イタリアでは1861年に国家統一が実現してイタリア王国が成立するが,この新国家の形成に至る歴史過程を総称してリソルジメントと呼ぶ。日本では〈イタリア統一〉ともいう。リソルジメントとはもともと〈再興〉〈復興〉の意味で,18~19世紀の思想家や運動家によって諸改革の課題が,沈滞しているイタリアに再び過去の繁栄をよみがえらせる課題,つまりリソルジメントとして自覚され,その名において運動が進められたことに由来する。当時において再興すべき過去の繁栄とは,古代ローマ時代よりもむしろ中世のコムーネ時代が意識されていた。
リソルジメントの過程は長期にわたっており,その間に状況の推移があるが,運動の推進者によって目標とされたのは自由,独立,統一ということであった。しかし,リソルジメントの推進者たちがすべて共通してこの三つを目標に掲げたわけではなく,また3目標に対する重点の置き方にも違いがあった。むしろ,この三つの目標をめぐってどれを主たる課題とするか,あるいはそれぞれの目標の内容をどう理解するか,さらにはこれらの目標をどのようにして達成するかなどの論争と対立があり,この論争と対立を通してリソルジメントは進行した。独立とはオーストリアに支配された地域の解放を指し,この目標に関しては運動内部での対立はあまりなく,ほぼ共通して追求された。これに反して自由の目標は,その内容をめぐって多くの問題が生じた。自由の要求は多くの場合,憲法制定と議会開設の要求として表現されたが,そこにはまず共和制か君主制かの選択がからんできた。また議会開設では一院制か二院制かの議論があったが,とくに論争となったのは選挙権資格の範囲に関してであった。19世紀ヨーロッパの選挙制は通常,納税額を基準とした制限選挙制がとられており,イタリアでも選挙権を高額納税者に限定するか,それとも低所得の民衆にまで広げるかは重要な争点であった。この対立は,単に選挙権資格にとどまらず,一般に民衆の参加を排除しながら政治運動を進めるか,あるいは運動への民衆の参加を求めるかの問題に関連しており,リソルジメントの過程で前者の立場が自由主義派ないし穏健派,後者が民主主義派ないし急進派と呼ばれた。また統一の目標についても多様な構想がぶつかりあった。まずイタリア内の諸地域,諸国家の伝統を重視して連邦制の形態で統一を達成するか,あるいは単一の中央政府のもとで統一国家を建設するかの論争があった。後者の場合でも,地方自治を導入するかそれとも中央集権制にするかの間で主張の開きがあった。それに統一国家の首長をどう選ぶかの問題も運動の主導権争いに関連した。
リソルジメントはこうしたさまざまなプランが競合して進行するが,このほかにもさらに別の要因が作用して,運動の過程を複雑にしている。一つは農民運動,とりわけ南イタリア(メッツォジョルノ)の農民運動の介入である。この運動は土地問題をめぐる固有の課題を掲げて,直接には自由,独立,統一を目標としていないが,リソルジメントにおける社会問題の存在を明るみに出して全体の過程に影響を及ぼした。もう一つは,ヨーロッパの国際関係という問題である。これは単に外交問題としてでなく,リソルジメントが広くこの時代のヨーロッパ社会の変革過程の一局面を構成すると同時に,この変革に対するイタリア独自の対応の仕方を表しているという意味で,両者は不可分の関係をなしていた。第3の要因としてローマの存在がある。ローマ帝国にしろローマ教会にしろ,ローマは普遍的な存在として,ヨーロッパ史のなかで特別の位置を占めてきた。そのローマを新たにヨーロッパの中心としてよみがえらせる使命がイタリアに託されているとする観念が,リソルジメントの過程で一部の間に生じたが,現実にはローマ教皇の存在はリソルジメントの進展にとって障害となった。ローマをめぐる問題はリソルジメントにおける争点の一つとなり,しかものちのちまで国家と教会の関係として尾をひくことになった。リソルジメントは以上のような諸問題のからみ合いのなかで展開し,結局は君主制に立つ統一国家の成立をもって終わる。王位にはサボイア家が就き,政治的な支配権を掌握したのは穏健自由主義派であった。
