エリオット(読み)えりおっと(英語表記)George Eliot

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット(Thomas Stearns Eliot)
えりおっと
Thomas Stearns Eliot
(1888―1965)

イギリスの詩人、批評家、劇作家。9月26日アメリカのミズーリ州セントルイスに生まれ、1927年イギリスに帰化。17世紀後半イギリスからボストンに移住した旧家の出で、祖父はユニテリアン派の牧師、父は実業家である。文学好きな母の血を引いて少年時代から詩作を始め、1906年ハーバード大学に入学してからは学生の編集する文芸誌に習作を寄稿した。アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』(1899)を読んで当時のフランス詩人たちを知り、ラフォルグの軽妙で皮肉な口語体詩に心酔したのもこのころである。1909年大学を卒業してパリのソルボンヌ大学に1年間留学、帰国後はハーバード大学大学院で近代哲学、インド哲学、サンスクリットなどを研究した。1914年夏、今度はドイツのマールブルク大学に留学するが、第一次世界大戦の開戦とともにイギリスのオックスフォード大学に移り、博士論文の執筆にとりかかった。

 しかしこの移住はエリオットの生涯に大きな転換をもたらす。1915年6月、イギリスで知り合った画家の娘ビビアン・ヘイウッドと結婚、いったん1人で帰国するが、父親の認めるところとならず、研究生活を捨ててロンドンの学校教師となり、さらに1917年からはロイズ銀行に就職して2人の暮らしを支えた。これ以後1932年までアメリカの土を踏むことはない。一方ではエズラ・パウンド口利きで詩と評論を雑誌に寄稿し始め、1917年には最初の詩集『プルーフロックとその他の観察』を出版、先鋭なイメージや口語体独白の断片を積み重ね、微妙な心理のあやを表出して、モダニズム文学運動に参加した。1920年の批評集『聖なる森』では従来のロマン主義詩法を否定、詩人は自己の個性を抹消して、全ヨーロッパ文学の伝統を同時的に意識すべきであると主張して、新文学の理論的な立場を明らかにした。1922年には国際的な視野にたつ文芸季刊誌『クライテリオン』(1922~1939)を創刊して文壇に新風を吹き込み、第1号に長編詩『荒地(あれち)』を発表して戦後世代の熱狂的な支持を得た。その後も、17世紀形而上(けいじじょう)派詩人の強壮な感受性を称賛してミルトンラテン語法を批判し、ダンテの寓意(ぐうい)手法の現代的な意義を考察するなど、文壇や学界に大きな話題を提供して、しだいに詩人・批評家の地歩を固め、イギリス文学の主流となるに至った。1925年フェイバー出版社に迎えられて銀行勤務の過重な負担からは解放されたが、結婚生活では妻の神経症に悩まされて、1932年に別居を余儀なくされた。

 イギリス帰化後の1928年、エリオットは「文学では古典主義者、政治では王党派、宗教ではアングロ・カトリックである」と自己の信条を規定して注目を浴びたが、『異神を追いて』(1934)、『キリスト教社会の理念』(1939)、『文化の定義のための覚え書』(1948)など一連の文明論では、キリスト教によってヨーロッパの秩序の確立を求める理想主義者の主張と、政治的保守主義者の姿が重なり合っている。詩の領域では、「うつろな男たち」(1925)から、「灰の水曜日」(1930)、『四つの四重奏』(1943)へ進むにつれて、宗教的な主題があらわになり、風刺の口調は信仰の告白へと変化するが、緊迫した内面の劇をえぐり出すしなやかな感性は失われていない。

 また、彼は早くから劇的な話法の再現や、詩劇の復興に関心を寄せていたが、12世紀の大司教ベケットの殉教を描いた『大聖堂の殺人』(1935初演)が好評を得てから、現代に舞台を移して、『一族再会』(1939初演)、『カクテル・パーティ』(1949初演)、『秘書』(1953初演)、『元老政治家』(1958初演)などの詩劇を書き、いちおうの成功を収めた。1948年、現代詩の先駆者としての貢献を評価され、ノーベル文学賞を受賞。最初の妻は1947年に療養所で亡くなったが、1957年1月に秘書バレリー・フレッチャーと再婚、幸福な晩年を送った。1965年1月4日、76歳で死去。ウェストミンスター寺院に葬られた。

高松雄一

『吉田健一他訳『エリオット選集』4巻・別巻1(1959・弥生書房)』『深瀬基寛他訳『エリオット全集』全5巻(1971・中央公論社)』『深瀬基寛著『エリオットの詩学』(角川文庫)』『西脇順三郎著『T・S・エリオット』(1965・研究社出版)』『寺田建比古著『T・S・エリオット――沙漠の中心』(1963・研究社出版)』『平井正穂編『エリオット』(1967・研究社出版)』


エリオット(George Eliot)
えりおっと
George Eliot
(1819―1880)

