イギリスの詩人、批評家、劇作家。9月26日アメリカのミズーリ州セントルイスに生まれ、1927年イギリスに帰化。17世紀後半イギリスからボストンに移住した旧家の出で、祖父はユニテリアン派の牧師、父は実業家である。文学好きな母の血を引いて少年時代から詩作を始め、1906年ハーバード大学に入学してからは学生の編集する文芸誌に習作を寄稿した。アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』(1899)を読んで当時のフランス詩人たちを知り、ラフォルグの軽妙で皮肉な口語体詩に心酔したのもこのころである。1909年大学を卒業してパリのソルボンヌ大学に1年間留学、帰国後はハーバード大学大学院で近代哲学、インド哲学、サンスクリットなどを研究した。1914年夏、今度はドイツのマールブルク大学に留学するが、第一次世界大戦の開戦とともにイギリスのオックスフォード大学に移り、博士論文の執筆にとりかかった。
しかしこの移住はエリオットの生涯に大きな転換をもたらす。1915年6月、イギリスで知り合った画家の娘ビビアン・ヘイウッドと結婚、いったん1人で帰国するが、父親の認めるところとならず、研究生活を捨ててロンドンの学校教師となり、さらに1917年からはロイズ銀行に就職して2人の暮らしを支えた。これ以後1932年までアメリカの土を踏むことはない。一方ではエズラ・パウンドの口利きで詩と評論を雑誌に寄稿し始め、1917年には最初の詩集『プルーフロックとその他の観察』を出版、先鋭なイメージや口語体独白の断片を積み重ね、微妙な心理のあやを表出して、モダニズム文学運動に参加した。1920年の批評集『聖なる森』では従来のロマン主義詩法を否定、詩人は自己の個性を抹消して、全ヨーロッパ文学の伝統を同時的に意識すべきであると主張して、新文学の理論的な立場を明らかにした。1922年には国際的な視野にたつ文芸季刊誌『クライテリオン』(1922~1939)を創刊して文壇に新風を吹き込み、第1号に長編詩『荒地(あれち)』を発表して戦後世代の熱狂的な支持を得た。その後も、17世紀形而上(けいじじょう)派詩人の強壮な感受性を称賛してミルトンのラテン語法を批判し、ダンテの寓意(ぐうい)手法の現代的な意義を考察するなど、文壇や学界に大きな話題を提供して、しだいに詩人・批評家の地歩を固め、イギリス文学の主流となるに至った。1925年フェイバー出版社に迎えられて銀行勤務の過重な負担からは解放されたが、結婚生活では妻の神経症に悩まされて、1932年に別居を余儀なくされた。
イギリス帰化後の1928年、エリオットは「文学では古典主義者、政治では王党派、宗教ではアングロ・カトリックである」と自己の信条を規定して注目を浴びたが、『異神を追いて』(1934)、『キリスト教社会の理念』(1939)、『文化の定義のための覚え書』(1948)など一連の文明論では、キリスト教によってヨーロッパの秩序の確立を求める理想主義者の主張と、政治的保守主義者の姿が重なり合っている。詩の領域では、「うつろな男たち」(1925)から、「灰の水曜日」(1930)、『四つの四重奏』(1943)へ進むにつれて、宗教的な主題があらわになり、風刺の口調は信仰の告白へと変化するが、緊迫した内面の劇をえぐり出すしなやかな感性は失われていない。
また、彼は早くから劇的な話法の再現や、詩劇の復興に関心を寄せていたが、12世紀の大司教ベケットの殉教を描いた『大聖堂の殺人』(1935初演)が好評を得てから、現代に舞台を移して、『一族再会』(1939初演)、『カクテル・パーティ』(1949初演)、『秘書』(1953初演)、『元老政治家』(1958初演)などの詩劇を書き、いちおうの成功を収めた。1948年、現代詩の先駆者としての貢献を評価され、ノーベル文学賞を受賞。最初の妻は1947年に療養所で亡くなったが、1957年1月に秘書バレリー・フレッチャーと再婚、幸福な晩年を送った。1965年1月4日、76歳で死去。ウェストミンスター寺院に葬られた。
[高松雄一]
『吉田健一他訳『エリオット選集』4巻・別巻1(1959・弥生書房)』▽『深瀬基寛他訳『エリオット全集』全5巻(1971・中央公論社)』▽『深瀬基寛著『エリオットの詩学』(角川文庫)』▽『西脇順三郎著『T・S・エリオット』(1965・研究社出版)』▽『寺田建比古著『T・S・エリオット――沙漠の中心』(1963・研究社出版)』▽『平井正穂編『エリオット』(1967・研究社出版)』
