改訂新版 世界大百科事典 「中野碩翁」の意味・わかりやすい解説
中野碩翁 (なかのせきおう)
生没年:1765-1842(明和2-天保13)
江戸後期の旗本。11代将軍徳川家斉の寵臣。名は定之助清茂。清備(きよとも)の子。1803年(享和3)叙爵して播磨守と称する。中野家はもと紀伊徳川家の臣で,祖父清房のとき,吉宗の将軍家相続に従って幕臣となり,叔母初崎は大奥に出仕して老女を務め,のち10代将軍家治の世嗣家基の乳母となった。碩翁は1765年(明和2)遺跡を継いで小普請に入り(廩米(りんまい)300俵),83年(天明3)出仕し小納戸となった。以来,小姓,小姓頭取,小納戸頭取と進み,1827年(文政10)新番頭に準じ役高2000石となった。30年隠居剃髪して碩翁と号したが,その後も依然として家斉の側近にあった。しかし41年(天保12)家斉が没し,登城御免となった。家斉に近侍するかたわらお美代の方(家斉の側室)の養父としても権勢があり,三佞人と呼ばれた林肥後守忠英(若年寄),水野美濃守忠篤(御側御用取次),美濃部筑前守茂育(もちなる)(小納戸頭取)らと連携して,家斉政治を側近から動かした。また各方面から多量の賄賂を獲得し,隠居後は向島に瀟洒な下屋敷を構えて気ままな生活を楽しんだ(上屋敷は駿河台)。その驕奢は評判を極め,家斉の実父一橋治済(はるさだ)(穆翁),家斉夫人の父島津重豪(しげひで)(栄翁)とともに三翁と称された。
執筆者:北原 章男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報