イタリアにおけるリソルジメント研究は,統一国家成立の直後から始まって長い歴史をもつが,研究史のうえで重要な位置を占めているのはクローチェとグラムシである。クローチェは,彼以前の歴史研究の2潮流である考証史学派と経済・制度史学派に対して,前者は問題観を欠いた実証主義,後者は生の躍動をとらえられない史的唯物論の亜流として共に否定し,みずからは倫理・政治史の方法を打ち出した。この方法は従来の国家史と文化史の統合を図るものとされたが,具体的には知的および政治的な指導階級に中心をすえた歴史を意味した。クローチェはまた,歴史における自由の発展の契機を重視し,自由主義的歴史観を表明した。《イタリア史:1871-1915年》(1928)と《19世紀ヨーロッパ史》(1932)が,この観点から書かれた代表作である。クローチェの方法および歴史解釈に近い立場の歴史家にオモデオAdolfo Omodeo(1889-1946)がおり,彼には《リソルジメントの時代》(1931),《カブール伯の政治行動》(1940),《リソルジメントの擁護》(1952)などの著作がある。この2人以前の研究は,リソルジメントをイタリア固有の再興運動とみなして独立戦争,外交史,サボイア王朝史などに叙述の中心を置き,秘密結社や革命的事件ももっぱら愛国的見地から解釈していたが,クローチェとオモデオは,リソルジメントを一国史的観点から解放して,広く19世紀ヨーロッパの自由主義運動の一環に位置づける新しい視野を開いた。そして,19世紀ヨーロッパにおける自由主義,民主主義,社会主義,君主主義,カトリシズムといった諸世界観の対立のなかで,リソルジメントがカブールに代表される穏健自由主義的な性格で解決されたことに積極的な評価を与えた。
一方,クローチェの自由主義史観を批判しつつ,別の解釈を提示したのがグラムシである。グラムシは膨大な獄中ノートを残して1937年に死去したが,ノートの歴史論の部分が《リソルジメント》と題して1949年に公刊され,注目を浴びた。彼はマルクス主義の立場からリソルジメントをブルジョア的変革の過程としてとらえ,そのうえでこの変革の規模と形態について分析する必要を説いた。彼は,ブルジョア的変革が民衆的で民主主義的な性格をもつには,変革を推進する政治勢力と変革の過程で生ずる民衆運動との間に同盟関係の成立することが必要となるが,リソルジメントはこの同盟を欠いたために民衆的で民主主義的な性格を帯びることができなかったと指摘した。つまり,穏健自由主義派のブルジョアジーが開明貴族との同盟によって強力な政治指導を発揮したのに比べ,民主主義派を代表する中小ブルジョアジーは民衆運動,とくに農民運動と同盟を結ぶ思想をもたず,このため民主派に対する穏健派のヘゲモニーが確立されて,リソルジメントの穏健自由主義的な解決に導いたというのである。グラムシはリソルジメントがこうした経過をとった理由として,フランス革命以後の国際関係とイタリア・ブルジョアジーの社会的性格の2要因を重視した。
グラムシのノートは,その後のリソルジメント研究に多様な刺激を与えた。それまでの研究は穏健自由主義勢力に関心を向けることが多かったが,グラムシ以降民主主義勢力内部の思想,組織,運動の研究が進み,民主派の政治指導が民衆の社会運動と同盟を結びえなかった諸問題について考察が深められた。こうした研究動向に対して,自由主義史観に立つ歴史家ロメオRosario Romeoが50年代後半から新たな問題を提起し始めた。それはイタリアにおける資本主義の発達と工業化という問題で,この点からすると北部産業ブルジョアジーが支配権を確立し,南部農民が犠牲になるのはやむをえなかったとして,グラムシを批判しつつリソルジメントの穏健自由主義的な解決を擁護したのである。こののち,リソルジメントの政治的・社会的な推進勢力に関する問題と,工業化の条件に関する問題の2点にわたる方法論の検討が進み,個別研究の積重ねが続いている。
リソルジメントの終期はイタリア王国の成立した1861年ないしローマを併合して統一が完成した1870年とすることで見解は一致しているが,その起源については大きくいえば二つに分かれている。一つは,18世紀にイタリア諸国家がそれぞれに進めた啓蒙改革政策に起源を置く見方で,これはリソルジメントがフランス革命以前から始まったイタリア固有の運動であることを強調する立場となる。もう一つは,1796-99年の〈三年革命期〉ないし〈ジャコビーノ革命期〉を起源とする見方で,この革命は1796年に始まるフランス軍のイタリア侵入に呼応して,ジャコビーノ派(イタリアのジャコバン派)が各地域で共和政の樹立を試みた事件である。このときジャコビーノ派の一部によってイタリア統一の目標が革命の課題に掲げられ,またフランスでバブーフの陰謀事件に加わっていたブオナローティと彼らの間に緊密な協力関係がみられた。この時期を起源とする見方は,啓蒙改革政策の挫折のゆえにジャコビーノ革命が生じたこと,それにこの革命期に初めてイタリア統一の目標が具体化されたことの2点を重視したものである。ジャコビーノ革命は1796年のピエモンテから始まって99年のナポリ革命に至るまで,北から南へと継起したが,結局はすべて失敗に終わった。
