S・ノイマンによる「政党は現代政治の生命線」ということばに示されるとおり、現在、政党を抜きにして政治を分析することはできない。それは自由で公正な選挙を伴う民主主義体制についてとくにいえるが、権威主義体制にもかなりの程度、当てはまる。
政党とは何か。たとえば、G・サルトーリGiovanni Sartori(1924―2017)は、「政党とは、選挙に登場して、選挙を通じて候補者を公職につけさせることができるすべての政治集団である」と定義する。より広い定義を示すならば、「政党とは、共通のイデオロギーや政策に基づいて組織され、政治権力の獲得を目ざす集団である」。このように定義すると、選挙に参加しないような革命政党も、その一種として扱うことができる。
歴史的にみれば、近代以降、市民社会と国家が相対的に分離したことを前提に、両者に足場を置きつつ媒介する役割を果たすのが、政党であるといえる。政党は市民社会で人々を党員として組織する一方、国家機構である政府や議会にポストを得て、両者を結び付ける。
政党と類似する機能を担う存在として、官僚制、利益団体、市民運動などがあげられる。これらのうち、官僚制は国家機構の一部であり、市民社会を統御するのに対して、政党は市民社会を基盤とする自発的結社であり、その意思を国家へと投入する。また、利益団体や市民運動は、政党と同じく市民社会の自発的結社であるが、審議会などへの参加を除くと、政党とは違い国家のなかの公職を占めない。
前記のサルトーリの定義にみられるように、政党の存在は選挙と緊密な関係をもつ。市民社会と国家の媒介役として、候補者を公職に送り込む機会が選挙だからである。その選挙が自由で公正な形で実施されるのが民主主義体制であり、そうではない形で行われるのが権威主義体制である。民主主義体制のもとでの政党は、イデオロギーや政策に基づいて複数存在し、選挙などを通じて競争する。
権威主義体制に関して分析したE・フランツErica Frantzの2018年の著書は、軍事独裁、支配政党独裁、君主独裁、個人独裁の四つに分類したうえで、ソビエト連邦(ソ連)や中華人民共和国(中国)にみられる支配政党独裁が冷戦期以来、もっとも一般的であり、比較的多数の人々を包摂するがゆえに抑圧的な性格が弱く、持続可能性が高いと指摘している。このように権威主義体制でも、市民社会と国家を媒介する政党の役割は小さくない。
以上を前提として、政党が具体的に果たしている機能としては、次のようなものが存在するといえる。(1)個人や集団の利益を集約し、表出する機能、(2)政治指導者を選抜し、育成する機能、(3)政府や議会を構成し、政策決定を行う機能、(4)野党として政府を批判し、監視する機能、(5)有権者に情報を提供し、政治教育を行う機能、などである。
[中北浩爾 2023年3月17日]
イギリスでは、政党が古くから発達した。ピューリタン革命後、1660年以降の王政復古期の国王と議会の対立のなかに、その端緒がみいだされる。1688年から翌1689年にかけての名誉革命を経て、国王と議会の対立は一応の決着をみるが、そうしたなかで王党派のトーリーと議会派のホイッグによる二党制が定着していった。両党は緩やかな政策の共通性に基づく個人的派閥の連合体にすぎず、議員は政府に買収されたり、官職を与えられたりして、取り込まれがちであった。
議会内の党派として生まれてきた政党が、議会外に組織を拡大し始める契機になったのは、1832年の第一次選挙法改正である。第一次選挙法改正は、徐々に成立してきた議院内閣制が、その過程で確立したという意味でも重要であったが、その結果、都市部を中心に有権者が増加した。それに加え、産業革命に伴い地域社会が流動化したことを背景に、選挙区での有権者の組織化が進み、中央組織と選挙区組織の結び付きもしだいに強まっていった。この時期、二大政党は保守党と自由党に姿を変えていったが、依然として地域の有力者である名望家によって構成された。
さらに1867年の第二次選挙法改正によって、都市部の労働者階級が有権者になると、保守・自由両党は議会外で有権者をメンバーとする恒常的な組織をつくりあげていく。議会外組織に対する議会内政党の優位は崩れなかったが、議会内政党でも集権化が進んでいった。それに対して、労働組合などの議会外組織によって結成され、議会に進出していったのが労働党である。それはまず1900年、労働代表委員会という名称で発足した。
第一次世界大戦の終結後のイギリス政治は、保守党、自由党、労働党の三党鼎立(ていりつ)状況となったが、第二次世界大戦の終結後、保守党と労働党の二党制に移行した。二党制であることに加え、労使の階級対立に基づいて政党システムが成立していながら、いずれも穏健であること、宗教をめぐる対立が弱いことなどが、イギリスの政党の特徴といえる。
イギリスと同じく二党制が発達したのが、アメリカである。1783年にイギリスからの独立戦争が終結した後の憲法制定会議で、連邦派と反連邦派の対立が明確化したが、これがアメリカの政党政治の始まりである。民主党とホイッグ党が対立した時期を経て、黒人奴隷制度を争点に民主党と共和党の二大政党が成立した。その後、対立軸や支持基盤を変化させながらも、今日に至るまで民主・共和両党による二党制が存続している。人種や地域の規定力の強さ、有力な社会主義政党の不在、政党組織の分権性などが、西ヨーロッパ諸国とは異なるアメリカの特徴である。
二党制が発達した英米両国とは違い、多党制が基調になったのが、フランスやドイツなどの大陸ヨーロッパ諸国である。
フランスでは長らく自立性の高い議員から構成される議会内党派が離合集散を繰り返し、安定した政党が成立しなかった。議会外組織が発達し、議会内政党の規律が高まるようになるのは、1905年の社会党や1920年のフランス共産党の結成を待たなければならなかった。戦後は保守系の政党も、そうした組織を有するようになったが、小党分立状態が続いた後、1958年に第五共和政が発足して以降、小選挙区2回投票制のもと、体制政党に転じた右派のゴーリスト政党(ドゴール派)と左派の社会党を中心とする2ブロック型の四党制へと移行していった。
ドイツでは特定の社会階層の利益を代表し、独自の世界観をもつ政党が分立割拠する傾向が強かった。1871年にドイツ帝国が成立すると、カトリックの中央党、労働者階級に基盤を置く社会民主党、エルベ川以東の地主貴族(ユンカー)を代表する保守党、ライン地方のブルジョアの利益を代弁する自由主義諸政党が対立した。社会民主党や中央党は、強固な議会外組織と党内規律を保持した。第一次世界大戦後はナチ党が台頭し、1933年以降、一党独裁体制を築いていったが、第二次世界大戦後は小選挙区比例代表併用制が採用され、キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党を二大政党とし、いずれかが中道の自由民主党と連立を組む安定した多党制が成立した。
[中北浩爾 2023年3月17日]
政党はイデオロギー、支持基盤、組織などによって類型化することができる。イデオロギーについては、自由主義政党、保守主義政党、キリスト教民主主義政党、社会民主主義政党、共産主義政党、ファシズム政党などの分類が可能である。共通のイデオロギーに基づく国際政党組織が結成され、現在、とくにヨーロッパで発達している。これにはヨーロッパ議会の存在も大きい。また、支持基盤について、国民政党、階級政党、宗教(宗派)政党といった分類が行われることがある。
政治学で政党を類型化する際に重視されてきたのは、組織である。政党は市民社会と国家の媒介役であり、有権者と公職者をつなぐ存在といえるが、組織のあり方はその性格を大きく規定するからである。
M・デュベルジェは、1951年の著書で「幹部政党」と「大衆政党」を区別した。