イギリスの女流小説家。本名メアリ・アン・クロスMary Ann Cross、旧姓エバンズEvans。11月22日、ウォーリックシャーのアーバリーに地所差配人の子として生まれる。少女のころは熱心な福音主義者だったが、1841年父とともに移り住んだコベントリーで自由思想家チャールズ・ブレイを知り、その影響のもとで信仰放棄の転機を迎える。D・F・シュトラウス著『イエス伝』の翻訳(1846出版)を手がけたのち、1852~1854年の2年間、進歩的総合誌『ウェストミンスター・リビュー』誌の副主筆として編集に携わった。1854年L・A・フォイエルバハ著『キリスト教の本質』を翻訳出版、時を同じくして文筆家ジョージ・ヘンリー・ルイスと手を携えてドイツに向かい、同棲(どうせい)生活に入った。以後ルイスとは正式に結婚しないまま彼の死まで24年間生活をともにしたが、その間彼の勧めで小説執筆に手を染め、1857年中編『エイモス・バートンの悲運』を『ブラックウッド・マガジン』誌に発表、小説家としてデビューした。最初の長編小説『アダム・ビード』(1859)によって作家としての地位を確立、その後、最終作『ダニエル・ディロンダ』(1876)に至るまで、一作ごとに名声を高め、ビクトリア朝小説界に君臨した。ジョージ・メレディスとともに、イギリス小説に真摯(しんし)なる目的意識を付与した功績は大きく、ハーバート・スペンサーが「小説にはロンドン図書館に置くほどのまじめな価値はない」と断言したとき、「ジョージ・エリオットの作品を除いては」という但し書をつけた話は有名である。もっぱら娯楽を主眼とした従来の小説に奥行の深い知的世界を繰り広げ、小説の質的変化をもたらした点でイギリス初の近代小説家とよばれる。

 ルイスと死別後、20歳年下の実業家ジョン・ウォルター・クロスと1880年に結婚したが、わずか7か月後の同年12月22日、ロンドンで死去した。

 ほぼ20年に及ぶ作家活動の時期は、『サイラス・マーナー』(1861)に至るまでを前期、歴史ロマンス『ロモラ』(1863)以降を後期と二分されるが、前期の作品が登場人物の胚胎(はいたい)から始まっているのに対し、後期の作品は主題の発想から誕生しているのが特徴である。だが、共感の拡張を芸術の目的とし、日常生活における他者とのかかわりのなかに道徳的存在としての人間のあり方を追求する態度は一貫して変わらない。20世紀初頭までは、情感豊かな前期の作品に対する評価がより高く、後期の作品は知性の勝った理性の文学として敬遠されがちであったが、現在は人間洞察の円熟度および作品の芸術的完成度において、むしろ後期の作品を重要視する傾向にある。とくに、ある歴史的時点における地方社会の全体像を人間関係の網を通してとらえた『ミドルマーチ』(1871~1872)は、作者の力量が最高峰に達した作品として傑作の呼び声が高く、イギリス近代小説の古典と目されている。

[川本静子]

『川本静子著『ジョージ・エリオット』(1980・冬樹社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エリオット」の意味・わかりやすい解説

エリオット
Eliot, Thomas Stearns

[生]1888.9.26. セントルイス
[没]1965.1.4. ロンドン
イギリスの詩人,批評家,劇作家。アメリカで生れたが,1927年イギリスに帰化しイギリス国教会に入信。 48年ノーベル文学賞受賞。 22年,雑誌『クライティーリオン』 The Criterionに発表した『荒地』 The Waste Landなどの初期の詩や「伝統と個人の才能」を含む処女評論集『聖なる森』 The Sacred Wood (1920) によって,斬新な一種の純粋詩論を実践して現代イギリス詩の先達となったが,改宗の前後からキリスト教的世界観をふまえた詩観を展開,『四つの四重奏』 Four Quartets (43) に究極する詩のほかに,『寺院の殺人』 Murder in the Cathedral (35) ,『カクテル・パーティー』 The Cocktail Party (49) などの特異な詩劇を書き,また『異神を求めて』 After Strange Gods (34) ,『キリスト教社会の理念』 The Idea of a Christian Society (39) などにみられる文芸・社会批評を生んだ。彼の特徴は各著作が広範な全活動の一面となる有機的関連性をもつことであり,その影響は多様な形で今日にまで及んでいる。

エリオット
Eliot, George

[生]1819.11.22. ウォリックシャー,チルバーズ・コートン
[没]1880.12.22. ロンドン
イギリスの女流作家。本名 Mary Ann Evans。伝統的なキリスト教信仰のなかで育ったが,やがて実証主義哲学の影響を受けて信仰を捨て,不可知論の立場をとった。世間の批判を押切って,妻子のある批評家 G. H.ルイスと同棲,40歳近くになって小説を書きはじめた。人間の行為を,動機から結果にいたるまで精細に分析し,その道徳的責任を徹底的に追及するきわめて主知的,道徳的な作風。主要作品には『アダム・ビード』 Adam Bede (1859) ,『フロス川の水車場』 The Mill on the Floss (60) ,『サイラス・マーナー』 Silas Marner (61) をはじめ,サボナローラ時代のイタリアを背景にした『ロモラ』 Romola (62~63) や最高傑作『ミドルマーチ』 Middlemarch (71~72) などがある。