このあとイタリア半島はナポレオン体制のもとに置かれ,北・中部はフランスに併合された地域を除いてナポレオンを王とするイタリア王国に,南はジョゼフ・ボナパルト,次いでミュラーを王とするナポリ王国に編成された。このフランス支配期にナポレオン法典の諸原則が導入されて,市民的諸改革が行われた。官僚と軍隊の機構も整備され,開明貴族やブルジョア層からの人材登用の道が開かれた。ナポリ王国では封建制廃止令が出され,貴族層の衰退と農村ブルジョアジーの台頭が顕著となった。しかし,この時期の土地改革は不徹底で,貴族的大土地所有が維持される一方,教会領や共有地を入手したブルジョアジーも所有地を拡大し,伝統的な大土地所有の構造(ラティフォンド)は存続した。この改革ではほとんどの農民は共有地の分配を受けることができなかったばかりか,彼らの生活を支えていた共同体的用益権をも失った。これ以降,南イタリア(メッツォジョルノ)の農民にとって土地問題は最大の争点となり,リソルジメントの過程に独自の介入を示すことになる。
ナポレオン体制が崩れたあと1815年以降のウィーン体制のもとで,イタリアには次の諸国家が分立する。サボイア朝のサルデーニャ王国,オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国,ハプスブルク家のトスカナ大公国,ローマ教皇の支配する教会国家,スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国,それにパルマ公国,モデナ公国,ルッカ公国などで,全体としてオーストリアの強い影響下にあった。フランス支配期の市民的諸改革は後退して,各国とも旧制復古の政策がとられた。これに対して立憲自由主義の運動が秘密結社のカルボナリ党を通じて進められた。カルボナリ結社は最初南イタリアで成立したが,しだいに北イタリアにも浸透し,軍人,官吏,弁護士,医師,開明貴族など幅広い社会層の参加をみた。1820年ナポリでカルボナリを主体とする革命が成功し,憲法が発布された。このときシチリアでナポリからの分離を求める自治主義革命が生じたが,ナポリの革命政府に抑圧された。そのナポリの革命政府も21年にオーストリア軍の介入で崩壊した。21年にはピエモンテ(サルデーニャ王国)でカルボナリ結社とブオナローティの指導する秘密結社フェデラツィオーネFederazioneが中心となった革命が起こり,憲法の制定を宣言したが,短期間で失敗に終わった。31年,再びカルボナリ結社を中心とする中部イタリア革命が生じたが,この場合もオーストリア軍の介入で失敗に帰した。
31年革命の敗北を最後にカルボナリの時代は終わり,新たにマッツィーニによる青年イタリアの運動が始まる。立憲自由主義的性格のカルボナリに対して,青年イタリアは共和主義と統一主義を掲げた急進的な性格で,蜂起を主とする直接行動を盛んに試みた。30年代~40年代は青年イタリアの運動が活発である一方,マッツィーニ主義とは違ったやり方でイタリアのリソルジメントを考えようとする動きもあった。それは直接的な政治運動の形態でなしに,社会的・経済的な運動として進められ,鉄道の開設,信用制度の整備,慈善事業の拡充,さらには諸国間の関税同盟の結成などが議論された。関税同盟をめぐる議論には,単に通商の自由だけでなく,ゆるやかな連邦制によるイタリアの統一という政治的構想が盛り込まれていた。また1839年以降,イタリア全土の科学者会議が毎年開催され,社会問題や科学技術を論じながら近代化の課題が検討された。これらを推進したのは穏健自由主義者であったが,43年にV.ジョベルティが発表した《イタリア人の道徳的・文化的優越》という書は,これらの動きと結びついて一時もてはやされた。ジョベルティの書はイタリアのナショナルな運動とカトリシズムとの調和を図ろうとする性格をもち,イタリア文化の一部に根づいているネオゲルフィズムneoguelphism(教皇の保護のもとでのイタリアの自由と独立という思想)を表明したものであった。