幹部政党は、納税要件などに基づく制限選挙制度のもとで19世紀に確立した。その末端は特定の議員を支える地方の名士などが構成する緩やかなクラブ的組織であり、それは有力者の互選による閉鎖的で非民主的なエリート集団である。各議員が選挙区に独自の基盤をもち、相互に独立しているため、分権的であり、結束力が弱い。こうした幹部政党の目的は、議会での多数の確保と議会活動への参加であり、議会の内部でエリートが形成した点に特徴がある。当時のイギリスの保守党や自由党、アメリカの民主党と共和党が、その例としてあげられる。
それに対して大衆政党は、19世紀末から20世紀初頭にかけて登場した。その末端の組織は、有権者が党員として加入する支部であり、あらゆる有権者が参加できるという点で開放的であり、かつ、指導部が選挙によって選ばれるという点で民主的である。その一方、党員は党費の納入義務などを負った。党員から選ばれた党指導部の権限が強く、集権的な性格をもち、結束力も強固である。党則による規律が強く、議員は党指導部に統制される。もっとも、議員団は一定の自立性をもち、党指導部との間で緊張関係がみられる。議会の外部の団体に依拠して結成された点に特徴があり、ドイツの社会民主党や中央党のような社会主義政党と宗教政党が代表例である。
このような大衆政党は、選挙権の拡張とそれによる普通選挙制度の導入に対応する政党組織であり、従来の自由主義政党や保守主義政党にみられる幹部政党も、大衆政党への対抗上、それを模倣して党員制度を採用していった。ただし、大衆政党に比べると、議員や地域の有力者の発言力が強く、党員の権利は制約された。
第二次世界大戦後、欧米諸国は豊かな大衆消費社会に変化し、階級対立が曖昧になり、1960年代に入ると、「イデオロギーの終焉(しゅうえん)」(D・ベル)が主張されるようになる。たとえば、ドイツ社会民主党によるバート・ゴーデスベルク綱領の採択にみられるように、社会主義政党は革命を放棄し、議会制民主主義と資本主義の枠内での改良を目ざす方針を明確化していった。これに対応して、多くの政党が特定の階級や集団を集票の対象とする方針を改め、有権者全体からの幅広い支持の獲得につとめるようになった。
こうした状況を背景に、大衆政党が「包括政党」に変化しつつあると論じたのが、1966年のO・キルヒハイマーOtto Kirchheimer(1905―1965)の論文である。包括政党は、(1)イデオロギー的な主張の減少、(2)政党指導部の強化、(3)個人党員の役割の縮小、(4)特定の社会階級や宗派集団に対する重点的な動員の低下、(5)投票や資金の調達のための多様な利益集団への接近、などによって特徴づけられ、政党との結び付きが希薄な有権者の票をめぐって競争するがゆえに政策距離が縮小し、多様な集団に接近するためにコンセンサスの形成を重視する。
[中北浩爾 2023年3月17日]
政党システム(政党制)とは、選挙や政権形成をめぐる政党間の相互作用の構造である。これについても、さまざまな類型化がなされてきた。
デュベルジェは、1951年の著書で政党数を基準に据えて一党制、二党制、多党制に分類した。一党制では、一つだけ存在する支配政党に対抗する政党がなく、政権交代が行われない。ソ連や中国などの共産主義諸国、戦前のドイツやイタリアといったファシズム諸国にみられる。二党制では、二つの大きな政党が競争し、政権交代が行われ、単独政権が樹立される。イギリスやアメリカが代表的である。多党制は、三つ以上の有力な政党が競合し、単独で議会の過半数を獲得できないため、連合政権が形成される。大陸ヨーロッパ諸国で一般的にみられる。
現在、もっとも有力な政党システムの類型は、サルトーリが1976年の著作で示したものである。サルトーリは、政党数に加えて、政党間のイデオロギー距離という基準を導入し、七つに分類した。それらは政党間の競合の有無によって、大きく二つに分けられる。
まず非競合的な政党システムの代表的なものは、一党制であり、一つの独裁政党しか存在しない場合である。共産党支配下のソ連や中国のほか、ナチス・ドイツが、これにあたる。一党制以外には、ヘゲモニー政党制がある。形式的には複数の政党が存在するが、衛星政党にすぎず、実際には一党が覇権を握っている場合であり、政権交代の可能性が排除されている。政党間の競合が少しだけ存在しているとはいえ、制度的に著しく制限されている。冷戦期のポーランド、かつてのメキシコなどが、例としてあげられる。
次に競合的な政党システムとしては、一党優位政党制、二党制、穏健な多党制、分極的多党制、原子化政党制の五つがある。これらのうち原子化政党制は、非常に多くの政党が乱立し、イデオロギー的な違いも大きい場合で、マレーシアやタイが、これに近いとされる。また、二党制は、デュベルジェのそれと同じく、イギリスやアメリカなど、二つの大きな政党が政権をめぐって競争する政党システムである。
サルトーリの分類で重要な一つは、一党優位政党制である。これは複数の政党が存在して選挙で競合しているが、一つの政党が有権者の支持を得て議会の安定的な多数を占め、政権を握っている政党システムである。制度的には競争が十分に保障されているが、政権交代が行われないなど、実際には政党間の力の差が大きいという特徴がみられる。自由民主党(自民党)が長期政権を続けた1955年体制(五五年体制)下の日本、国民会議派が長期にわたって支配した時期のインドなどが、その例としてあげられる。
サルトーリの分類でもう一つ重要なのは、穏健な多党制と分極的多党制の区別である。穏健な多党制は、おもな政党の数が三つから五つほどであり、政党間のイデオロギーの違いが小さく、求心的に競合する。キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党に加え、自由民主党の3党が競合した第二次世界大戦後の西ドイツが、代表例である。複数の政党による連合政権が樹立されるが、二党制と同様に政権交代と政治の安定がもたらされる一方、二党制よりも多様な民意が代表されるという特徴をもつ。
分極的多党制は、政党の数が六つ以上と多く、有力な反体制政党が存在するなど、イデオロギー的な違いも大きい。したがって、遠心的な競合がみられる。強力な共産党を抱えつつナチスの台頭を許した戦間期のワイマール・ドイツ、共産党とゴーリスト政党という左右の反体制政党が強大であった第二次世界大戦後のフランスの第四共和政、同じく巨大な共産党が存在し、キリスト教民主党を中心とする連合政権が続いた戦後のイタリアがその例である。
特定の政党システムを形成する要因としては、大きく二つの見方がある。
一つは国家の制度、とりわけ選挙制度である。有名なのが、小選挙区制が二党制を生み出し、比例代表制が多党制をもたらすという、デュベルジェの法則である。小選挙区制が二党制を生み出すメカニズムとしてデュベルジェは、第三党以下が過小代表されるという機械的効果、第三党以下の支持者が死票になるのを避けようと二大政党のいずれかに投票するという心理的効果の二つをあげる。ただし、この法則は選挙区レベルで成り立ち、有力な地域政党が存在する場合には、小選挙区制のもとでも全国レベルでは二党制に収斂(しゅうれん)しない。国家の制度としては選挙制度以外にも、「議院内閣制/大統領制」「単一国家/連邦制」、政党助成制度などが、政党システムに影響を及ぼす。
もう一つは、政党が基礎を置く市民社会のあり方である。ヨーロッパの大衆政党は、階級や言語・宗教ごとのコミュニティに立脚して成立した。S・M・リプセットとS・ロッカンStein Rokkan(1921―1979)は、1967年に共編著を出版し、国民国家の建設を背景とする(1)「中央/周辺」と(2)「国家/教会」、産業革命を背景とする(3)「農業/工業」と(4)「資本家/労働者」という四つの社会的亀裂(クリービッジcleavage)に従って、1920年代までにヨーロッパ諸国の政党システムが固まり、1960年代まで存続していると説いた。これは「凍結」仮説とよばれる。
