シトレ(読み)しとれ(その他表記)Ndabaningi Sithole

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シトレ」の意味・わかりやすい解説

シトレ
しとれ
Ndabaningi Sithole
(1920―2000)

ローデシア(現ジンバブエ)民族運動の指導者。同国南西部のマタベレランド州に生まれる。1955年アメリカのニュートン神学校に入学、1958年帰国、牧師となる。1959年『アフリカ民族主義』を出版し、1960年民族民主党に入党。同党非合法化後エンコモとともにジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)創設。1963年脱党してムガベとともに急進的なジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)を結成し議長となる。1964年投獄され、1974年釈放後、南アフリカ共和国首相フォルスターの仲介で白人入植者スミスとすべての解放勢力の代表との独立について話し合うビクトリア・フォールズ会談に出席、会談は決裂した。その後1977年、首相スミスは英米提案を拒否して国内穏健派と国内解決を図り、シトレはそれに応じたためZANU党員の信頼を失い、アメリカに移る。1980年ジンバブエの独立に際し帰国し、ZANU・シトレ派を結成したが、選挙で敗北

[林 晃史]

『寺本光朗訳『アフリカの心』(岩波新書)』『In defence of the Rhodesian constitutional agreement ; a power promise(1978, Graham Pub., Salisbury)』『Hammer and sickle over Africa(1991, Vantage Press, New York)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シトレ」の意味・わかりやすい解説

シトレ
Sithole, Ndabaningi

[生]1920.7.31. ニャマンドロブ
[没]2000.12.12. フィラデルフィア
ジンバブエの牧師,代表的な民族主義指導者。ワッディラブ学院卒業後教職につき,かたわら南アフリカ大学通信教育課程修了。 1955年アメリカへ渡り,ニュートン神学大学へ入学。すでにアフリカ民族会議の共鳴者になっていた彼は,留学中の 57年『アフリカの心』 African Nationalismを執筆。 58年に帰国したのち政治活動に積極的にかかわり,63年7月ジンバブエ・アフリカ人民同盟 ZAPUから分裂結成されたジンバブエ・アフリカ民族同盟 ZANUの議長に就任,同年 12月逮捕入獄。 74年 J.ンコモらとともに釈放されたが,白人政権に対する路線をめぐってンコモらと対立。さらに ZANUの指導権をジンバブエ人民軍 ZIPAの代表 R.ムガベに事実上握られ,76年ンコモとムガベが結成した愛国戦線 PFを翌 77年アフリカ統一機構 OAUが解放勢力唯一の代表として認めたことから,シトレの影響力は急激に低下した。ジンバブエ独立のための 80年の選挙ではシトレ派は1議席もとれず惨敗。 95年にはムガベ大統領暗殺計画などの嫌疑をかけられ逮捕,その後体調をくずした。

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