1848年はヨーロッパ各地に革命の波が広まり,諸国民の春と呼ばれているが,イタリアでも1月のシチリア島パレルモの反乱を皮切りに諸国で革命が継起し,憲法の発布と議会の開設がみられた。また3月,ミラノの5日間の蜂起でオーストリア軍が追放されたのをきっかけに,サルデーニャ王国がロンバルディアに軍隊を派遣して独立戦争を始めた。他の国からも軍隊が派遣されて独立戦争はイタリア全体のものとなったが,4月末ローマ教皇がこの戦争からの離脱を表明し,これに続いて両シチリア王国も撤兵を決めた。ローマ教皇のこの行為はネオゲルフィズムへの期待を消滅させ,教皇がリソルジメント運動から決定的に離れることを意味した。独立戦争は敗北し,8月にオーストリア軍がミラノに再入城した。11月ローマに民衆運動が起こって教皇はガエタに脱出し,49年2月ローマ共和制の樹立が宣言される。ローマには三頭政の一人に選出されたマッツィーニや亡命先の南アメリカから戻ったガリバルディが集まって,〈人民のローマ〉建設への期待が高まった。しかし,フランス大統領となったばかりのルイ・ナポレオンが,カトリックの保護を口実に軍隊を派遣,ローマ共和制を倒して教皇の復権をもたらした。
48年革命の波のひいたあと,イタリア諸国はサルデーニャ王国を除いて再び革命以前の状態に戻った。サルデーニャ王国は48年に発布されたカルロ・アルベルト憲章と議会を存続させて,イタリアで唯一の立憲議会制の国となった。この国の首相にカブールが就任すると,政治的および経済的な自由主義政策がいっそう推進され,イタリア各地からの政治亡命者がピエモンテに集まった。サルデーニャ王国は,いわば穏健自由主義勢力の指導部的役割を果たすことになった。他方,民主主義派では48年革命の敗北後,国家統一と社会革命の関係をめぐって激しい論争が生じた。マッツィーニがイタリアの主導性,国家統一の最優先,社会革命の否定という立場をとるのに対して,ミラノ革命で活躍したC.カッターネオやG.フェラリのグループは連邦共和制,政治革命と社会革命の結合,フランス共和派との連携を唱えて反マッツィーニ派の結集を図った。C.ピサカーネは国民的再生の運動は社会革命なしには実現しえないとしたが,フェラリらと違ってフランスに依存せずイタリア独自の主導性をもたねばならないと主張し,57年にサプリ遠征を試みた。
→48年革命
サルデーニャ王国のカブール首相は,イタリア全体の統一よりも,北イタリアをイギリス,フランスの西欧文化圏に組み入れることを構想していた。彼はプロンビエールの密約(1858)によってナポレオン3世と同盟を結び,59年4月オーストリアに対する第2次独立戦争を開始した。この戦争に勝利して,7月ロンバルディアを併合するが,ベネト地方はオーストリア支配下にとどまった。この間,中部イタリアでも蜂起が起こって臨時政府ができ,トスカナとエミリア両地域は60年3月の住民投票によってサルデーニャ王国との合併を決めた。サルデーニャ王国は領土拡大に際し,王家発祥の地サボイアおよびニースをフランスに譲渡して,ナポレオン3世との摩擦を避けた。民主主義派はこうしたカブールの政策に対して革命を外交化するものと批判を加え,60年5月ガリバルディら約1000人がシチリア遠征を敢行した。
この遠征はシチリアにおける反ブルボン闘争に合流し,さらに半島南部に渡って,南からローマを攻める目標を立てていた。ガリバルディを解放者とみたシチリアの農民は,年来の土地問題の解決を要求して独自の運動を強め,土地再分配の実施を迫った。ガリバルディの遠征隊は第1陣のあと,後続部隊が次々と到着して1万に近い数になる。この遠征はヨーロッパ諸国の注目を浴びて,外国人義勇兵や通信特派員もガリバルディのもとにかなりの数が集まった。ガリバルディ軍はブルボン正規軍との戦いに勝利してシチリアの独裁権を掌握するが,しかし農民の要求には理解を示さず弾圧にまわることになる。遠征隊は9月にナポリを征服して両シチリア王国の崩壊に導き,さらにローマ攻撃を準備した。民主派はローマを解放して制憲議会を召集し,そこで新国家のあり方について討議する構想を抱いていた。これに対してカブールは,ローマ攻撃がフランスとの衝突を招くことを恐れて,サルデーニャ王国軍をナポリに派遣し,ガリバルディの行動を阻止する措置をとった。それと同時に,ガリバルディの行動基盤を崩すためにシチリアと南イタリアで住民投票を実施し(10月),両地域を急いでサルデーニャ王国に併合した。