[中北浩爾 2023年3月17日]
第二次世界大戦を通じてナチス・ドイツが打倒されると、戦後の西ヨーロッパでは、ソ連や東ヨーロッパの共産主義に対抗しつつ、中道的な性格をもつ「戦後コンセンサス」が成立し、ケインズ主義的福祉国家が発展した。雇用と成長のために政府が経済に介入するとともに、社会保障制度が拡充されていった。そのもとで、キリスト教民主主義(保守主義)と社会民主主義に立脚する大衆政党を軸に、安定した民主政が実現した。
ところが、経済成長を通じて「豊かな社会」が到来すると、フランスで五月革命が起きた1968年という年号に象徴されるように、脱物質主義的価値観が登場するとともに、政治への直接的な市民参加の要求が高まり、1980年に西ドイツで「緑の党」が結成される。また、1979年、イギリスでサッチャー政権が成立して以降、市場メカニズムを重視して政府の経済への介入を減らす新自由主義が台頭し、戦後コンセンサスを掘り崩していった。
こうしたなか、1970年代なかば以降の欧米諸国では、有権者の党派性の減退、党員の減少、無党派層の増大、投票率の低下などがみられるようになり、それを根拠として政党の衰退が主張されるようになった。それはリプセットとロッカンの「凍結」仮説の揺らぎを意味する。各政党の前回の選挙からの得票増加率の合計によって測定される「変易性(ボラティリティvolatility)」が、1970年代に入って多くの西ヨーロッパ諸国で上昇しているという指摘がなされたり、アメリカでも有権者の政党帰属意識が低下し、政党の「脱編成」が起きているという主張がなされたりした。
このような背景のもと、デュベルジェの大衆政党モデルを乗り越えるべく、新たな政党組織の類型が提唱された。
有権者の政党離れ、テレビをはじめとするマス・メディアの発達などに注目し、「選挙プロフェッショナル政党」という政党組織の類型を1982年の著書で示したのが、A・パーネビアンコAngelo Panebianco(1948― )である。すなわち、党員とイデオロギーに基礎を置き、党官僚が中心的な役割を果たす大衆政党とは異なり、選挙で有権者にアピールすることを目標に据え、党首の個人的なリーダーシップを強調するとともに、選挙コンサルトなどを重用し、国会議員などの公職者が大きな影響力をもつのが、選挙プロフェッショナル政党である。
選挙での競争よりも、市民社会からの遊離と国家への依存に着目して、「カルテル政党」という類型を提示したのが、R・S・カッツRichard S. Katz(1947― )とP・メアPeter Mair(1951―2011)の1995年の論文である。彼らによると、理念型としての政党は、エリート政党(幹部政党)から、大衆政党、包括政党を経て、カルテル政党へと歴史的に変化してきたという。大衆政党は市民社会に基礎を置きつつ、市民社会と国家の間を架橋する役割を果たしたのに対して、カルテル政党は市民社会から切り離され、政党財政への公的補助(政党助成制度)とメディア規制に依存し、共謀しながら生き長らえる。
一方、政党が市民社会から遊離し、組織として弱体化しているという主張への反論もみられる。S・スキャロウSusan E. Scarrowの2015年の著書は、党内民主主義の深化を通じて新たな形態の市民社会に根ざした政党が形成されつつあると主張する。すなわち、活動家―党員―支持者―有権者と広がる同心円状の大衆政党とは違い、近年の政党は党首選挙の投票権の付与やインターネットの活用などを通じて、伝統的な党員に加え、簡易党員、サイバー党員、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のフォロアーなど多様な形態で有権者との接点を広げている。スキャロウは、それを「多段階メンバーシップ政党」とよんだ。
西ヨーロッパ諸国では、とりわけ2010年代以降、社会民主主義政党をはじめとする既成政党の弱体化、左右のポピュリズム政党の台頭などがみられ、既存の政党システムが大きく揺らいでいる。
それがもっとも顕著なのは、フランスやイタリアである。両国では、第二次世界大戦後、戦時下でレジスタンスを担った共産党が大きな勢力を誇った。しかし、東ヨーロッパ諸国の民主化やソ連の崩壊を受けて、共産党はイタリアでは社会民主主義に路線転換し、フランスでは衰退していった。さらに両国では近年、ポピュリズム政党の進出が著しく、政党システムが非常に流動化している。
ドイツでは、緑の党が穏健化しつつ地歩を固める一方、左翼党および極右の「ドイツのための選択肢」という左右のポピュリズム政党が台頭し、六つの有力政党が競合するようになった結果、多数派形成の必要上、キリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党の二大政党が大連立を組むことが増えている。イギリスでは、保守党と労働党による二党制が続いているが、地域政党やポピュリズム政党の伸長などによって二大政党の得票率が低下し、連合政権がみられるようになった。
[中北浩爾 2023年3月17日]
日本の政党の起源は、征韓論に敗れて下野した板垣退助(いたがきたいすけ)らが中心となり、民撰(みんせん)議院設立建白書を提出するに際して、1874年(明治7)に結成した愛国公党に求められる。これはやがて自然消滅するが、高知に戻った板垣は立志社を設立し、西日本を中心に各地の民権結社と連絡をとりながら愛国社を発足させ、いったん解体するも再興する一方、国会の開設を求めて1880年に国会期成同盟を結成する。
自由民権運動が高まりをみせるなか、翌1881年に明治十四年の政変が起き、イギリス流の立憲政治の導入を求める参議の大隈重信(おおくましげのぶ)が政府から追放されるとともに、「国会開設の詔(みことのり)」が発せられた。これを受けて1881年、立志社を中心として自由党が結成され、板垣が党首に就任した。それに続いて1882年、大隈らが立憲改進党を設立する。
改進党がイギリス流の漸進主義を採用したのに対して、自由党ではフランス流の急進主義が重きをなし、激しく対立した。こうしたなか、薩長両藩出身者を中心とする藩閥政府は、両党を弾圧したり、懐柔したりして、解党あるいは解党状態に追い込むとともに、君主の権力が強いドイツ流の立憲政治の導入を進めた。
1889年の大日本帝国憲法(明治憲法)の発布を受けて、翌1890年に制限選挙制度による衆議院選挙が実施され、国会が開設された。自由・改進両党を中心とする民党は、「政費節減」「民力休養」を主張し、超然主義を唱えて選挙干渉も辞さない藩閥政府と対峙(たいじ)した。
ところが、1894年に日清(にっしん)戦争が始まると、それ以前から進みつつあった政府と民党との妥協が進展する。1898年、改進党の後身の進歩党と、自由党が合同して憲政党を結成し、日本初の政党内閣として隈板(わいはん)内閣(第1次大隈重信内閣)を樹立したが、内部抗争によって半年たらずで瓦解(がかい)し、憲政党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂する。
1900年(明治33)、政党に宥和(ゆうわ)的な藩閥指導者の伊藤博文(いとうひろぶみ)を党首として、立憲政友会が設立され、星亨(ほしとおる)が主導する憲政党が合流した。その後、政友会の総裁西園寺公望(さいおんじきんもち)は、山県有朋(やまがたありとも)系の藩閥指導者の桂太郎と交互に首相を務め、桂園時代とよばれた。桂は1913年(大正2)に立憲同志会の結成を企図し、これに憲政本党の後身の立憲国民党などが合流した。
