イタリアの政治家、共産主義思想家。1月22日、サルデーニャ島のアルバニア系官吏の家庭に生まれる。幼児のころ事故により終生の身体障害となり、貧苦の少年時代を過ごした。奨学金を得てトリノ大学に入り(1911)、言語学を専攻。学生時代にイタリア社会党に入党し(1913)、まもなくジャーナリストの活動に熱中する。トリノの労働者蜂起(ほうき)(1917~1918)のあと、そこの党支部執行委員会書記になった。ロシア革命の主意主義的性格に深く共鳴し、イタリアのソビエト運動を目ざして工場評議会を構想する。
[重岡保郎]
工場評議会運動のためにタスカAngelo Tasca(1892―1960)、トリアッティらとともに1919年5月、週刊誌『オルディネ・ヌオーボ』を発刊。この運動は翌1920年秋の工場占拠の敗北で挫折(ざせつ)するが、このときの党指導部の態度からグラムシら党内共産主義派は分裂を決心する。1921年1月イタリア共産党が創設され、グラムシは中央委員に選ばれた。1922年5月にモスクワに行き、コミンテルン(共産主義インターナショナル)執行委員になった。翌1923年末にはウィーンに移ったが、モスクワ滞在中、ジュリア・シュヒトと会い、結婚した。1924年春イタリアの下院議員に選出され、逮捕されない保障が生じたのち帰国した。
[重岡保郎]
書記長ボルディーガを中心とする共産党指導部は、社会党との再統一を勧告するコミンテルンの統一戦線政策に最初から反対したため、コミンテルン執行委員会はイタリアの党指導部の改編を推進した。ボルディーガにかわって書記長になった(1924.8)が、両者のおもな違いはファシズムの認識と先進国革命の展望との相違にあった。民主的諸勢力との同盟の必要を認めたグラムシは、統一戦線政策を受け入れ、コミンテルンの支持を背景にボルディーガのセクト主義を排して党の指導権を握るに至った。1926年1月リヨンで行われた第3回党大会は、グラムシが主として起草したテーゼを承認し、党活動の基本的方向を定めた。同年10月、ソ連共産党内の派閥闘争について、イタリア共産党政治局の名で危惧(きぐ)と忠告を表明した手紙をソ連共産党中央委員会に送った。
[重岡保郎]
1926年11月ファシズムの「特別法」の施行により、国会議員でありながら逮捕され、各地の拘置所や監獄を転々とする死への旅路が始まる。1928年6月に特別裁判所から懲役20年4か月の判決を受けた。刑期はその後短縮されたが、彼の病弱な肉体はトゥーリ監獄(1928.7~1933.11)での虐待と非衛生的な環境によって致命的に衰弱し、1933年末から入院治療を受けたが、健康は回復せず、1937年4月27日クィシサーナ病院で死去。獄中で(1929以降)書いたノートは32冊に上ったが、第二次世界大戦後のイタリアで出版され、大きな反響をよんだ。哲学、歴史、文学から宗教、政治に至る驚くべき多方面の文化現象に対する深い考察からなるこのノートの内容は、きわめて独創的なマルクス主義思想といわれるが、それは、文化と知識人の役割、国家論とヘゲモニーの理論といった従来未開拓の上部構造の分野に新たな照明を与えた点でとくに注目されている。
[重岡保郎]
『石堂清倫訳『グラムシ獄中ノート』(1978・三一書房)』▽『G・フィオーリ著、藤沢道郎訳『グラムシの生涯』(1972・平凡社)』▽『J・ジョル著、河合秀和訳『グラムシ』(1978・岩波書店)』▽『松田博責任編集『グラムシ「獄中ノート」著作集』全7巻・別巻2(2011~ ・明石書店)』
イタリアの革命家,思想家。サルデーニャ島に生まれ育ち,トリノ大学入学のため大陸に渡る。大学で言語学を学ぶかたわら,社会党に入党して社会主義諸新聞の編集にたずさわる。第1次大戦後,トリアッティ,タスカらと《オルディネ・ヌオーボ(新秩序)》誌を刊行して,トリノの労働者と共に工場評議会運動に取り組み,1920年4月のゼネスト,同年秋の工場占拠闘争を推進した。21年1月イタリア共産党の結成に参加,22年6月からコミンテルン執行委員としてモスクワ,次いでウィーンに滞在,この間ロシア女性ジュリアと結婚,2児の父親となった。24年4月国会議員に当選して帰国,党書記長に選出され,ファシズム支配下での革命運動のあり方に心を砕いた。26年11月ファシズム政権に逮捕されて,国家防衛特別裁判所で20年4ヵ月の刑をうけ,南イタリアのトゥーリ監獄に入れられた。監獄ではたび重なる病気の発作に苦しみながらも,ジュリアの姉タチアーナの面会と手紙に励まされ,獄中ノートを記述し続けた。33年12月フォルミアの病院,次いで35年ローマの病院に移され,37年に刑期軽減による釈放を得たが,その直後に病状が悪化して死去した。