イタリア統一の政治的目標を目ざす民主主義派の運動は,土地問題の社会的要求を掲げる農民運動と同盟を結ぶ思想をもたず,このことは民主派が穏健自由主義派との主導権争いに敗れる一因となった。イタリアの統一はサルデーニャ王国が他の諸国を併合する形で実現し,61年にイタリア王国Regno d'Italiaとなったが,こうして成立した新国家は,サルデーニャ王国の政治,行政,財政,司法,教育,軍事の諸制度を全イタリアに適用することになり,きわめて中央集権的な性格を示した。南部農民層は統一国家の成立後も独自の要求を掲げて運動を続けるが,新国家は軍隊を投入してこれの鎮圧に努めた。このあと66年のプロイセン・オーストリア戦争(普墺戦争)の際にベネトを,70年の普仏戦争のときにローマを併合して統一は完成するが,ローマの併合は国家と教会の関係をめぐるローマ問題を新たに生み出した。穏健自由主義派はリソルジメントの過程と同様,新国家の建設に当たっても民衆の政治参加を望まず,国家と民衆の分裂は,国家と諸地域をめぐる困難な関係と併せて,こののちイタリア史の過程にさまざまな問題を投げかけることになる。
→イタリア[歴史]
執筆者:北原 敦
リソルジメントの時代はイタリア文学にとってとりもなおさずロマン主義の時代であったが,リソルジメントの理想をみずからの最大の主題としたイタリアのロマン主義は,社会的責務を強く自覚し,緊急の政治課題に鋭くかかわった独自のものであった。たとえば,民族的自覚と愛国心を鼓吹する有用な媒体としてすでにV.アルフィエーリがすすめていた演劇,なかんずく悲劇は,ロマン主義の機関誌《コンチリアトーレ》(1818-19)を創刊したS.ペリコ,あるいはマンゾーニらによって手がけられ,リソルジメント文学の重要なジャンルとなった。なお,19世紀におけるほとんど唯一の国民芸術であったオペラは,ベルディ,ロッシーニらの大作曲家を得て,ロマン主義的愛国心の表現にみごと成功した。また民族の歴史と運命への熱烈な関心は歴史小説の流行を生んだ。代表作であるマンゾーニの《いいなづけ》(1827。決定版1840-42)は国家統一と並んで深刻な言語統一の問題に一応の解決を与えた点でも重要である。他方,リソルジメント運動の渦中からは多数の記録文学が生み出され,たとえばペリコは投獄体験を《獄中記》(1832)に著して,民族解放運動の高揚に大きく寄与した。詩の分野では,ロマン主義の宣言文〈半ばまじめな手紙〉(1816)を草し,ペンで闘う亡命詩人とのちに呼ばれたG.ベルシェを中心に愛国詩が隆盛をみた。また文学研究の領域では文学史の叙述が重要な意味を担った。すなわち,デ・サンクティスは主著《イタリア文学史》(1870-71)においてイタリア民族とその文化の歴史を文学をとおして統一的にとらえ,リソルジメントの理念を文学的に実践した。
リソルジメントの理想によって支えられてきたイタリアのロマン主義も,獲得された現実に対する幻滅のために感傷的傾向を帯びるようになると力を失い,代わって60年代以降スカピリアトゥーラ派の運動が起こり,やがて現実を直視するベリズモの時代に移る。
→イタリア文学
執筆者:林 和宏
リソルジメントの時期の日本はまだヨーロッパから遠い存在で,イタリアとの直接の交渉はなかった。イタリアの派遣使節V.F.アルミニョンがコルベット艦マジェンタ号で江戸に着いて,日伊修好通商条約が締結されるのが1866年(慶応2)のことである。翌67年,パリの万国博覧会への出席と条約締結国訪問のために徳川昭武を代表とする使節団がヨーロッパに派遣され,イタリアにも滞在する。しかし,この使節団の記録にはリソルジメントへの言及はみられない。明治維新を経て71年(明治4)末,岩倉具視を全権大使とする大規模な使節団が欧米に派遣され,73年5月にイタリアを訪問している。岩倉使節団は《米欧回覧実記》を残しており,そこでリソルジメントに触れているが,おそらくこれが日本での最初のリソルジメント論であろう。同書でリソルジメントの中心人物とされているのはガリバルディで,カブールやマッツィーニの名は出てこない。これには,イタリアの国家統一に関する使節団なりの解釈が働いていると考えられる。武力による討幕と王政復古を成し遂げたばかりの彼らからみて,おそらくカブールは外交上の策に傾きすぎたと判断され,マッツィーニの共和主義思想は急進的でありすぎたであろう。それに比べガリバルディは,兵を率いて両シチリア王国を征服しており,しかも彼は国王ビットリオ・エマヌエレ2世と密接な関係を有していた。こうした事情が使節団のリソルジメント観に作用していたとみることができる。その後日本では,イタリア建国の三傑としてガリバルディ,カブール,マッツィーニに焦点を当てたリソルジメントのイメージが作られるようになる。この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891-92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。