以上のように、伊藤、桂といった藩閥指導者が政党を取り込んで、政友会や同志会の結成を主導した。とはいえ、実質的にみると、政党が官僚出身者などの人材を取り込んでいく結果になった。
こうして発展した政党は、デュベルジェのいう幹部政党であり、支持基盤は地方名望家に置かれ、その要求に従って鉄道の敷設、道路・港湾の建設、河川の改修、高等教育機関の設置などの利益誘導政治を行い、党勢を拡張した。とくに政友会は「我田引鉄」といわれたような積極主義をとり、長期にわたって最大政党の座を守り、山県系の藩閥勢力と対立しつつ提携した。政治資金については、幹部が財界などから調達した。
1918年、政友会総裁の原敬(はらたかし)が本格的な政党内閣を樹立したが、従来の政党勢力と藩閥勢力の提携の枠内にとどまった。その後、1924年の第二次護憲運動の結果、憲政会の総裁加藤高明(かとうたかあき)を首相とする護憲三派内閣が誕生したことを契機に、政党の党首が連続して内閣を組織する政党内閣制が成立する。同志会の後身の憲政会・民政党と政友会の二大政党が、交互に政権を担当する慣行が確立したのであり、「憲政の常道」とよばれた。
ただし、後任の首相は元老が天皇に推薦する形式がとられ、失政や閣内不一致、スキャンダルなどで内閣が倒れると、二大政党のもう一方が少数派政権をつくった後に衆議院選挙を行い、多数の議席を獲得した。その点で、議会の多数派に依拠する議院内閣制が成立したとはいえない。
護憲三派内閣のもとでは、男性普通選挙法が成立した。1922年に結成された日本共産党は非合法状態に置かれ、治安維持法などで激しく弾圧された。しかし、1928年(昭和3)の最初の普通選挙に基づく衆議院選挙には、合法無産政党が参加し、徐々に議席を伸ばすとともに、しだいに分裂状態を克服し、1932年に社会大衆党に結集することになる。
このように戦前の日本では、政党内閣制と男性普通選挙制度が実現したうえで、社会民主主義政党も一定の議席を得た。国際的にみて、当時としてはかなりの水準の民主化が達成されたといえる。
ところが、満州事変下の1932年の五・一五事件によって、加藤高明内閣から犬養毅(いぬかいつよし)内閣まで7代続いてきた政党内閣制は終焉した。これ以降、政党は存続しながらも、求心力を失っていき、それにかわって軍部の政治的発言力が増した。
さらに1937年に始まった日中戦争が長期化するなか、近衛文麿(このえふみまろ)を中心とする新体制運動が起こり、1940年に大政翼賛会が結成された。その直前、社会大衆党、政友会、民政党などは解散し、大政翼賛会に合流した。こうして戦前の政党政治は終焉を迎えた。
[中北浩爾 2023年3月17日]
第二次世界大戦が終わると、アメリカ軍による占領が始まり、旧政友会の系譜を引く自由党、旧民政党の流れをくむ進歩党、戦前の合法無産政党が大同団結した日本社会党、合法化された日本共産党など、政党が再建されていくとともに、女性参政権が認められた。
明治憲法下の1946年(昭和21)4月、戦後初めての衆議院選挙が実施され、自由党と進歩党を与党とする吉田茂内閣が成立し、政党内閣が復活した。また、同年11月には日本国憲法が公布され、天皇主権から国民主権に転換し、議院内閣制が導入された。陸海軍の解体、貴族院から公選の参議院への転換などを含む一連の戦後改革によって、日本は徹底的に民主化され、政党の政治的な地位が著しく高まった。
敗戦後の日本では、多党制下の連立政権が続いた。1947年の新憲法施行直前の衆議院選挙の結果、社会党を中心とする連立政権として片山哲(かたやまてつ)内閣が成立し、翌1948年、進歩党の後身の民主党を中心とする芦田均(あしだひとし)内閣に引き継がれたが、昭和電工事件で倒れた。これ以降、第二次から第五次まで自由党(民主自由党)の吉田茂内閣が続いた。吉田内閣のもとで対日講和条約と日米安保条約が成立し、日本は主権を回復した。その後、吉田に対抗する保守勢力が民主党に結集し、1954年に鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣が成立した。
当初、自由党や民主党などの保守政党と社会党との政策距離は大きくなかったが、米ソ冷戦が日本に波及し、1951年に講和・安保両条約が批准されると、それに賛成した親米の「保守」と、反対した「革新」の対立が明確化した。保革対立には、従来の階級対立に加え、戦後的価値をめぐる改憲か護憲かという対立も含まれた。
両条約の批准をめぐって分裂した左右両派社会党が、しだいに議席を増やした結果、第五次吉田内閣、第一次鳩山内閣と衆議院での過半数を欠く単独政権が連続するなか、1955年に社会党が「非武装中立」を掲げて統一したことが決定打となって、民主党と自由党が保守合同に踏み切った。アメリカや財界も、自由民主党(自民党)の結成を後押しした。
この当時、自民党と社会党による保革の二党制が成立したという見方も存在したが、自民党と社会党の議席の比率は2対1であり、1959年に日米安保条約の改定をめぐって社会党がふたたび分裂し、民主社会党(後の民社党)が結成されたことなどで、自民党一党優位政党制がしだいに固まっていった。これが1955年体制(五五年体制)であり、新自由クラブと連立を組んだ短期間を除いて、自民党による安定した単独政権が、38年間にわたって続いた。
社会党は野党第一党であり続けたが、1964年に結成された公明党や、共産党が伸長するなど、野党の多党化が進んだ。その一方で、自民党も高度経済成長を背景に従来の農村部を中心とする支持基盤が揺らぎ、得票率を漸減させたため、1970年代に入ると、与野党伯仲状況に陥った。ところが、1973年のオイル・ショックによって高度成長が終わり、国民の間に生活保持主義が広がったこと、自民党が1977年に党改革を行い、党員参加の総裁予備選挙を導入したことなどを原因として、1980年以降、自民党は党勢を回復させ、保守復調とよばれた。
戦前の政友会・民政党以来の幹部政党としての組織を引き継いだ自民党では、同士討ちを招く当選者が3~5人の衆議院の中選挙区制を背景として、人事や選挙では派閥、政策決定では族議員が大きな影響力をもった。大衆政党の建設を目ざす党近代化も試みられたが、失敗に終わった。
衆議院の中選挙区制のもと自民党の国会議員や候補者は選挙区に個人後援会を組織し、利益誘導政治を展開して新たな票を掘り起こすとともに、地方議員を系列化した。自民党は与党として官僚制と緊密な関係をもちながら、労働組合を除く利益団体の多くと友好関係を築いた。さらに、中小企業者や農業者などを中核としつつも、都市部のサラリーマンなどの取り込みにつとめ、徐々に包括政党としての性格を強めていった。個人後援会や支持団体のメンバーが党員として登録され、1991年(平成3)には540万人を超えた。
衆議院の中選挙区制は、自民党の組織を分権的にする一方、野党が分立する一因になった。五五年体制のもと、社会民主主義政党は外交・安全保障政策をめぐって分裂した。「非武装中立」を党是とする社会党は、大衆政党の組織形態をとっていたが、党員は少数にとどまり、活動家の影響力が強く、それゆえドイツ社会民主党などに比べてマルクス主義からの脱却が遅れた。それも民社党が社会党から分かれた原因となった。組織的にはいずれも労働組合に選挙運動などを依存し、社会党・総評ブロックおよび民社党・同盟ブロックとよばれた。
野党で大衆政党の建設に成功したのは、1955年に武装闘争方針を放棄した共産党であり、1970年代なかばにかけて躍進したが、その後、頭打ちになった。公明党は支持母体の創価学会を通じて大衆政党的な性格をもったが、宗教政党という限界を免れなかった。
[中北浩爾 2023年3月17日]
利益誘導政治などに特徴づけられる自民党長期政権は、ロッキード事件など大規模な汚職事件を繰り返し引き起こした。1988年(昭和63)にリクルート事件が発覚すると、衆議院の選挙制度改革を中心とする政治改革が叫ばれるようになった。
