イタリアの哲学者、歴史家、批評家。南部の大地主の家庭に生まれる。経済的に恵まれた生活環境に育ったが、1883年の大地震で両親と妹を失う不幸に出会い、伯父にあたるローマの政治家スパベンタSilvio Spaventa(1822―1893)に養育されたが、まもなく終生の宿となるナポリの住居に移り住んだ。大学に奉職することなく、主として著述と雑誌編集に没頭し、また出版活動(ラテルツァ社)にも参加した。さらに自由主義者として1910年から上院議員となり、ジョリッティの最後の内閣で文相を務めた(1920~1921)。彼は、ファシズムに対しては、自由主義を活性化するうえで有用であるとして最初好意的態度をとったが、1925年になると期待は幻想であったとして反対の態度に変わった。その年の5月に発表された「反ファシスト知識人宣言」において、クローチェは政治からの文化の自立性という自由主義の信条を述べ、反ファシズムの立場を言明したが、これはファシズム体制下で彼を文化的抵抗の旗手とした。内外の知識人に絶大な影響力をもつ彼の文化的抵抗をファシズムも黙認するほかなかった。1903年以来刊行されてきたクローチェの雑誌『批評(クリティカ)』は1930年代において発行部数を倍増する。ファシズム体制崩壊後、再建された自由党に加わり、国民解放委員会を支持し、1944年にバドリオとボノーミの両内閣に無任所相として入閣し、第二次世界大戦後は制憲議会議員と上院議員をも務めた。
彼は、ビコとマルクスさらにヘーゲルを総合して、実在するのは精神だけであり、現実とは人間の精神活動の表れであり、その発展過程が歴史であるという精神哲学の立場に達した。それを構成する四部作『表現の科学および一般言語学としての美学』(1902)、『純粋概念の科学としての論理学』(1905)、『実践の哲学――経済学と倫理学』(1908)、『歴史叙述の理論および歴史』(1917)によって、19世紀末に流行した実証主義哲学に反対し、生の哲学に属する精神の科学としての哲学体系を樹立した。1925年以降の歴史書、とりわけ『十九世紀ヨーロッパ史』(1932)および晩年の主著である『思想と行動としての歴史』(1938)において、倫理的生を歴史の中心に据え、歴史は自由の実現であるとする歴史観を展開するとともに、自由主義の哲学的再興を試みた。
[重岡保郎]
『クロオチェ著、羽仁五郎訳『歴史の理論と歴史』(岩波文庫)』▽『坂井直芳訳『十九世紀ヨーロッパ史』増訂版(1982・創文社)』▽『羽仁五郎著『抵抗の哲学―クロォチェ』(1972・現代評論社)』▽『H・S・ヒューズ著、生松敬三・荒川幾男訳『意識と社会』(1965/改訂版・1970/新装版・1999・みすず書房)』
イタリアの思想家,歴史家。ローマ大学卒業後,郷土ナポリに居を定め,生涯大学の研究機関に所属せずに研究活動を続けた。実証主義思想への批判から出発して,ビーコ,マキアベリ,マルクス主義などを学びながら,精神の学としての哲学の体系を構想した。それによると,精神活動は直観的認識行為,概念的認識行為,経済的行為,道徳的行為の四つの活動に区分され,四つの活動はそれぞれ美,真,効用,善という価値を表現する。そしてこれら四つの活動,四つの価値を対象とする学が美学,論理学,経済学,倫理学だとしたうえで,哲学を歴史の方法論であると説明し,歴史主義の考え方を明らかにした。彼はこうした体系に基づいて,1903年創刊した雑誌《批評》を拠点に活発な発言を続け,第1次大戦前後のイタリア思想界に強い影響力を及ぼした。クローチェは,この体系のもとで倫理的価値の担い手を政治階級,つまり政治的支配層に求め,現実の政治の場で保守的自由主義の立場に立つかたわら,倫理・政治史の方法による《ナポリ王国史》(1925),《イタリア史 1871-1915》(1928)の歴史書を執筆した。また,ファシズムが登場したとき,最初それを政治的秩序の回復力として支持したが,ファシズムが文化を支配し,ジェンティーレらの《ファシズム知識人宣言》(1925)が発表されると,これに反発して反ファシズムに転じた。そしてこれを機会に,政治と倫理の関係に反省を加え,倫理的価値の理想が〈自由〉であることを理論化し,自由を理想としない政治に対する批判を続けながら,歴史を自由の歴史として描いた《19世紀ヨーロッパ史》(1932)などを公刊した。しかし,彼の自由主義は反ファシズムであると同時に,反社会主義・反民主主義の性格をとっており,民衆のレジスタンス闘争には否定的な態度を示した。日本では羽仁五郎《クロオチェ》(1939)によって,彼の市民的哲学者および自由の思想家としての側面が紹介され広められた。