執筆者:北原 敦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
18世紀末から1870年に至るイタリア統一国家の形成過程をさす。イタリア統一運動あるいは「イタリアの統一」ともいう。リソルジメントとは、イタリア語で「復興」を意味するが、この運動の最大の功労者カブール伯爵が1847年にトリノで発刊した新聞名『イル・リソルジメント』に由来する。すでに1世紀を超える研究史をもつリソルジメントの評価は、問題が多様であるだけに複雑多岐に分かれるが、その本質については、絶対主義と教権主義に対する自由主義の勝利とみるクローチェの見解と、大衆の参加を欠いた受動的ブルジョア革命とするグラムシの見解とが影響力のある二つの解釈である。
[重岡保郎]
リソルジメントの起源については、18世紀後半のイタリア啓蒙(けいもう)改革にあるという自生的見地と、他方フランス革命の影響のもとにあるという外来的見地とがある。しかし政治的民族意識の目覚めは、前者のうちにはみられない。運動の出発点は、フランス革命とナポレオン体制によって提供されたとみるべきである。なぜなら、フランス軍の占領下(1796~99)に、イタリアのジャコバン主義者の一部は統一共和国の樹立を運動目標に掲げた。さらに19世紀初めのナポレオンによる支配は、イタリアに三つの統合された国家を与え、関税障壁の撤去によって経済の発達をもたらし、ナポレオン法典をはじめフランス流の近代的諸制度の導入により、民族的自覚と中産階級の成長を促したからである。
[重岡保郎]
ナポレオン体制の崩壊後のウィーン体制のもとで、イタリアは次の諸国家から構成された。すなわち、オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国、トスカナ大公国、教会国家、パルマ公国、モデナ公国、ルッカ公国、スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国、そしてサルデーニャ王国である。ナポレオンにかわってイタリアの主人となったオーストリア宰相メッテルニヒは、「イタリア人の統一精神と立憲思想を根絶し」「イタリアのジャコバン主義を抹殺」しようともくろんだが、復帰したイタリアの諸君主はみなこれを受け入れた。これに対して、立憲自由主義の運動が、フリーメーソンから派生した秘密結社(南部では「カルボナリ」党、北部では「アデルフィア」党)を通じて非合法に展開され、1820~21年にナポリとピエモンテで、31年には中部各地で革命的反乱を引き起こしたが、いずれもオーストリア軍の介入で鎮圧された。
[重岡保郎]
秘密結社の運動の反省から、二つの運動が生じる。第一の運動は、1831年にマッツィーニが結成した青年イタリア党である。彼は、カルボナリ党のあいまいな目標に、民族の独立と統一共和政の樹立という明確な目標を対置し、その目標達成のために、エリートを結集した秘密結社によってではなく、教育を通じて民族意識に目覚めた人民の蜂起(ほうき)によらねばならないとした。青年イタリア党は、北イタリアを中心に主要都市に支部を広げ、マッツィーニの国外からの指導で30年代何度か蜂起を試みたが、いずれも失敗に終わった。この党は48年に解散された。
青年イタリア党と異なる第二の運動は、1840年代の穏健自由主義運動である。これは政党ではなく、世論に基づく漸進的改革運動である。この世論の背景には、30年代以降の北部の経済的発展があった。そのなかでイタリアの近代化が独立と統一に不可欠であるという世論が新聞・雑誌を通じて形成されていった。この動きのなかで注目されたのが、43年に出版されたジョベルティの『イタリア人の倫理的、市民的優位について』である。それは、教皇を盟主とする諸邦の連合こそ民族を復興するというネオグェルフ主義の構想である。その後、バルボとダゼリオによって政治的穏健主義が仕上げられた。