1993年(平成5)、政治改革をめぐって自民党が分裂し、衆議院選挙で新生党、新党さきがけ、日本新党といった新党が躍進した結果、自民党が衆議院議席の過半数を割り込み、非自民・非共産8党派による連立政権として細川護熙(ほそかわもりひろ)内閣が樹立され、五五年体制が終焉した。細川内閣のもとで政治改革が実現し、衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入されたほか、企業・団体献金が制限され、政党助成制度が創設された。
これ以降、小選挙区制を中心とする選挙制度のもとで、二大政党化が進展することになった。まず社会党とさきがけを除く非自民連立政権の与党が合流し、1994年末に新進党が結成される。しかし、3年後に解党の決定を余儀なくされた。それに続き、社会党とさきがけの一部によって1996年に結成された民主党が、旧新進党から分かれた諸政党と合併し、1998年に新たな民主党を設立した。
しかし、民主党は2009年(平成21)に自民党からの政権交代を実現したものの、政権運営に失敗し、2012年に自民党が政権に復帰した。この過程で民主党が分裂するとともに、日本維新の会が発足して伸長するなど、二大政党化は著しく後退した。
細川内閣以降、連立政権が続いたことをみても、二党制が成立したとはいえない。大きくいって、非自民連立政権から自社さ政権、そして自公政権と変化し、民主党政権も社会党の後身の社会民主党および国民新党との連立政権であった。
以上から、日本政治は1993年以降、一党優位政党制から多党制に移行したといえる。その背景には、衆議院の選挙制度が純粋な小選挙区制ではなく、比例代表制との並立制であること、より比例性が高い参議院が強力な第二院として存在していることなどがある。
ただし、多党制とはいっても、衆議院が小選挙区制を中心とする選挙制度である以上、2ブロック化の傾向がみられる。とりわけ自民党と公明党は、小選挙区の大部分を自民党、一部を公明党とすみ分けるとともに、自民党が比例代表で公明党に票を回すなど、緊密な選挙協力を行い、安定したブロックを形成している。
民主党は2016年に維新の党の一部と合流して民進党を結成するとともに、共産党を含む野党間の選挙協力を開始した。ところが、外交・安全保障などの政策距離が大きく、強固な野党ブロックを形成するには至っていない。しかも、民進党は2017年、希望の党への合流をめぐって分裂し、その後、立憲民主党と国民民主党に分かれた。これらの結果、1999年以来、3年あまりの民主党政権を除き、自公政権が続いているのであり、自公ブロックの優位が顕著である。
その一方で、有権者の党派性の減退、党員の減少、無党派層の増大、投票率の低下といった政党の衰退現象は、五五年体制が終わって以降の日本でも、かなりの程度みられる。冷戦の終焉を背景として、自民党と社会党が連立を組むなど、従来の保守と革新の対立が弱まったことが、無党派層の増大に拍車をかけたといわれる。
なかでも民主党は、社会党が活動家の影響力の大きさゆえに政権交代を実現できなかったことを反面教師として、労働組合の連合の支援を受けつつも、国会議員中心の組織を構築し、無党派層からの集票を重視した。このような組織のあり方は、民進党を経て立憲民主党や国民民主党に引き継がれている。また、自民党、公明党、共産党についても、党員の減少や支持団体の弱体化が進んでいる。そのため、マス・メディアの政治的影響力の上昇、政党助成への依存度の高まりなども踏まえて、日本の政党が選挙プロフェッショナル政党あるいはカルテル政党に接近しつつあるという分析も行われている。
ポピュリズムの色彩が強い地域政党の台頭もみられる。具体的にあげると、大阪府知事の橋下徹(はしもととおる)(1969― )が結成した「大阪維新の会」、名古屋市長の河村たかし(1948― )率いる「減税日本」、東京都知事の小池百合子(こいけゆりこ)(1952― )が設立した「都民ファーストの会」などである。
これらは、首長が地方議会で多数派を形成するために結成した政党であるが、大阪維新の会を基盤として日本維新の会が発足するなど、国政に進出するケースもみられる。しかし、それぞれの地域を超えて全国的な組織を構築することは容易ではなく、自民党から政権政党の座はもちろん、連合を支持団体とする民主党およびその後継政党から、野党第一党の座を奪うまでには至っていない。しかし、無党派層の票を掘り起こす政党が出現し、ブームが巻き起これば、政党システムが一気に流動化する可能性も否定できない。
[中北浩爾 2023年3月17日]
『モーリス・デュベルジェ著/岡野加穂留訳『政党社会学』(1970・潮出版社)』▽『岡沢憲芙著『政党』(1988・東京大学出版会)』▽『ジョヴァンニ・サルトーリ著/岡沢憲芙・川野秀之訳『現代政党学』(1992/普及版・2000・早稲田大学出版部)』▽『川人貞史他著『現代の政党と選挙』新版(2011・有斐閣)』▽『季武嘉也・武田知己編『日本政党史』(2011・吉川弘文館)』▽『網谷龍介他著『ヨーロッパのデモクラシー』改訂第2版(2014・ナカニシヤ出版)』▽『待鳥聡史著『政党システムと政党組織』(2015・東京大学出版会)』▽『岩崎正洋著『政党システム』(2020・日本経済評論社)』
なんらかの共通的な社会観・政治観をもつ人々によって構成され,これらの社会観・政治観のうえに立って国民間の諸利益を集約し,政策を形成し,さらにその政策を実現するために議会の運営の衝に当たり,政権を担当し,あるいは政権の担当をめざす組織体をいう。政党の古典的定義として〈政党は,自分たちの共同の努力によって,そのすべてが同意しているなんらかの特定の原理のうえに立って,国民的利益を増進するために結合した人々の組織体である〉というE.バークの定義が知られているが,今日的視点からすると,この定義は政党の機能についての具体的な言及がないなどの点で,不十分性を免れない。また政党は定義上,個別的・部分的利益の表出を事とし,みずからは直接に政権を担当せず,議会や政府に〈圧力〉をかけることによって目的を達成しようとする〈圧力団体〉とは,基本的に類を異にする。
ブライスJames Bryce(1838-1922)が《近代民主政治Modern Democracies》(1921)の中で,〈第1に,政党は不可避である。いままでに,大規模な自由主義国で政党をもたない国はなかったし,政党なしに代議政治が運営可能であることを示したものは,ひとりもいない〉と述べたことは,よく知られている。実際に,現代民主政治は一般に政党政治として展開されており,政党の発展は,ますますめざましい。今日の政党の盛況ぶりの一端は,〈世界政党事典〉としての,アラン・デイAlan Dayほか編の《世界の政党》第4版(1996)が,世界のおよそ200ヵ国の2000を超える政党についての情報を提供しているところにもうかがわれよう。しかし,政党は当初からその役割が肯定的に理解されていたわけではない。トリーペルHeinrich Triepel(1868-1946)は《憲法と政党Staatsrecht und Politik》(1927)において,国家対政党の関係の変化を,(1)国家が政党を敵視した時代,(2)国家が政党を無視した時代,(3)法律上で政党が容認される時代,(4)政党が憲法秩序の中に編入される時代,の4段階に分けている。イギリスの政治家H.St.J.ボーリングブルックが《政党論Dissertation on Parties》(1734)で政党を政治機構の一部とするような制度を〈腐敗的〉なものとして反対し,ルソーが《社会契約論》(1762)で一般意志の十分な機能にとって徒党や部分的団体の存在は望ましくないと説き,さらにアメリカの初代大統領ワシントンが有名な〈告別演説〉(1796)の一節で,国家の存続にとっての党派精神の有害さについて強く警告したなどの例にみられるように,18世紀から19世紀初頭の思想家,政治家の多くは〈反政党主義〉的態度をとっていたのである。
