ジンバブエ・アフリカ民族同盟(読み)ジンバブエ・アフリカみんぞくどうめい(英語表記)Zimbabwe African National Union; ZANU

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ジンバブエ・アフリカ民族同盟
ジンバブエ・アフリカみんぞくどうめい
Zimbabwe African National Union; ZANU

1963年8月 N.シトレによって,ジンバブエ・アフリカ人民同盟 ZAPUから分離,創設されたローデシア (現ジンバブエ) のアフリカ人解放組織。のちジンバブエの政党。 J.ンコモの指導する ZAPUの穏健な路線を批判し,ローデシアにおける多数支配の実現を目指して,当初から I.スミス少数白人政権への対決姿勢を強く打出していた。 64年8月非合法化され,シトレ議長,L.タカウイラ副議長,R.ムガベ書記長は逮捕,拘禁されたが,その後ルサカに本部をおき,H.チテポらをリーダーとする革命評議会の指導のもとで,ゲリラ活動を含む闘争を展開した。 74年 12月のルサカ会談を前にして釈放されたシトレは,ンコモの指導する ZAPUとともに,ZANUを率いてアフリカ民族評議会 ANCへ合体する方針を打出した。ムガべはこれに反対してモザンビークへ移り,ジンバブエ人民軍 ZIPAを組織して,もっぱら武装闘争路線に立って活動を続け,みずから ZANU議長に就任した。シトレはこれを認めていないが,75年8月のビクトリア瀑布会談 (I.スミス政権と ANCのローデシア制憲予備会談) 決裂後,ANCは ZAPU系のンコモ派と ZANU系のシトレ派に分裂し,さらにシトレ派は武装勢力をもたないために衰え,ZANUの主導権は事実上ムガベの手に握られるにいたった。 76年 10月ンコモの ZAPUとムガベの ZANUは愛国戦線 PFを結成したが,両党とも PFとは別に組織を維持した。しかしその後,78年3月3日スミス白人政権は黒人多数支配を認め,79年6月 ANCの一派ムゾレワの統一アフリカ民族評議会 UANCが政権を握ったが,80年2月 27~29日の総選挙では 100議席中ムガべの ZANUが 57議席,ンコモの ZAPUは 20議席を獲得,ムガベが首相となって同年4月 18日ジンバブエは独立した。 85年6,7月に行われた独立後初の総選挙では 63議席を獲得し政権を維持し,87年にはムガベが大統領に就任。 88年には ZAPUを吸収合併して一挙に勢力を拡大し,90年4月の総選挙では 120議席中 117議席を獲得するとともに,ムガベ大統領も再選された。その後ムガベ政権は社会主義路線を放棄し,植民地時代の白人所有地を強制接収して黒人側に分配する計画を進めた。 95年4月の総選挙でも 118議席を得て圧勝。翌 96年3月大統領選挙でムガベ大統領は 92%の得票を得て3選を果した。 (→ローデシア問題 )

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