[重岡保郎]
1848年初めシチリアで分離と憲法を求める反乱が起こり、両シチリア国王がその要求に屈すると、反乱はしだいに他のイタリア諸地方に波及し、3月ついにオーストリア支配下のベネチアとミラノで反乱が起こり、オーストリア守備隊を駆逐した。これを機にサルデーニャ王カルロ・アルベルトをはじめ、全イタリアが対オーストリア戦争に立ち上がり、各地から義勇兵が北上した。しかし、この民族戦線は成立と同時に破綻(はたん)する。ピウス9世、ついで両シチリア国王が戦線から脱落した。カルロ・アルベルトは戦線にとどまったものの、義勇兵の共和主義を恐れ、正規軍だけの戦いを続け、サラスコの休戦を強いられた。この休戦以後、急進主義の道が開かれる。48年夏から1年にわたり、ベネチア、ローマ、フィレンツェで急進派が順次権力を握り、49年ローマ共和国が樹立された。マッツィーニやガリバルディが参加した共和国は「人民のローマ」建設を目ざして注目すべき諸政策を行ったが、ルイ・ナポレオンのフランスの軍事介入により倒された。他の2共和国もオーストリア軍の介入で崩壊した。この間、49年春サルデーニャ軍は対オーストリア戦を再開するが、たちまち敗北し、同年カルロ・アルベルトは退位した。
[重岡保郎]
その後、イタリア諸国には旧体制が復活した。しかしそのなかで新たに即位したビットリオ・エマヌエレ2世のサルデーニャ王国だけは、1848年憲法を保持し、議会政治を発展させていった。右派が支配的であった52年の議会において、カブールは中道左派の支持を得て新しい議会内多数派を形成し、この中道左派と中道右派の政治同盟をきたるべき彼の内閣の基礎に据えた。これは開明貴族とブルジョアジーの同盟を意味するとともに、政治過程から民衆を排除した穏健主義が反動に堕さない保証でもある。同年秋彼は首相になると、教会・保守勢力の打破に努める一方、産業育成、鉄道・通信などの基礎構造の整備および軍制改革により国力の強化を図るとともに亡命者を優遇したので、イタリア各地から亡命者がピエモンテに集まった。マニンのように「一八四八年の革命」の主役を演じた共和主義者もしだいにサルデーニャ王国によるイタリア統一を支持する動きをみせ、カブールのひそかな援助のもとに「イタリア国民協会」を結成した。ガリバルディも参加したこの組織は、中部やシチリアに広がり、急進派に対するカブールのヘゲモニー装置となった。
[重岡保郎]
カブールは、「一八四八年の革命」以来、私有制度にとり危険な民衆革命を伴わずに独立と統一を達成する道を模索し、結論として革命の外交化を目標に掲げた。すなわち、イタリアの民族的問題を全ヨーロッパの前に提出し、サルデーニャ王国がヨーロッパ諸国の支持を得ること、とくにイギリス、フランスの支持のもとに王国正規軍だけで対オーストリア戦争を遂行することがその内容であった。54年のクリミア戦争への参加は、このための深慮遠謀である。カブールは、プロンビエールの密約(1858)によってナポレオン3世と同盟を結び、59年4月対オーストリア独立戦争を開始した。同年7月、オーストリア軍を破ってロンバルディアを併合し、さらにナポレオンとの取引で中部の併合をかちとった。当面の課題として北イタリアの統一のみ考えていたカブールにとって、60年3月の住民投票による中部併合は第一段階の終了だった。翌4月以後に始まる第二段階は、カブールの構想を超えたところから生じた。中部併合の代償としてフランスに割譲されたニースの出身だったガリバルディは、カブールの政策に激しく抗議し、外国に頼らないイタリア独自の解放を目ざして、義勇軍によるシチリア遠征を敢行した。当時シチリアには農民反乱が起こっていたが、ガリバルディはこの勢力と結び付いて同島の両シチリア王国軍を撃破し、さらに半島南部を席捲(せっけん)した。この征服は、農民や共和主義者の蜂起に支えられていた点で、第一段階の路線とはまったく異なるものであった。しかし、カブールはこの動きを、穏健派や国民協会の組織を利用してひそかに牽制(けんせい)しながら、機をみてサルデーニャ正規軍を南部に投入、両シチリア王国軍に対し最後の勝利を収めた。
こうしてイタリアの統一はサルデーニャ王国が他の諸国を併合する形で行われ、1861年春イタリア王国が発足した。未回収の領土ベネトは66年のプロイセン・オーストリア戦争の際に、同じくローマは70年のプロイセン・フランス戦争の際に王国に併合され、ここにイタリアの統一が完成した。