しかし,政党はまさしくこの時期に発達し,しだいに政治的に無視できない勢力を形成するようになった。イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。この間に,ホイッグ党は,19世紀半ばころから自由党と呼ばれるようになるが,やがて19世紀から20世紀への移りめの時期における,労働者階級に基盤をおく政党の急速な台頭によって,イギリス政党制は新しい段階に入ることになる。すなわち1900年に労働組合や社会主義団体によって議会外に結成された労働代表委員会は,1906年に労働党と改称し,総選挙ごとに勢力を伸張し続け,ついに1920年代半ばには自由党と入れかわってイギリス二党制の担い手となり,その後保守党と交互に政権を担当して現在に至っている。
アメリカの政党は,皮肉なことに反政党主義的立場に立っていたワシントンの下での主要閣僚であったハミルトンとジェファソンによって,18世紀末に創設された。すなわち連邦党と民主共和党である。当初優位に立っていた連邦党は19世紀に入ると民主共和党に連敗して消滅し,民主共和党体制が続く中で〈ジャクソニアン・デモクラシー〉時代が到来したが,この間に民主党と呼ばれるようになった民主共和党では,党内のジャクソン派と反ジャクソン派の対立が激化し,反ジャクソン派は1828年に国民共和党(1834年にホイッグ党と改称)を結成し,40年にハリソン,48年にタイラーを大統領に当選させた。だがこのホイッグ党も,50年代に入って奴隷問題をめぐる内部的分裂と52年の大統領選挙での惨敗によって解体し,奴隷制反対派は他の奴隷制反対グループと合流して新しい政党の結成へと向かった。その結果が1854年の共和党の誕生であり,以後今日まで民主,共和両党の二党制が続くことになる。ちなみに,リンカンが共和党最初の大統領として当選した1860年から1996年までの35回の大統領選挙での勝利回数は,共和党が21回,民主党が14回である。
日本の政党史は1874年の愛国公党,81年の自由党,82年の立憲改進党などの創設をもって始まる。1890年の国会開設当初,藩閥政府の超然主義の下で〈民党〉の活動は抑圧されたが,やがて政党の力の伸張を背景にして98年に憲政党を基礎にした第1次大隈重信内閣,1900年に結成された立憲政友会のうえに立つ第4次伊藤博文内閣などが成立,18年には衆議院の多数党としての政友会に基礎をおく〈政党内閣〉としての原敬内閣が誕生し,以後31年成立の犬養毅政友会内閣まで政党内閣が続いた。その後,戦時下の政党政治の逼塞(ひつそく)期をはさんで,戦争直後の1945年11月に,大正デモクラシー期から昭和初頭にかけて活動した無産政党関係者によって日本社会党が,政友会系の政治家によって日本自由党が,戦時中の大日本政治会のメンバーを中心として日本進歩党が相ついで結成され,1922年に組織されていた日本共産党も活動を公然化し,日本にもようやく政党政治としての民主政治が展開されるようになってきた。この中で,戦後日本の政党政治が一つの大きな節目の時期を迎えたのは,左右両派社会党の統一によって日本社会党が再出発し,民主党と自由党の〈保守合同〉によって自由民主党が創設された1955年である。ここに成立した自民,社会両党を軸とする〈55年体制〉は,革新政党がはじめて政党政治の中心的担い手の一つになったという点でとりわけ画期的であったが,社会党の勢力は自民党のおよそ半分にすぎず,11/2政党制として特徴づけられ,結局,自民党の長期政権が続く中で,60年の民社党,64年の公明党,76年の新自由クラブ,77年の社会市民連合(1978年に社会民主連合と改称)などの相つぐ登場によって野党の多党化が顕著化し,70年代後半以降,55年体制は破算的状況に陥ってきた。
93年7月に行われた総選挙で,自民党は議席の過半数を獲得できず,非自民勢力の結束の前に,ついに38年間にわたった長期政権に終止符を打った。ここに55年体制は終焉したのである。その後,細川護煕,羽田孜の両非自民連立政権が続いたが,94年6月に成立した自民,社会,さきがけの村山富市連立政権で自民党は再び政権に復帰し,さらに96年1月に成立した橋本竜太郎連立政権では,首班が社会党から自民に移って,自民党が主導権を回復した。
このようにして政党が現在一般に肯定的に理解され,現代民主政治の中心に位置する機関として発達してきたのは,政党が現実に果たしている機能のゆえにほかならない。ブライスがつとに指摘したように,今日〈政党ぬき〉の民主政治を構想することは不可能であろう。この事態に照らして,政党に帰せられている機能はきわめて多様である。スコットRuth K.ScottとレベナーRonald J.Hrebenarによると,アメリカの政治学者によってアメリカ政党の機能とされてきたものは,およそ次の11に整理できるという。(1)全国的権威と正統性の確立と維持,(2)社会的あつれきの緩和と政治的合意の促進,(3)社会内における諸利益の集約と表出,(4)市民参加のための構造の提供,(5)社会的変革のための媒体(公共政策の提起と支持),(6)民衆的代表のための機構,(7)指導者の補充と訓練,(8)行政部構成者の選択装置,(9)代替政府の提供,(10)選挙民に対する情報とキュー(合図)の提供者,(11)候補者に対する選挙運動上の支持の提供。しかし,現代民主政治に不可欠の機関としての政党の最重要の基本的機能は,大きく次の三つにまとめられよう。
第1は政党の利益集約機能である。ここでいう集約機能は〈諸利益を集約し,それを比較的少数の一般的政策の選択肢に変換させる〉機能(アーモンドGabriel A.Almond)を意味するが,政党は,この機能を通じて人々のさまざまな考え方の〈社会的貯水池〉(E. バーカー)となり,さらにこれらの考え方を政策の中に統合的に具現しようと試みるのである。
第2は選挙の機能である。代表制デモクラシーとしての現代民主政治は,選挙による公職者の選択を不可欠の手続きとするが,この場合,同時に大衆デモクラシーとしての性格をもつ現代民主政治の下で,政党なしに選挙をおこなうことは候補者の指名,選挙運動の実施などの点で現実上不可能であろう。ちなみに日本の公選による公職者のポストは,総計7万弱であるが,これらポストへの適任の候補者の補充recruitmentは,政党によってもっとも効果的におこなわれうるであろうし,また9700万人を超える有権者を対象にした選挙運動も,政党によってこそ組織的な展開が可能となるにちがいない。さらに各候補者は政党に足場をもつことによって,さまざまな考え方の〈社会的貯水池〉から,これらの考え方を議会や政府の中に流し込ませる導水管として政党を機能させることができる。いいかえれば政党の選挙の機能は国民と議会・政府とを結ぶ懸橋機能でもある。
第3の機能は,議会の運営と政権の担当である。まず,数百人の議員から成り立つ議会は,政党的に編成されることによって立法機能を秩序的・能率的・効果的に営むことができる。日本やイギリスのような議院内閣制の下では,議会での多数党あるいは多数派を形成する政党連合が政権を担当し,アメリカのような大統領制の下では,大統領選挙における選挙民の多数の支持をえた候補者が政権の担当者となるが,この場合,候補者が政党的基盤に立つことなしに選挙戦に臨むことは現実上不可能事である。そして政党はこのような〈統治機能〉を通じて,〈集約機能〉の有意性を高めることができる。現代の政党は〈集約機能〉〈選挙機能〉〈統治機能〉の有機的連鎖関係を維持することによって,〈現代政治の生命線〉としての役割を果たしているのである。
