改訂新版 世界大百科事典 「シャイレンドラ」の意味・わかりやすい解説
シャイレンドラ
Śailendra
750年から832年まで,インドネシアの中部ジャワに君臨したといわれる王朝。サンスクリットでシャイラは山,インドラは王ないし支配者を意味するので,東南アジアに広く分布する〈山の信仰〉と関連があると考えられる。1963年にジャワ中部北岸で発見された古代マレー語の碑文に,熱烈なシバ教徒であるセレンドラという名が見られ,碑文の使用言語から見てスマトラ南部のスリウィジャヤ国から来た植民者の首領と考えられる。碑文の年代に7世紀説と5~6世紀説とがあるが,いずれにせよ本国での大乗仏教の隆盛につれて彼も仏教,とくに密教の信奉者となった。そして8世紀中ごろに彼らは中部ジャワに進出し,その地を統治していたマタラム王国を東方に圧迫し,780年ごろから850年ごろにかけて有名なボロブドゥールを建立した。これは方形6層の下部と円形3層の上部から成る独特な構造をもち,インドにも類を見ない。このほかにもカラサン,ムンドゥット,セウなど多くの仏教遺跡がある。
マタラム王国のサンジャヤ王の子孫はシャイレンドラに服属し,そのしるしとして従来のシバ神信仰をもちながら仏教建造物への寄進を行った。しかし両王家の関係は協調的で,9世紀中ごろにはシャイレンドラ朝の女王プラモーダワルダニーとサンジャヤ朝の王ラカイ・ピカタンが結婚してプランバナン(別名ロロ・ジョングラン)祠堂群を建造した。この遺跡は仏教に代わるヒンドゥー教の再興を示している。まもなくシャイレンドラ朝出身のサマラーグラビーラは勢力争いに敗れて故地スリウィジャヤに逃れ,その地の王となった。以後,マタラム王国は再びサンジャヤ朝の系統が支配権を握り,仏教に代わってヒンドゥー教が栄えた。このようにシャイレンドラ朝は成立,結末ともにスマトラ南部などと関連をもち,インドのナーランダー寺院とも密接な交渉があった。中国の唐代の史書に現れる訶陵はこの王朝をさす。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報