[重岡保郎]
『北原敦著『リソルジメントと統一国家の成立』(『岩波講座 世界歴史20』所収・1971・岩波書店)』▽『森田鉄郎著『イタリア民族革命』(1976・近藤出版社)』▽『クローチェ著、坂井直芳訳『十九世紀ヨーロッパ史』(1982・創文社)』▽『藤澤房俊著『赤シャツの英雄ガリバルディ』(1987・洋泉社)』
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イタリアの外国支配からの解放と統一をめざした自由主義と民族主義の運動をさす。原義は「再興」「復興」。もともとは17~18世紀の沈滞からイタリア諸地域を復興させる運動を広くさす言葉であり,国家の統一は含意されていなかった。フランス革命とナポレオン支配をへて,王政復古期に外国支配からの解放と統一国家の形成を展望する思想が次々に登場した。その典型的な例が,民衆の主体的行動にもとづく共和主義的な統一国家を形成する構想と,ローマ教皇を中心とする連邦制的な統一国家を形成する構想であった。前者を代表する思想家がマッツィーニであり,彼はみずからの理想を実現するためにたびたび蜂起を計画したが,いずれも成功には至らなかった。後者はジョベルティによって唱えられたが,この構想を実現するのにふさわしい開明的な教皇と期待されていたピウス9世が1848年の革命を契機に統一に強硬に反対する立場に転じたために挫折した。こうした状況のなかで期待を集めたのが,18世紀以来,領土拡張の野心を露わにしていたサルデーニャ王国であった。同国は48~49年の第1次イタリア‐オーストリア戦争の敗北ののち,カヴールの巧みな外交政策によりフランスの支持をとりつけ,59年の第2次イタリア‐オーストリア戦争に勝利して北イタリアの統一に成功した。さらに,60年には住民投票により中部イタリアを併合し,ガリバルディのシチリア遠征を利して南部イタリアを併合した。こうして,リソルジメントはサルデーニャ王国の拡大という形をとって達成された。
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…ところが時代の要請は彼を政治の舞台へと駆り立てた。47年言論統制がある程度緩和されると,同志とともに日刊紙《リソルジメント》を創刊し,立憲君主制確立のために精力的に働いた。翌年3月に発布された憲法に基づいて,議員選挙が実施されると辛くも当選し,議員活動の第一歩を踏み出す。…
…郷党割拠主義,地方主義,そして強固なナショナリズムの併存,そこにイタリア人の地縁的帰属意識の特色がある。【竹内 啓一】
【歴史】
[イタリア史の時代区分と特徴(古代~近代)]
ベネデット・クローチェは,リソルジメント(1861)以前については厳密な意味におけるイタリア史は存在しないと述べている。たしかに単一の政治機構に組織された国家がイタリア半島全域を統治するという事態は,ローマ帝国の時代を除いては見られなかった。…
…イタリア語を〈死語〉とさえ評したミラノ生れの作家A.マンゾーニ(1785‐1873)は,自作の小説《いいなずけ》を書き改めるに際し,同時代の教養あるフィレンツェ人の日常語を用いることにより,文学イタリア語に新たな息吹を与える試みに成功した。 イタリア語が話し言葉として全土に普及するのは国家統一(リソルジメント)以後のことである。言語学者デ・マウロの推定によれば,1861年の統一時に標準語を話すことのできたのは60万人余り(うちトスカナ人40万人,ローマ人7万人),全人口のわずか2.5%にすぎなかったという。…
…この立場は30年代の〈正義と自由〉グループ,40年代の〈行動党〉に受け継がれていく。 第2はクローチェに代表される見方で,ゴベッティと違って,イタリアに統一をもたらしたリソルジメントから20世紀初頭のジョリッティ時代に至る過程を自由主義的発展の歴史として肯定的に評価し,ファシズムはこの発展からの断絶であり逸脱であるととらえた。クローチェの解釈の奥には,大衆の政治への登場が伝統的な自由主義社会の秩序を崩したとする認識があり,ファシズムに対してファシズム以前の自由主義社会への復帰が対置された。…
※「リソルジメント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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