エリオット
Eliot, John

[生]1604. イギリス,ウィドフォード
[没]1690.5.21. マサチューセッツ湾植民地,ロックスベリー
北アメリカ先住民族(アメリカインディアン)への伝道者。初めイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)の教職にあったが,1631年アメリカに渡り,先住民族への伝道を志し,1646年から伝道に従事。聖書の原地語訳を出版した。福音と文明を同一のものとみ,その伝道は成功したが,やがて白人と先住民の人種闘争が激化したため,エリオットの努力は水泡に帰した。主著 "A Primer or Catechism, in the Massachusetts Indian Language"(1654),"The Christian Commonwealth"(1659),"The Harmony of the Gospels"(1678)。

エリオット
Eliot, Charles William

[生]1834.3.20. ボストン
[没]1926.8.22. メーン,ノースイーストハーバー
アメリカの教育改革家。 1853年ハーバード大学卒業,58年同大学数学・化学助教授。 67年ヨーロッパに渡り,教育制度を研究。その視察報告書が前学長 H.トマスの目にとまり,その機縁で 69~1909年ハーバード大学学長をつとめ,同大学の名声を世界的水準に高めた。彼の学長時代,ハーバード大学は入学条件を高くし,他の主要大学もこれによったため,中等学校の水準も高まった。 1892年NEAが組織した中等教育改造十人委員会の委員長となり,従前8・4制に代る6・6制の学校系統,第7学年における外国語と数学の履修などの改革案を提唱した。この着想は 1910年に創設されたジュニア・ハイスクール制度で実現をみた。著書『幸福な生活』 The Happy Life (1896) ,『大学の管理』 University Administration (1905) ,その他。

エリオット
Elliot, Sir Charles

[生]1801
[没]1875
イギリスの外交官。中国名は義律。アヘン戦争当時の清英交渉にあたる。海軍士官であったが W.ネーピアの随員として清国に赴任,1836年,在広東の首席貿易監督官となる。 39年以降アヘン問題で林則徐との交渉にあたる。 41年 (清,道光 21年) には琦善 (きぜん) との間に川鼻 (せんび) 仮条約の交渉にあたり,ホンコンの割譲,対等の交渉権などを認めさせようとしたが,妥協的とされて H.ポッティンジャーと交代した。のちセントヘレナの知事をつとめた。なお,アヘン戦争時のイギリス軍司令官であった G.エリオットはいとこである。

エリオット
Elyot, Sir Thomas

[生]1490頃.サマセット,イーストコーカー
[没]1546.3.26. ケンブリッジシャー,カールトン
イギリスの人文主義者,外交官。ヘンリー8世に捧げた処女作『為政者論』 The Govenour (1531) で王に認められ,カルル5世のもとに大使として派遣 (31,35) されたが,この書はのちのイギリス大学教育の理想をみごとに表現している。当時の学者には珍しく,もっぱら英語で書いた彼の著作は散文英語の発展に大きく寄与した。また最初のラテン語=英語辞典 (38) を完成。彼の古典の翻訳はイギリスにおける古典の普及に貢献した。

エリオット
Eliot, Sir John

[生]1592.4.11. コーンウォール,セントジャーマン
[没]1632.11.28. ロンドン
イギリスの政治家。 1614年より下院議員になり,特にチャールズ1世の治世に王の圧政に反抗して議会を指導し,「権利請願」の提出にも大きな役割を果した。 26年以来3度チャールズの命でロンドン塔に投獄され,29年3度目に投獄されたまま没した。

エリオット
Eliot, Sir Charles Norton Edgcumbe

[生]1862.1.8. オックスフォードシャー,シルフォードゴウワー
[没]1931.3.16. マラッカ海峡
イギリスの外交官,東洋学者。イギリス領東アフリカ弁務官とザンジバル総領事を兼ねた (1900~04) 。のち大使となり来日 (20) 。大使を辞任したあとも日本に居住し,仏教学者として業績がある。

エリオット
Elliott, Ebenezer

[生]1781.3.17. ヨークシャー,マズバラ
[没]1849.12.1. ヨークシャー,グレートホートン
イギリスの詩人。地主の利権を守る穀物法を非難した『穀物法詩集』 Corn-Law Rhymes (1831) で有名。

エリオット
Elliott, George Henry

[生]1884
[没]1962
イギリスのミュージック・ホールのコメディアン。歌,ダンス,パントマイムにすぐれ,Chocolate-Coloured Coonの名で知られる。

エリオット
Elliott, Jesse Duncan

[生]1782
[没]1845
アメリカの海軍軍人。アメリカ=イギリス戦争 (1812) のとき,エリー湖でイギリス船2隻を捕獲し,アメリカ側に最初の勝利をもたらした。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報