イギリスの女流小説家。本名メアリ・アン・クロスMary Ann Cross、旧姓エバンズEvans。11月22日、ウォーリックシャーのアーバリーに地所差配人の子として生まれる。少女のころは熱心な福音主義者だったが、1841年父とともに移り住んだコベントリーで自由思想家チャールズ・ブレイを知り、その影響のもとで信仰放棄の転機を迎える。D・F・シュトラウス著『イエス伝』の翻訳(1846出版)を手がけたのち、1852~1854年の2年間、進歩的総合誌『ウェストミンスター・リビュー』誌の副主筆として編集に携わった。1854年L・A・フォイエルバハ著『キリスト教の本質』を翻訳出版、時を同じくして文筆家ジョージ・ヘンリー・ルイスと手を携えてドイツに向かい、同棲(どうせい)生活に入った。以後ルイスとは正式に結婚しないまま彼の死まで24年間生活をともにしたが、その間彼の勧めで小説執筆に手を染め、1857年中編『エイモス・バートンの悲運』を『ブラックウッド・マガジン』誌に発表、小説家としてデビューした。最初の長編小説『アダム・ビード』(1859)によって作家としての地位を確立、その後、最終作『ダニエル・ディロンダ』(1876)に至るまで、一作ごとに名声を高め、ビクトリア朝小説界に君臨した。ジョージ・メレディスとともに、イギリス小説に真摯(しんし)なる目的意識を付与した功績は大きく、ハーバート・スペンサーが「小説にはロンドン図書館に置くほどのまじめな価値はない」と断言したとき、「ジョージ・エリオットの作品を除いては」という但し書をつけた話は有名である。もっぱら娯楽を主眼とした従来の小説に奥行の深い知的世界を繰り広げ、小説の質的変化をもたらした点でイギリス初の近代小説家とよばれる。
ルイスと死別後、20歳年下の実業家ジョン・ウォルター・クロスと1880年に結婚したが、わずか7か月後の同年12月22日、ロンドンで死去した。
ほぼ20年に及ぶ作家活動の時期は、『サイラス・マーナー』(1861)に至るまでを前期、歴史ロマンス『ロモラ』(1863)以降を後期と二分されるが、前期の作品が登場人物の胚胎(はいたい)から始まっているのに対し、後期の作品は主題の発想から誕生しているのが特徴である。だが、共感の拡張を芸術の目的とし、日常生活における他者とのかかわりのなかに道徳的存在としての人間のあり方を追求する態度は一貫して変わらない。20世紀初頭までは、情感豊かな前期の作品に対する評価がより高く、後期の作品は知性の勝った理性の文学として敬遠されがちであったが、現在は人間洞察の円熟度および作品の芸術的完成度において、むしろ後期の作品を重要視する傾向にある。とくに、ある歴史的時点における地方社会の全体像を人間関係の網を通してとらえた『ミドルマーチ』(1871~1872)は、作者の力量が最高峰に達した作品として傑作の呼び声が高く、イギリス近代小説の古典と目されている。
[川本静子]
『川本静子著『ジョージ・エリオット』(1980・冬樹社)』
イギリスの詩人,劇作家,批評家。アメリカのセント・ルイスに実業家の子として生まれたが,17世紀にイギリスからニューイングランドに移住した由緒ある家系の源に憧れるかのごとく,1927年にイギリスに帰化した。ハーバード大学卒業ののち,ソルボンヌ,オックスフォードでも学び,哲学についての博士論文を母校に提出したが,学位は取らずじまいだった。1915年,ロンドンでイギリス女性と結婚,高校教師やロイド銀行員として生計を立てながら,文壇的交友を深め,著作にふけった。処女詩集《プルーフロックの恋歌》(1917)には,彼がアーサー・シモンズの《文学における象徴主義運動》を通して親しんだフランス世紀末詩人たち,とくにラフォルグやコルビエールの影響が見られ,アイロニカルな独白の語り口が巧みな効果をあげている。同じころ精力的に書いた評論では,彼のもう一つの影響源であるエリザベス朝劇作家や形而上詩人の再評価を唱えたが,彼の究極の狙いは当時の保守的な詩壇に衝撃を与えるような新しい詩的言語の創造であったろう。それを最も明確に説いた評論が《伝統と個人的才能》(1919)であり,それを最も果敢に実践した作品が長編詩《荒地》(1922)であった。同じ年に発表されたジョイスの《ユリシーズ》とともに現代文学の金字塔となったこの詩は,第1次大戦後のヨーロッパの精神的荒廃を神話的文脈においてみごとに描ききったその前衛的手法によって,世界的な影響を及ぼした。