獄中から妻,子ども,タチアーナらにあてた手紙類および30冊近い獄中ノートは第2次大戦後に公刊され,その人間性にあふれた文章と考えぬかれた深い思想的内容によって大きな反響を呼んだ。獄中ノートの内容は歴史,政治,哲学,言語,文化,文学と広い範囲にわたっており,ひとつひとつの記述は断片的であるけれども,それらは民衆世界をその全体性においてとらえようとする首尾一貫した方法のもとにおかれている。グラムシの中心的テーマは,民衆運動の形態,民俗慣行,民衆文学,方言,都市と農村,宗教など総じて民衆世界における文化のありように注目しながら,そうした民衆世界が国家の支配体制のなかに組みこまれる仕方を明らかにしようとすることにあった。彼の特徴は,その際直接の政治組織だけでなく,イタリアにおける教会,知識人,学校,言語,文学などの性格に目を向け,市民社会の諸制度のもとでの政治的文化的へゲモニーの問題を重視したことである。そしてこの文化的ヘゲモニーとの関連において,グラムシの前にクローチェの存在が立ちはだかっており,獄中ノートはクローチェとの思想的格闘の記録という側面も有している。
執筆者:北原 敦
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イタリアのマルクス主義思想家,政治家。イタリア共産党の創設者の一人。サルジニア島の生まれ。奨学金を得てトリノ大学に入学し,のちに中退。同大学在学中に革命運動に加わり,1921年イタリア共産党の創立に参加する。1922~23年,イタリア共産党代表としてモスクワに滞在し,コミンテルン執行委員をつとめる。1924年イタリア共産党書記長,また同年トリノから下院議員に選出されるが,26年ムッソリーニのファシスト政権に逮捕,投獄され,獄中生活は37年までの11年間に及び,出獄直後に死去した。著名な「獄中ノート」を残している。彼は支配の二側面としての強制と合意に注目し,合意による支配をヘゲモニーとして概念化する。また聖職者を典型とする,実体的な社会階層としての「伝統的知識人」との対比で,各々の階級の必要に応じて育成される,社会的機能としての知識人という「有機的知識人」の概念を示し,知識人論の展開をもたらした。
著者: 白鳥義彦
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1891~1937
イタリアの革命家,思想家。サルデーニャに生まれ,第一次世界大戦後トリノの工場評議会運動を指導した。1921年イタリア共産党の結成に参加。26年に逮捕され,死の直前まで獄中にあった。『獄中ノート』では「ヘゲモニー」「従属諸階級」「受動的革命」といった独自の概念を生み出し,発展した工業国における社会主義革命の道を模索し,マルクス主義の理論を発展させた。
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… キリスト教民主党に次ぐ第2党はイタリア共産党で,1950~60年代の総選挙での得票率は25%前後を維持して確固たる勢力を有していた。共産党は,創設者の一人であるグラムシがファシズム政権下の監獄で書き残した《獄中ノート》を文化思想の拠りどころとし,また中部イタリアのトスカナ,エミリア・ロマーニャ,ウンブリアの地域に〈赤いベルト地帯〉とよばれる強固な基盤を築いていた。56年,書記長トリアッティの指導のもとに構造的諸改革の路線を打ち出して,社会主義へのイタリアの道を唱え,国際共産主義運動のなかでイタリア・マルクス主義の独自の立場を模索した。…