これらの機能を果たすべき組織体としての政党の組織・構造のあり方は,時代とともに変化し,また国ごとに一様でもない。歴史的には,政党は通常ごく少数の政治家,地方有力者などから成り立つ非大衆的組織から,大衆的基盤のうえに立ち大規模な党員を擁する組織へと発展してきた。M.ウェーバーは,これを〈貴族政党〉から〈名望家政党〉へ,ついで〈大衆政党〉へと3段階的にとらえている。現代政党の一般的特徴は大衆政党化であるが,このような傾向はイギリスの政党に典型的にみられるように,19世紀中ごろからの選挙権の拡張に伴ってしだいに顕著化してきた。選挙権の大衆化の進展が,選挙における勝利を確実にするために,政党による議会外の選挙民の組織化の必要性と有効性を高めてきたからである。まず,イギリス保守党は1832年の大改正法による新事態に対処し,支持者の選挙人登録を促すために,同年から各選挙区で登録者協会づくりを進め,67年の選挙法改正直後には全国組織として保守・立憲協会全国同盟(現在の保守・統一協会全国同盟)を結成した。自由党では同様の目的のために1861年に自由党登録協会(1874年に自由党中央協会と改称)が創設され,77年に地方自由党の全国組織として全国自由党連盟がつくられた。このようにイギリスの政党は19世紀中葉以来,議会内の議員のクラブ的性格を脱却して議会外組織を備えた〈大衆政党〉へと発展してきたが,この趨勢をさらに促進したのが,議会外に起こり,議会外の大衆組織を基盤として登場してきた労働党である。ちなみに,労働代表委員会は1900年の発足当初すでに37万6000人のメンバーを擁していたが,労働党と改称した直後の07年には100万人を超えた。なおピールGillian Peeleの《イギリスの政党》第3版(1995)によると,労働党,保守党の現党員数は,それぞれおよそ500万人,75万人である。また大衆政党化に伴って,一般に党組織の中央集権化が進み,組織的ピラミッドの頂点に党首が立ち,党本部機構を統轄して党の運営に当たるようになってきたことは指摘するまでもない。
アメリカの政党組織はいちじるしく特異的である。まず主要政党である民主,共和両党には,党の規則に基づいて入党し,党費を納入し,党活動に参加するという意味での党員は存在しない。アメリカの政治用語で〈デモクラット〉〈リパブリカン〉はしばしば民主党,共和党の支持者・投票者を意味するが,より狭い用法では予備選挙に際しての特定政党支持申告者を意味する。すなわち,閉鎖型予備選挙(クローズド・プライマリー)方式をとっている州の場合,有権者は登録時に〈加入政党〉を届け出るものとされているが,その際,それぞれの党への加入を届け出たものが,それぞれの党のメンバーということになる。いいかえれば特定政党の〈メンバー〉であることは本人の宣言に基づくのであって,党機関の決定権とはかかわりがない。また党首をもたず,中央集権的な党組織をもたない点でも特徴的である。大統領は所属する党の最高指導者のようにみえるが,アメリカの大統領は行政部の長であって,議会政党の指導者としての役割は演じない。まして大統領を出していない政党の場合には,党の公的な全国的リーダーはまったく欠如している。これと関連するのが,アメリカ政党の地方分権的性格にほかならない。すなわち政党組織は単一のピラミッド型ではなく,州の党組織はそれぞれ独立的であり,民主,共和両党はそれぞれ50の州政党のゆるやかな連合体として成り立っているのである。
現代政党は,その目標や構造的性格などで,いくつかのタイプに分けられる。その一つが〈国民政党〉と〈階級政党〉の区別で,国民政党が特定の階級にかかわりなく国民全体の基盤のうえに立ち,国民的利益の実現をめざすのに対し,階級政党は労働者・農民を主要基盤とし,その利益を代表し,社会主義社会の建設を志向する。日本の自民党は〈特定の階級,階層のみの利益を代表〉する階級政党ではなく〈国民全般の利益と幸福のために奉仕〉する国民政党,民社党は〈特定の階級の利害のみを代表する階級政党〉ではなく〈社会集団間の利害の対立とともに国民的利害の共通性をも認める国民政党〉を標榜したのに対し,55年体制下の社会党は労働者階級を中核とする〈階級的大衆政党〉として党の性格を規定していた。だが今日の大衆デモクラシーの下では,選挙を通じて投票者の多数の支持の動員をはかることが政党の成功的存立の条件であり,いずれの政党もいやおうなしに国民政党的傾向を強めざるをえない。
これに対し特定の宗教的基盤のうえに立つのが〈宗教政党〉で,たとえば世界諸国にはキリスト教を立党の基礎とする政党(カトリック政党,キリスト教民主主義政党)がきわめて多い。1982年以来コール首相のもとに長期政権を維持してきたドイツのキリスト教民主同盟Christian Democratic World Unionがその顕著な例である。これらの国々でキリスト教徒は一般的に国民中の大多数を占めており,これら宗教政党の多くは実際には〈国民政党〉とほとんど異ならない。また1994年に解党した日本の公明党は,1964年の結党に当たり,〈王仏冥合・仏法民主主義〉を基本理念とし,創価学会と表裏一体の関係に立つ宗教政党としての性格を明確に打ち出したが,70年の政教分離で〈人間性尊重の中道主義〉のうえに立つ国民政党を標榜するようになった。
マルクス主義の立場からは〈前衛政党〉と〈大衆政党〉が区別される。この場合,前衛政党は階級闘争の〈前衛〉に位置し,全人民を社会主義へ導くことを任務とする政党を意味し,具体的には共産主義政党(共産党)を指す。ちなみに日本共産党規約は,同党の性格を〈日本の労働者階級の前衛部隊〉であり,〈労働者階級のいろいろな組織の中で最高の階級的組織〉であると明示している。この用語法との関連では,〈大衆政党〉は前衛政党を特徴づける組織の閉鎖性・鉄の規律の欠如などの点で,前衛政党と対比される。
さらに,1980年代以降顕著化してきたのが,特定の時代的争点や価値観を掲げて政治の場に登場してきた〈単一争点政党〉である。この中に含まれるのが,83年にドイツ連邦議会に進出して注目を集め,その後フランス,イギリスをはじめとする多くの国々で類似の組織の結成を促した緑の党であり,また高齢者の利益の増進を目指して結成され,94年の総選挙で下院で議席を獲得したオランダの高齢者総連合や〈55歳プラス連合〉である。
〈カネは政治の母乳〉といわれる。とりわけ今日の大衆デモクラシーの下における政党にとって,巨額の資金調達は効果的活動の展開に不可欠の条件であろう。このようなニーズを満たすための政治資金の伝統的な源泉は,寄付金と党費を中心とするものであった。この点でイギリスの保守党と労働党はいちじるしく対照的であった。すなわち1980年前後の保守党の中央本部の収入の3分の2は企業献金から成り立つとみられており,労働党調査研究部の調査は,1979-80年に企業は総額250万ポンドの政治献金をおこなったが,その大部分は直接的に,あるいは保守党の資金調達組織であるイギリス産業家連合(BUI)を通じて間接的に保守党にわたったと推定した。これに対し労働党は当時,総収入のおよそ90%を労働組合に依存していた。一般的には,資金調達方式の点で,55年体制下の日本の自民党はイギリス保守党型であり,社会党は労働党型といえるが,イギリス労働党への労働組合からの資金が600万人を数える労働組合員党員の党費を主体としたのに対し,日本社会党の場合,党員は約6万4000人(1983),労働組合員はその85%弱で,党費収入の規模自体がきわめて小さかった。しかし1990年代に入って,イギリス政党の資金調達のあり方にはかなりの変化が起こり,保守党では,企業献金が減少して,個人献金が増加する傾向がみられ,他方,労働党では,党の総収入中で労働組合からの資金の占める比率が50%強に下がり,個人党員の党費とその他の収入が,それぞれ約16%,30%を占めていると見積もられている。
