めないその庶民的な個性は、イタリア国民を魅了し、いまなお国民的英雄として語り継がれている。また、彼は単にイタリアの英雄であるばかりでなく、ロシアに対するポーランドの戦い、ドイツに対するデンマークの戦いなどを支持したことから、国際的な名声を得るに至った。

[藤澤房俊]

『森田鉄郎著『イタリア民族革命――リソルジメントの世紀』(1976・近藤出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ガリバルディ」の意味・わかりやすい解説

ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi
生没年:1807-82

イタリアのリソルジメントの英雄。ニースに生まれ,商船の船員となる。1833年マッツィーニの〈青年イタリア〉に加盟,34年2月ジェノバ蜂起を計画するが失敗,欠席裁判で死刑判決をうけてブラジルに亡命。折から独立を宣言したリオ・グランデ・ド・スル共和国を支持して,ブラジルとの海戦に活躍,41年モンテビデオに移り,今度はウルグアイ共和国を助けてアルゼンチンと戦う。13年間の南米体験は,解放運動とゲリラ戦法,赤シャツの愛用やフリーメーソンへの加盟など,のちのガリバルディの活動にとって貴重な出発点となった。48年イタリアに戻って,対オーストリア独立戦争に参加,次いでローマ共和国の防衛に赴き,軍事責任者としてフランス軍との戦闘の指揮をとる。ローマ共和国崩壊後,再び亡命を余儀なくされてタンジール,ニューヨークと移り住み,さらには商船船長としてオーストラリア,中国にまで航海した。54年サルデーニャ王国に帰国して,地中海の小島カプレラ島に居を定め,カブール首相とも接触を保ちながらピエモンテ政府の後援するイタリア解放のための組織〈国民協会〉に協力する。59年,対オーストリア第2次独立戦争に義勇兵から成るアルプス猟歩兵軍団を率いて戦果をあげるが,彼の生地ニースをフランスに譲渡するなど外交関係を重視するカブールの方針と対立し,60年5月義勇兵約1000人と共にシチリア遠征を敢行する。蜂起したシチリア民衆と共同してブルボン軍を破り,シチリアを制圧したあとナポリまで攻め入って,両シチリア王国の崩壊に導いた。61年国家統一が成ってイタリア王国が成立するが,国家形成のあり方に不満のガリバルディは62年,67年と兵を起こしてローマ解放を試み,2度とも政府軍に阻止されて失敗に終わる。67年ジュネーブで開かれた平和と自由のための国際会議に出席して諸民族の国際的連帯を訴え,70年の普仏戦争に際しては義勇軍を率いてフランスの援助に向かい,ディジョン戦線で勝利を収めてボルドーの国民議会議員に選出された。70年代の初め,独自の社会主義観にたってイタリアにおける第一インターナショナルの運動に加わるかたわら,《回想録》の完成や小説の執筆にうちこんだ。被抑圧者の解放に尽くした波乱の生涯は,イタリアのみならず他国民の間にも英雄のイメージを残し,神話を生みだした。日本でも明治期に西郷隆盛と比較して論じられたり,東海散士の政治小説《佳人之奇遇》に登場したりした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガリバルディ」の意味・わかりやすい解説

ガリバルディ
Garibaldi, Giuseppe

[生]1807.7.4. ニース
[没]1882.6.2. カプレラ島
イタリアの愛国者,ゲリラ戦指導者。青年時代に G.マッツィーニの指導する青年イタリアに加盟して,国家統一運動を推進。 1834年ジェノバ港で民衆革命を起そうとしたが,発覚したため亡命し,欠席裁判で死刑の宣告を受けた。 36~48年南アメリカで亡命生活をおくり,そこでゲリラ戦を身につけた。 48年革命の際イタリアに戻り,49年のローマ共和国防衛戦を指揮して名をあげ,ローマ陥落後は,イタリア各地を転戦し,再びアメリカ合衆国に亡命した。 54年帰国を許され,60年 C.カブールの政策に反対して義勇軍 (赤シャツ千人隊) を組織し,シチリアと南イタリアに渡り,独裁政権を樹立。しかしサルジニア王国軍が進攻してきたため,シチリアと南イタリアをビットリオ・エマヌエレ2世に献上して,みずからはカプレラ島に隠遁。その後,62,67年と数度にわたって兵を起し,ベネチアとローマの奪回を試み,また 70年の普仏戦争に際しても,義勇軍を率いてフランス軍に参加,その名をあげ,フランス国民議会の一員に選出された。 74年イタリア議会議員となり,その2年後公職生活から引退した。

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百科事典マイペディア 「ガリバルディ」の意味・わかりやすい解説

ガリバルディ

イタリア統一の功労者。1833年青年イタリアに加入,1834年ジェノバで反乱を企図したが失敗,フランスを経て南米に亡命する。ブラジル,ウルグアイの独立運動に参加し,1848年二月革命(1848年革命)の際に帰国。1860年赤シャツ千人隊を組織し,両シチリア王国を征服してサルデーニャ国王ビットリオ・エマヌエレ2世に献上,イタリアの国家統一を実現した。
→関連項目シチリア[島]ニースモネタ両シチリア王国

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ガリバルディ」の解説

ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi

1807~82

イタリアの軍人,革命家。青年イタリアに加入し,1834年にジェノヴァで蜂起を企てるが失敗。南アメリカに亡命し,ウルグアイなどの独立運動に協力する。48年にイタリアに戻り,第1次イタリア‐オーストリア戦争に義勇兵として参加。再度の亡命生活をへて54年にイタリアに戻り,サルデーニャ王国に接近して,第2次イタリア‐オーストリア戦争に参加する。しかし,プロンビエールの密約に失望し同王国から離反。千人隊を率いて南イタリアを征服。イタリア統一の大義のために,征服した南部をサルデーニャ王国に献上した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ガリバルディ」の解説

ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi

1807〜82
イタリア統一運動の英雄
軍人出身。青年イタリアの蜂起に加わったが,敗れて南アメリカに亡命し,独立運動に参加。1849年マッツィーニのローマ共和国革命に加わって再び亡命し,54年帰国。1860年千人隊(赤シャツ隊)を組織し,サルデーニャ王国の援助を得てシチリアおよびナポリを解放,南下したヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と会見,王に解放地域を献上して引退した。1867年ローマ占領を企てたが,フランスに敗れた。カヴール・マッツィーニとともに「イタリア統一の三傑」と称される。

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世界大百科事典(旧版)内のガリバルディの言及

【カプレラ[島]】より

…面積15.75km2。リソルジメントに貢献したガリバルディが,1855年この島を買い取り,居を定めたことで知られる。彼は1861年の統一国家実現後,島に戻った。…

【マルサラ】より

…18世紀後半ブドウ酒の製造が普及してから,この都市の産するマルサラ酒の生産地および輸出港として知られるようになり,今日なおその経済はブドウ酒を中心に成立している。イタリア統一運動において,シチリア征服をめざすガリバルディの率いる千人隊が上陸した地点である。【萩原 愛一】。…

【リソルジメント】より

…11月ローマに民衆運動が起こって教皇はガエタに脱出し,49年2月ローマ共和制の樹立が宣言される。ローマには三頭政の一人に選出されたマッツィーニや亡命先の南アメリカから戻ったガリバルディが集まって,〈人民のローマ〉建設への期待が高まった。しかし,フランス大統領となったばかりのルイ・ナポレオンが,カトリックの保護を口実に軍隊を派遣,ローマ共和制を倒して教皇の復権をもたらした。…

※「ガリバルディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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