出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…これに対応し西欧主要国,次いで日本も変動相場制に移行し,固定相場制を基礎とするブレトン・ウッズ体制は,アメリカの一片の通告によりもろくも崩壊した。もっとも当時は変動相場制は為替相場の多角的調整のための緊急避難的事態と考えられ,同年12月にはワシントンのスミソニアン博物館において,米ドルの切下げを含む主要国の中心相場が合意され,いちおう固定相場制に復帰した(いわゆる〈スミソニアン合意〉)。しかしそれも長くはもたず,ドル不安の再燃に伴う73年2月の米ドルの第2次切下げを契機として,為替相場は市場の実勢にまかせることを原則とする〈全面フロート制〉の時代に突入した。…
…この金平価は,1ドル=360円という円の対ドル為替相場を基準に1ドルの純金分を360で割って算出された。50年代末期以降,ドルの弱体化が顕著になり,ドル危機が続いたが,71年8月,ついにアメリカは正式に金・ドル交換を停止し,金1オンス=38ドルへの引上げ(ドルの切下げ)を行い,1ドル=308円の新しい円の対ドル為替相場が決定された(スミソニアン合意)。これ以降IMF体制が崩壊しはじめ,73年2月に固定為替相場制が変動為替相場制となり,78年に金は通貨の価値基準の役割から排除され,金に自由相場がたつようになった(以上〈国際通貨制度〉の項目参照)。…
…同年12月にワシントンのスミソニアン博物館で開催された10ヵ国蔵相会議では,主要国為替相場の多角的調整と変動幅の上下各2.25%への拡大(それまでは各1%以内)が合意され,ワイダー・バンドのもとでの安定相場制への復帰が試みられた。しかし,各国の国際収支不均衡,国際的なインフレ率格差,大規模化した国際資本移動等を背景としてスミソニアン合意は短命に終わり,73年2月には日本が,また同年3月には欧州諸国が再びフロート制の採用を余儀なくされるに至った。これが主要国通貨の全般的な管理フロート時代の始まりである。…
…いわゆるニクソン・ショックである。同年末先進諸国代表は,ワシントンに集まり,スミソニアン博物館で為替相場の一斉調整を含む〈スミソニアン合意〉を成立させた。それにより金に対してドルは切り下げられ,1オンス=38ドルとなったが,ドルの金交換性を停止した以上,その実質的意味はなかった。…
…このため外国為替市場ではドル売りの投機が大規模に起こり,いっそうの円高をドルの買い介入で阻止しようとした日本へは大量のドルが流入した。71年12月にはスミソニアン合意が成立し,ドルの約8%の切下げ,円の約17%の切上げ等が決定された。しかしアメリカの赤字はあまり縮小しなかったので,73年には再びドルの切下げを見越した売り投機が発生し,円,マルクをはじめ主要通貨がスミソニアン合意に反してフロートしはじめた。…
※「スミソニアン合意」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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