このような伝統的資金調達方式の現実上の難点は,政治を〈金持ちのゲーム〉化するところにある。この中で西ドイツでは,1967年の政党法によって,政党は〈自由にして民主的な基本秩序の憲法上不可欠な構成要素〉と位置づけられ,連邦議会選挙の選挙運動費に関して政党に対する国庫補助が行われるようになり,現在,ドイツでは,各党は,全政党に対する国庫補助金が年額2億3000万マルクを超えない範囲において,(1)500万票までの得票については1票につき1.30マルク,500万票を超える得票については1票につき1.00マルクの,さらに,(2)各党の党費および私的献金からの収入の50%に相当する額の,国庫補助金を受けている。
また,日本では,1994年に政治改革関連4法の一つとして成立した〈政党助成法〉によって,(1)国会議員を5人以上もつ政党,(2)真近に行われた国政選挙での得票率が2%を超える政治団体に対して,国庫から助成金が交付されることになった。助成金の年総額は,国民1人当り250円で,議員数割と得票数割によって各党に配分される。
〈党費納入党員〉をもたないアメリカ政党の経費は,従来大半が寄付金でまかなわれてきたが,その結果として政治資金の非公正化,民主,共和両党間の資金上の非均衡化などが問題となった。その是正をねらいとして制定されたのが,〈アメリカ史上もっとも広範な影響力をもつ政治改革〉と評される1974年連邦選挙運動法であり,これによって,1976年大統領選挙から選挙運動費補助のために政党・候補者に対して連邦資金が支出されることになった。予備選挙では,20以上の州でそれぞれ250ドル以下の献金を5000ドル以上,総額10万ドル以上を集めた候補者に対して,それと同額の連邦資金補助がおこなわれ,また本選挙では,民主,共和両党の候補者の選挙運動費は,全額連邦資金によってまかなわれることになったが,この場合,他からの献金の受領は禁止される。ちなみに96年大統領選挙で両党候補者は,それぞれ6000万ドルの連邦資金を受けた。また小政党の候補や無所属候補は,前回選挙での得票率が5%以上であったか,あるいは当該選挙での得票率が5%を超えた場合に,連邦資金による選挙運動費の一部補助をうけられる。さらに政党は,大統領候補指名全国大会の開催費についても,連邦資金の補助をうけることができるが,これによって96年大統領選挙の際に,民主,共和両党に対しておこなわれた補助金の額は各1200万ドルである。なお,このような連邦資金の支出は,連邦上・下両院議員選挙に関してはおこなわれていない。
→政治資金
最近のはげしい政治的・社会的変化の中で,各国の政党は,1960年代末からアメリカや日本で顕著化してきた〈脱政党化〉現象,イギリスや日本にみられる政党制再編成動向などの例からも明らかなように,さまざまな課題に直面してきた。その中で,とりわけ多くの国々の政党に共通しているのは党内デモクラシーへの動きであろう。
アメリカでは1968年大統領選挙後,全国党大会への代議員選出の民主化が提起され,72年の党大会以降,民主,共和両党の代議員中に占める黒人,婦人,青年の比率がいちじるしく改善されてきた。
イギリスの政党では,党首選出方法をめぐる諸改革が注目に値する。すなわち,従来リーダーは〈浮かび上がってくるもの〉とされていた保守党では,1965年以降党所属議員の投票によって選出されるようになった。また,従来党所属下院議員の投票で選ばれていた労働党党首は,1981年党大会の決定により下院議員30%,選挙区政党30%,労働組合40%の比率で構成される選挙人によって公選されることになった(1993年の党大会でこれら3者間の比率は,均等の3分の1ずつに改められた)。
日本では,自民党が1977年に〈総裁公選規程〉を改めて総裁選挙を2段階とし,第2段階の〈総裁決定選挙〉の選挙人は〈党所属国会議員および自由国民会議所属国会議員〉に限定したが,第1段階の〈総裁候補決定選挙〉では,選挙人の範囲を一般党員に拡大し,一般党員に総裁候補の決定権をゆだねることになった。
→議会
執筆者:内田 満
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…ためにチャールズ2世は外交委員会という名の事実上の内閣廃止を,一度は宣言せざるを得なかった。近代政党partyの起源も同じチャールズ治下の,親王権派トーリーと,これに対抗するホイッグの抗争に求められることが多い。両派の名称が,互いに相手をアイルランドの追剝(Tory)や狂信的反徒(Whig)になぞらえ非難する蔑称として用いられた事実が示すように,パーティは私益や熱狂を国王,王国に対する忠誠に優越させる悪徳の現れとみられがちで,反対党と反逆との境界は時としてあいまいになった。…
…パーティという英語には,(1)政党,党派,(2)ある目的のために集まった一行,仲間,(3)社交的な集り,などの意がある。しかし日本では,登山のパーティなど(2)の用法もあるが,もっぱら(3)の意で用いられる。それは,クリスマス・パーティ,結婚披露パーティ,誕生パーティのように生活暦の節目に催されるものもあるが,これとはまったく無関係に飲食・遊興を共にすることを目的に開かれることが多い。《不思議の国のアリス》(1865)で帽子屋と三月兎とヤマネのティー・パーティにアリスが闖入(ちんにゆう)してしかられたように,パーティは基本的には私的な場に招き招かれるものである。…
…首相の内閣指導力が強まるにつれ,実権は〈内閣の協調を得る首相〉へ移ったとする見解が,とりわけサッチャー政権下で強まった。 同国の政治が長期にわたる成長の産物であることは,内閣,政党,首相など,現代政治の鍵となる語が,起源的には非難・侮辱の意で用いられていた点に端的に表れている。内閣cabinetという言葉は,国王の信任する少数の大臣・寵臣からなる非公開の国政諮問会議のあだ名として,フランス語から借用された。…
…イギリスについていうならば,1832年の第1次選挙法改正による選挙権者の拡大以後,議会が〈法的主権〉をもつのに対し,〈政治的主権〉が選挙民の手中にうつっていく段階が,議会制民主主義の成立を意味する。その際,イギリスでは,二大政党制の伝統とむすびついて,下院選挙のときの〈選挙による委任〉が,政権担当政党のプログラムを選挙民の選択によって実質的に拘束する効果までが生じ,とくに首相による下院解散権の行使が,選挙民による裁決を促すものとして作用した。それにひきかえフランスでは,多党分立のため,また解散権不行使の慣行が第三共和政期に定着したこともあって,選挙民意思の反映は,選挙民と議会の関係までにとどまり,政権の所在とそのプログラムを実質的に拘束するところまではいかなかった。…
…行政府がそのような選挙民意思による正当性の調達ができない状況のもとでは,行政府は弱体ないし不安定となるが,その際には,官僚制部門の力が相対的に強くなり,行政に対する議会側のコントロールが効果的に及ばない点では変わらないこととなる。 議会多数派と一体となった行政権の強大化に対しては,立法権と行政権の制度上の関係の次元をこえて,政党の存在を視野にとり入れた,実質的な権力分立論が唱えられる。与党の統治機能に対する野党の批判・抑制機能の分立,また,与野党間の政権交代による権力分立という視点がそれである。…
※「政党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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