執筆者:北原 敦
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1866~1952
イタリアの哲学者,歴史家。19世紀に優勢であった実証主義の思潮を批判し,ヘーゲルの影響下にあらゆる精神活動は歴史的であるとする観念論的な歴史主義哲学を提唱した。政治的には社会主義に反対する一方,ファシズム期には反ファシズムの姿勢を貫いた。
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…郷党割拠主義,地方主義,そして強固なナショナリズムの併存,そこにイタリア人の地縁的帰属意識の特色がある。【竹内 啓一】
【歴史】
[イタリア史の時代区分と特徴(古代~近代)]
ベネデット・クローチェは,リソルジメント(1861)以前については厳密な意味におけるイタリア史は存在しないと述べている。たしかに単一の政治機構に組織された国家がイタリア半島全域を統治するという事態は,ローマ帝国の時代を除いては見られなかった。…
…イタリアの哲学者。観念論哲学を展開してクローチェとともに20世紀前半のイタリア思想界を代表した。クローチェは精神の活動を理論的行為と実践的行為に区分したが,ジェンティーレは理論と実践という二元論を否定し,精神の活動は現実に思惟する行為そのものであり,行為のなかに精神の現実態があると主張した。…
…こののち,反ファシズム運動は国内で地下活動として進めるか,あるいは国外に出て組織するかの選択を余儀なくされ,多くの政治家,知識人,労働者,市民が国外亡命の途についた。国内で反ファシズムの思想を表明しえた例外的な存在はクローチェで,彼は1925年にジェンティーレらファシスト知識人の宣言に反発した文書を起草して以来,反ファシズムの立場から自由の理論を唱え続けた。国外では27年にパリで社会党,共和党系の亡命者グループによって反ファシスト連合Concentrazione antifascistaが結成され,29年に同じくパリでC.ロッセリを中心に〈正義と自由Giustizia e Libertà〉が結成された。…
…この立場は30年代の〈正義と自由〉グループ,40年代の〈行動党〉に受け継がれていく。 第2はクローチェに代表される見方で,ゴベッティと違って,イタリアに統一をもたらしたリソルジメントから20世紀初頭のジョリッティ時代に至る過程を自由主義的発展の歴史として肯定的に評価し,ファシズムはこの発展からの断絶であり逸脱であるととらえた。クローチェの解釈の奥には,大衆の政治への登場が伝統的な自由主義社会の秩序を崩したとする認識があり,ファシズムに対してファシズム以前の自由主義社会への復帰が対置された。…
…南部主義者の分析はそれぞれに鋭い指摘を含んでいたが,改革の方向については共通して政府の行政政策に期待する善政の立場にたっており,南部社会の内側からの視点に欠けるところがあった。南部主義者の系譜とは別に,クローチェは政治指導層および知識層の文化のなかに南部社会の伝統を求めようとした。そうすることによって,遅れた社会という議論の枠を取り払い,南イタリアの文化を北イタリア,さらにはヨーロッパの文化状況と同じレベルで論ずる方法を打ち出した。…
…王位にはサボイア家が就き,政治的な支配権を掌握したのは穏健自由主義派であった。
[研究史上の諸解釈]
イタリアにおけるリソルジメント研究は,統一国家成立の直後から始まって長い歴史をもつが,研究史のうえで重要な位置を占めているのはクローチェとグラムシである。クローチェは,彼以前の歴史研究の2潮流である考証史学派と経済・制度史学派に対して,前者は問題観を欠いた実証主義,後者は生の躍動をとらえられない史的唯物論の亜流として共に否定し,みずからは倫理・政治史の方法を打ち出した。…
※「クローチェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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