詩《うつろな人間》(1925)でさらに現代人の悲惨を掘り下げたあと,エリオットは宗教的転向をとげる。《聖灰水曜日》(1930)から《四つの四重奏》(1943)にいたる宗教詩は,現代の代表的知性が苦悩をへて信仰者として成熟してゆく道程を示している。この内面的宗教詩人はまた,公的な論壇で重きをなす文明批評家でもあった。28年に〈文学においては古典主義者,政治においては王党派,宗教においてはアングロ・カトリック〉という立場を明言したエリオットは,季刊誌《クライティーリオン》を第2次大戦直前まで主宰して,ヨーロッパ文化の正統のために論陣を張り,《キリスト教社会の理念》(1939)や《文化の定義のための覚書》(1948)を発表する。宗教劇《寺院の殺人》(1935)はもちろん,《一族再会》(1939),《カクテル・パーティ》(1949),《秘書》(1953),《老政治家》(1958)などの詩劇も,宗教的主題を世俗的設定の中にひそめつつ,信仰の問題を現代の知的大衆に提起しようとする試みだった。死ぬまで出版社フェーバー・アンド・フェーバー社の重役でもあった彼の生涯は,ジョイス,パウンドらにくらべ,功成り名とげたまれな20年代作家のそれであったといえよう(1948年ノーベル賞受賞)。日本では,春山行夫らによっていち早く紹介され,深瀬基寛らに思想的影響を与え,西脇順三郎に同時代的反響をこだまさせ,田村隆一ら第2次大戦後の詩人に〈荒地〉派の名前を残した。
執筆者:高橋 康也
イギリスの女流作家。本名メアリー・アン・エバンズMary Ann Evans。彼女の作品はイギリス家庭小説の伝統を受けつぎつつ,当代一流の知識人の一人としてビクトリア時代のさまざまな思想的潮流と社会的視野からそれを照らし出し,鋭利な分析と落ち着いた描写を総合している。イングランド中部ウォリックシャーの土地差配人の娘に生まれ,堅実な田舎の中流家庭の雰囲気のなかで育ったが,幼い頃から読書好きで,優れた知的能力を示した。教育は土地の女学塾に学んだだけだが,あとは独学で知的教養を身につけた。一時福音主義の信仰に熱中したが,22歳の時近くの工業都市コベントリーに移ると,土地の知識人たちとの交際からキリスト教に疑問を持ち,信仰を捨てるにいたった。その後ダビッド・シュトラウスの《イエス伝》を翻訳,やがてロンドンに出て《ウェストミンスター評論》の編集に携わるかたわら,フォイエルバハの《キリスト教の本質》を翻訳,多くの書評論文を執筆するなど,着々と知識人としての自己を形成していった。1854年,批評家G.H.ルイスとの同棲生活をはじめた。彼は妻の不貞のために別居していたが,当時の法律では離婚ができず,同棲という形をとらざるをえなかったのである。ルイスの勧めで小説を書きはじめ,57年処女作の短編集《牧師生活諸相》を雑誌に連載,好評を得た。ジョージ・エリオットという男の筆名をこの時初めて用いている。続いて長編《アダム・ビード》(1859),《フロス川の水車場》(1860)を発表,一躍有名となる。前者は19世紀初頭の農村を舞台とする田園悲劇,後者は作者自身を思わせる若い娘の成長の苦悩を描いている。61年,人間愛の至高性をテーマとする寓意的物語《サイラス・マーナー》を出版,63年にはルネサンス時代のイタリアに取材した唯一の歴史小説《ロモラ》を発表した。
次作《急進主義者フェリックス・ホルト》(1866)のあたりからエリオットの後期の作風が明瞭となる。少女時代の回想の色を帯びた田園生活の描写にかわって,より客観的で包括的な地方社会の分析がはじまり,続いて書かれた代表作《ミドルマーチ》(1871-72)では,四つのプロットが絡みあいながら進行し,広い社会分析と個人心理の鋭い追求の総合が見られる。最後の作品《ダニエル・デロンダ》(1876)は同時代の社交界とユダヤ人の祖国建設運動を対比的に描く野心的作品であるが,できばえはやや不均衡である。作風の転換はあるものの,エリオットのテーマは一貫して広い人間愛と,それを執拗に阻む人間に内在する自己中心性との葛藤であった。それは前期の作品では美しい田園を背景に展開され,後期の作品になると緻密な社会分析のなかで,個々人の生き方においてそれが問われる。彼女の作品はビクトリア時代におけるもっとも包括的総合的なヒューマニズムの文学と言えよう。
執筆者:海老根 宏
