日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジェビト」の意味・わかりやすい解説
エジェビト
えじぇびと
Bülent Ecevit
(1925―2006)
トルコの政治家。イスタンブールに生まれる。1944年ロバート・カレッジ(現、ボスポラス大学)卒業。1946~1950年在イギリス・トルコ大使館新聞報道官、その後新聞・雑誌記者、政治評論家などを経て、1957年共和人民党から国会議員に初当選して政界に入る。1961年から1964年まで労働相を務める。1966年10月に共和人民党書記長に就任したが、1971年3月、軍部による「書簡のクーデター」により辞任を余儀なくされた。1972年5月、臨時党大会で党首イノニュを破って共和人民党の第3代党首に選出された。1973年10月の総選挙で共和人民党が第一党になり、1974年1月第一次エジェビト内閣を組織した(1974年11月まで)。同年7月にキプロスで勃発(ぼっぱつ)したトルコ系住民とギリシア系住民との衝突事件に際して三軍のキプロス進攻を決断した。その後、第二次(1977年6月~7月)、第三次(1978年1月~1979年11月)にわたって政権を担当した。1980年9月の軍事クーデターの後、軍事政権が打ち出した主要政治家の10年間政治活動禁止措置により政界を引退した。しかし、1987年に行われた国民投票の結果、禁止措置が解除され政界へ復帰した。
1985年11月、夫人であるラフシャン・エジェビトRahşan Ecevit(1923―2020)によって創設された、中道左派に位置づけられる民主左翼党の党首に選出された。民主左翼党は1991年10月の総選挙で初めて7議席を獲得、1995年12月の総選挙では76議席を得て党勢は大きく伸張した。1998年1月、国立銀行の民営化の過程で不正介入疑惑が発覚して崩壊したメスト・ユルマズMesut Ylmaz(1947―2020)による連立政権の後を受けて、1999年1月第四次エジェビト内閣が成立した。1999年2月、クルド人過激派組織クルド労働者党(PKK)の党首アブドゥラ・オジャランAbdullah Ocalan(1948― )の逮捕に際して、迅速・的確な作戦を指揮したエジェビトは国民から圧倒的な支持を受ける。1999年4月の総選挙で民主左翼党が大勝、民族主義者行動党と祖国党との連立政権が樹立され第五次エジェビト内閣(~2002年11月)が成立した。
エジェビトは1923年以来続けてきた西欧化の最終段階に位置づけているヨーロッパ連合(EU)正式加盟に意欲を示し、また多数の政治関係著書や論文を著した。インドの詩聖タゴールやイギリスのエリオットの詩集の翻訳のほか自作の詩集もある。
[長場 紘]