お美代の方(読み)おみよのかた

改訂新版 世界大百科事典 「お美代の方」の意味・わかりやすい解説

お美代の方 (おみよのかた)
生没年:?-1872(明治5)

徳川家斉側室。お伊根ともいう。父は内藤造酒允就相,川尻与兵衛,中山法華経寺の日啓など諸説がある。小納戸頭取中野播磨守清武(一説清茂,碩翁)の養女として大奥にあがり,家斉寵愛うけ,養父中野碩翁もまた権勢をえた。金沢藩主前田斉泰室の溶姫,広島藩主浅野斉粛室の末姫などを生む。1841年(天保12),家斉没後に剃髪し,幕閣粛正に際しては二の丸の専行院に退隠した。また養父碩翁も奥勤を免じられた。
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朝日日本歴史人物事典 「お美代の方」の解説

お美代の方

没年:明治5(1872)
生年:生年不詳
江戸後期,11代将軍徳川家斉の側室。文化7(1810)年中臈,家斉晩年の寵愛を一身に受ける。溶姫(金沢藩主前田斉泰室),仲姫(早世),末姫(広島藩主浅野斉粛室)の母。加賀前田家は溶姫の入輿に当たり上屋敷に朱塗りの御守殿門(東大の赤門)をつくった。実父には下級幕臣の名もあげられているが,巷間では中山法華経寺智泉院住持日啓と喧伝されていた。養父小納戸頭取中野碩翁ら一族ともに家斉の庇護を受け権勢を誇った。

(片倉比佐子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「お美代の方」の解説

お美代の方 おみよのかた

?-1872 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。
中野碩翁(せきおう)の養女となって大奥にはいり,文化7年に中臈(ちゅうろう)となる。家斉の寵愛(ちょうあい)をうけ溶姫(加賀金沢藩主前田斉泰の正室),末姫(安芸(あき)広島藩主浅野斉粛(なりたか)の正室)らを生んだ。明治5年死去。別名にお伊根。法号は専行院。

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