クラフチンスキー(英語表記)Sergei Mikhailovich Kravchinskii

改訂新版 世界大百科事典 「クラフチンスキー」の意味・わかりやすい解説

クラフチンスキー
Sergei Mikhailovich Kravchinskii
生没年:1851-95

ロシアの革命家。筆名ステプニャクStepnyak。ステプニャク・クラフチンスキーとも呼ばれる。ポルタワ県生れ。軍医の子。1870年ペテルブルグのミハイル砲兵学校卒業。71年,林業専門学校に入学したが73年に中退。1872年から初期のナロードニキの組織チャイコフスキー団に入り,74年亡命,75年ヘルツェゴビナ(現,ユーゴスラビア領)の反乱に,77年にはイタリアのベネベント武装蜂起に参加。78年帰国しメゼンツォフ憲兵長官を刺殺,国外に逃れ,80年代には文筆活動により国内のナロードニキの運動を支援すると同時に,その運動を国外に紹介した。90年代に雑誌《フリー・ロシア》を発行している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラフチンスキー」の意味・わかりやすい解説

クラフチンスキー
Kravchinskii, Sergei Mikhailovich

[生]1851.7.13. ヘルソン,ノーブイスタロドゥーブ
[没]1895.12.23. ロンドン
ロシアの作家,革命家。筆名ステプニャーク Stepnyak。 20歳の頃から革命運動に加わり,M.バクーニンや P.ラブロフの思想に共鳴し,1872年,ペテルブルグでチャイコフスキー団に入った。翌年ブ・ナロード」運動の先頭に立ち,パンフレットを書き,74年から国外に亡命し,スイス,パリを経て,77年にイタリアで農民運動に参加したが捕えられ,死刑を宣告された。のち執行猶予で一時帰国したが,ペテルブルグ憲兵司令官 N.メゼンツォフを暗殺して国外に亡命,イギリスで客死した。主著『地下のロシア』 Podpol'naya Rossiya (1882) ,『ツァー権力下のロシア』 Rossiya pod vlast'yu tsarei (85) はいまなおその積極的な意味を失っていない。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラフチンスキー」の意味・わかりやすい解説

クラフチンスキー
くらふちんすきー
Сергей Михайлович Кравчинский/Sergey Mihaylovich Kravchinskiy
(1851―1895)

ロシアの革命家、作家。軍医の子として生まれる。砲兵学校卒業後1870年からナロードニキ運動に参加、農村での啓蒙(けいもう)宣伝活動ののち74年にスイスに亡命。78年ふたたび国内に潜入、憲兵長官メゼンツェフを刺殺し、「死には死を」の檄(げき)を発して、革命的テロリズムの正当性を訴えた。その後はヨーロッパ各地に居住し、ステプニャークСтепняк/Stepnyakの名で『地下ロシア』(1882)、『皇帝(ツァーリ)専制下のロシア』(1885)などの著作を英語で出版、ロシア革命運動の倫理的高潔さをヨーロッパの読者層に紹介したことで知られる。

[渡辺雅司]

『佐野努訳『地下ロシア』(1970・三一書房)』『漆原隆子訳『ツァー権力下のロシア』(1969・現代思潮社)』

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