日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムガベ」の意味・わかりやすい解説
ムガベ
むがべ
Robert Gabriel Mugabe
(1924―2019)
ジンバブエの政治家。労働者の子としてマショナランド州クタマに生まれる。1951年フォートヘア大学教育学部卒業後、南アフリカ連邦、南ローデシア(現、ジンバブエ)、北ローデシア(現、ザンビア)、ガーナで教師を務め、1960年帰国、民族民主党に入党した。翌1961年同党は非合法化され、エンコモの率いるジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)に参加、1963年逮捕されたがタンザニアに逃れ、シトレとともにジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)を創設、書記長となる。1964~1974年逮捕、拘留されたが、1974年釈放。1976年エンコモとともに愛国戦線(PF)を結成し、同時にZANU議長、解放軍(ZANLA)総司令官となり、ゲリラ闘争を指導。1979年のロンドン制憲会議に出席、翌1980年の総選挙で勝ち、4月の独立とともに初代首相に就任。社会主義に基づく国家建設を進め、一党制化を目ざした。ZANUは1987年ZAPUと合併、ジンバブエ・アフリカ民族同盟-愛国戦線(ZANU-PF)となり、ムガベは大統領に就任。しかし、1980年代後半の経済危機により、一党制化を放棄し、1990年には国際通貨基金(IMF)・世界銀行の構造調整計画を受け入れ、経済の自由化を実施した。1992年、植民地時代に白人が略奪した農地をアフリカ人に取り戻す土地収用法を制定、1996年3月の大統領選で3選された。2000年初め、元ゲリラ兵が白人農地を占拠する事件が各地で起こり、同年4月ムガベがそれを認めたことから、ジンバブエは白人農場主、旧宗主国イギリスと対立、イギリスは援助停止するとした。また2001年イギリス連邦はジンバブエに対し、1年間加盟資格停止を決議した。しかしムガベは方針を変えず、2002年の大統領選挙で4選され、2003年末ジンバブエはイギリス連邦を脱退。2008年には5選された。
[林 晃史]
5選を果たしたものの、失政によるハイパーインフレーションのために支持者離れが進んだばかりでなく、国際社会からは選挙が公正・自由でなかったと強く非難されたことなどもあり、ムガベは野党勢力との連立政権樹立に合意した。この暫定的な政府のもとで2013年5月に大統領の再選を2期に制限することなどを定めた新憲法が制定され、この憲法の規定に従って同年7月に行われた選挙では6割の票を得て6選されたものの、不正選挙ではと強く疑われた。ムガベは妻のグレースGrace Mugabe(1965― )を後継者にしようとして、2017年11月、その座をグレースと争っていた第一副大統領を罷免した。これに反発した国防軍により自宅軟禁されるとともに、与党ZANU-PFからは弾劾手続を開始され、同月、やむなく大統領を辞任し37年間守ってきた権力の座を降りた。
[編集部 2019年9月17日]
『原口武彦編『転換期アフリカの政治経済』(1993・アジア経済研究所)』▽『Lorraine EideRobert Mugabe(1989, Chelsea House Publishers, New York)』▽『Martin MeredithOur votes, our guns ; Robert Mugabe and the tragedy of Zimbabwe(2002, PublicAffairs, New York)』