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1869年から1909年までハーヴァードの学長を務め,小規模カレッジを教育・研究の両面で近代大学に成長させたボストンの名家出身の化学者。新設のMIT(マサチューセッツ工科大学)での数年の教員の経歴を経て,35歳で母校の最高責任者となった。就任の翌1870年から退任の1909年までの40年でハーヴァードの教員数は,イェールの場合の3.7倍に対し4.9倍に増加した。とくに専門職大学院の教員数はイェールの場合の2.8倍に対し,8.3倍に達した。エリオットが,カレッジの教育体制に比較して,専門職大学院を相当に充実させたことが知られる。また,アメリカ教育協会(NEA)での活動を通し,中等学校教育の改善を強力に推進した。彼を有名にしたカレッジ科目の自由選択制は,若者が天性を発見し,専門訓練でのその開発により最大限の社会貢献をするという,民主主義に不可欠な教育制度の一環であり,カレッジの伝統はこの意味での社会奉仕であると彼は主張した。アメリカの伝統的な管理原則に則り,教授会に対し優位を保った最後の学長の一人である。
著者: 立川明
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…鮎川信夫(1920‐86),山川章(森川義信)らが中心であった。誌名はイギリスの詩人T.S.エリオットの詩《荒地The Waste Land》に由来する。第2次は47年9月創刊,48年6月終刊。…
…イギリスの詩人T.S.エリオットの詩。1921年秋,神経の変調を治すため滞在していたローザンヌで書かれた初稿が,エズラ・パウンド(献辞の〈私にまさる工匠〉)の意見に従って,ほぼ半分の長さに縮められ,22年10月雑誌《クライティリオン》創刊号に発表。…
…そのうえ19世紀末の英詩には,フランス象徴派の影響も見のがせない。たしかにそこから出発したT.S.エリオットは20世紀の《荒野》の風土に新しい信仰を模索したし,それに続く時代のオーデン・グループは新しい社会性への〈参加〉の姿勢を示すことによって,英詩の伝統のたくましさを証(あかし)した。しかし第2次大戦後のイギリス詩は,やはり個人の純粋な詩魂を,つぶやくように守っているように見受けられる。…
…19世紀までは詩はくりかえされる,規則正しいリズムの波に従って,吟誦(ぎんしよう)chantされたが,20世紀になっては話speakされるようになった。T.S.エリオットは1951年に発表した《詩と劇Poetry and Drama》と題する論文の中で,彼の作詩法を説明し,詩の韻律を散文律に近づけること,各行の長さおよびシラブルの数は画一にしないが,行中に一つの小休止caesuraを置き,アクセントは小休止の前に一つあれば後に二つ,前に二つあれば後に一つ,合わせて三つ置くようにしたと書いている。筆者はエリオット自身の朗読の録音,そのほか現代の英米詩人および学者の朗読のレコードを集めて研究してみたが,みなエリオットとよみ方を一つにしていた(図1参照)。…
…イギリスの文芸季刊誌(一時,月刊)。1922年,T.S.エリオットにより創刊。フランスの《NRF》,ドイツの《ノイエ・ルントシャウ》などと連携を保ち,ヨーロッパの文化的共同体をつくりあげようという抱負から生まれ,創刊号にエリオットの《荒地》が掲載されたほか,すぐれた作品,批評が紹介され,20世紀の感受性を形づくるのに大きく貢献した。…
…イギリスの詩人,劇作家T.S.エリオットが1935年カンタベリー大聖堂での上演のために委嘱されて書いた劇。1170年,国王との対立からこの大聖堂で殺された大司教トマス・ベケットの殉教を主題としている。…
…〈新批評〉とも訳す。20年代のT.S.エリオットやI.A.リチャーズらによる新しい文学意識にもとづき,文学作品(とくに詩)の精密・客観的な評価をめざした。J.C.ランサム,A.テートらの率いるアメリカの〈南部批評家〉がその母体とみなされるが,イギリス側ではケンブリッジ大学でリチャーズの教えを受けたW.エンプソンをその数に入れることもある。…
…ウィリアム・フォークナーの《野性のシュロ》の背景もミシシッピ川の大洪水である。 こうした川がもつ自然の二面性をさらにいっそう明確に指摘したのは,同じくミシシッピ川沿いの都市セント・ルイスに生まれた詩人T.S.エリオットであった。西欧の豊かな文化伝統を求めて,最後はイギリスに帰化した彼は,《ハックルベリー・フィン》に触発されて,このミシシッピ川を〈強力な褐色の神〉と称し,〈川の神〉を忘れ,〈機械の神〉のみに奉仕する現代人に警告を発した。…
…アメリカ出身でイギリスに帰化した詩人T.S.エリオットの長編詩。1943年刊。…
※「エリオット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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