…1980年代初めにインドにおける国民史の書換えの運動として始まり,それまで国民史の本流から排除されていた従属諸集団を,自主的な政治領域として国民史にいかに取り込むのかを課題とした研究の試み。従属的諸集団は,グラムシの用語を借りてサバルタンと呼ばれた。マルクス主義歴史家たちの始めたサバルタン研究が,プロレタリアートではなく,サバルタンという範疇を用いたのは,インド国民史の本流から黙殺されてきた集団が多様なあり方をしており,プロレタリアートといった範疇では包摂しきれなかったためだと考えられる。…
…しかし,彼の説く直接行動主義は,その経済第一主義,非政治性のために,政治的にはあいまいな解釈を許すことになり,その後,左右両翼の諸運動がソレルのサンディカリスムに,その理論的支柱を見いだすことになった。左翼のほうでは,レーニンのボリシェビズムやイタリアのA.グラムシが大きな影響を受けているし,右翼についても,ムッソリーニに対するソレルの決定的な影響は特筆されてよい。彼は,1917年のロシア革命に大きな喜びを見いだし,レーニンを弁護するが,世を去ったのは,奇しくもムッソリーニがローマ進軍を敢行する直前であった。…
…それはしかし,両大戦間の《ボーチェ》《ロンダ》両誌の体制順応主義を克服し,解放戦争から50年代にかけて開花する,いわゆるネオレアリズモの土壌となった,〈反ファシズムの文学〉への苦渋に満ちた転生の時代でもあった。 ファシズム政府は1926年までに,トリノを中心に,〈イタリアの革命〉をめぐって最も鋭くファシズムに対決する思想運動の二つの流れ,ゴベッティの《自由主義革命》とグラムシらの共産主義の運動とを,暴力的に――前者は亡命,客死,後者は逮捕,投獄――封じた。徹底した独裁体制のもとで,志ある作家は検閲→執筆禁止→逮捕・流刑もしくは亡命を余儀なくされた。…
…この立場は,国家の形成と国民の組織化という点でリソルジメントは未完にとどまったとし,その未完のリソルジメントを継承し完成させる運動としてファシズムに積極的な支持を与えた。 第4の立場は,グラムシやトリアッティら共産党指導者の解釈で,グラムシらは,これまでイタリアの支配諸階層は地域ごと産業ごとに分裂していて統一的な政治組織をもたなかったが,ファシズムはこれら支配諸階層を単一の政治機関のもとに統一する役割を果たしたと分析し,その階級的性格を強調した。さらにトリアッティは30年代に入って,ファシズムが大衆の組織化を通じて支配の安定を図っている状況を指摘し,大衆の反動体制という形態をとった階級独裁としてファシズムを性格づけた。…
…ルカーチはまた,エンゲルスの自然弁証法を批判し,人間と自然,主体と客体を統一的に把握するものとして弁証法を理解し,そのことによって,革命における主体の決断と選択を強調したのである。 さらに,マルクス主義を実践の哲学としてつかんだ者にグラムシがいる。彼もまたクローチェのヘーゲル主義から出発しながらブハーリンの実証主義に対立した。…
…そうすることによって,遅れた社会という議論の枠を取り払い,南イタリアの文化を北イタリア,さらにはヨーロッパの文化状況と同じレベルで論ずる方法を打ち出した。 その後グラムシはクローチェを批判しつつ,知識層の文化とともに民俗文化にも関心を注ぎ,民俗文化のなかに南部民衆の世界観および生活観を読み取ることの重要さを唱えた。一方,1930年代の反ファシズム活動でルカニア州の寒村に流刑となったP.レービは,そのときの経験を《キリストはエボリに止まりぬ》(1945)と題して発表した。…
…王位にはサボイア家が就き,政治的な支配権を掌握したのは穏健自由主義派であった。
[研究史上の諸解釈]
イタリアにおけるリソルジメント研究は,統一国家成立の直後から始まって長い歴史をもつが,研究史のうえで重要な位置を占めているのはクローチェとグラムシである。クローチェは,彼以前の歴史研究の2潮流である考証史学派と経済・制度史学派に対して,前者は問題観を欠いた実証主義,後者は生の躍動をとらえられない史的唯物論の亜流として共に否定し,みずからは倫理・政治史の方法を打ち出した。…
※「グラムシ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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