日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドル」の意味・わかりやすい解説
ドル
どる
dollar
通貨の呼称単位で、2008年末現在アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、シンガポールなど合計29か国が自国通貨にこの呼称を使っているが、単にドルといえば、通常アメリカ合衆国ドルすなわち米ドルをさす。
ドルという名称は、ドイツのターレルThaler、スカンジナビアのリグスダーレルrigsdalerなどに由来し、スペインの通貨ペソも、スペイン・ドルとよばれていた。アメリカがドルを自国通貨の呼称としたのは、1775年、大陸会議の決定により、独立戦争の戦費調達のために発行した債務証書をスペイン・ドル貨で償還することになってからであるが、正式には1785年の大陸会議で、ドルを貨幣単位とし、十進法を採用することが決められた。
[原 信]
金銀複本位制下のドル
1792年、財務長官A・ハミルトンのもとで貨幣鋳造法が制定され、1ドル=純銀24.75グレインとし、金銀の比価を1対15とする金銀複本位制度が確立された。しかし、その後銀価が世界的に下落し、この金銀比価は金にとって割安なものとなり、金貨は流通から姿を消し、海外に流出した。1834年に同法は改定され、純金量目は23.20グレインとなり(さらに1837年には23.22となる)、金銀比価はほぼ1対16となった。だが今度は金が割高となり、金が流入し、正貨としての銀貨は流通から姿を消してしまった。
以上のような鋳貨のほか、独立後、各州の法律に準拠して設立された多くの州法銀行が鋳貨を準備として銀行券を発行した。中央銀行制度の発達が遅れたため、これらの銀行券がしばしば過剰に流通した。さらに1861年の南北戦争勃発(ぼっぱつ)とともに、政府はグリーンバックとよばれる不換紙幣を発行、戦費にあてたが、これが増発され、インフレーションを巻き起こした。
しかし、1863年、全国に共通の通貨を供給することを目的の一つとして、連邦法に基づく国法銀行法が制定され、国法銀行が発行する銀行券が州法銀行発行の銀行券にかわってしだいに流通するようになり、また増発されたグリーンバックの吸収にも役だった。
南北戦争後、通貨制度の安定が図られた。すなわち、1873年貨幣鋳造法で、正貨としての銀貨の鋳造が中止され、金の単独本位制を志向して1879年から金貨の兌換(だかん)を再開した。
[原 信]
金本位制下のドル
農民や銀生産者は金銀複本位制への復帰を主張したが、世界的な金本位確立の流れのなかで、結局1900年に金本位制が名実ともに確立した。金平価は1ドル=25.8グレインであった。さらに、1913年に成立した連邦準備法は、中央銀行としての連邦準備制度を確立したもので、アメリカの通貨制度の大きな礎(いしずえ)となった。
第一次世界大戦中の1917年、金本位制が停止されたが、戦後の1919年にはいち早く復帰した。第一次世界大戦を経て、強大に発展したアメリカ経済を背景とし、ドルは英ポンドや仏フランと並んで国際通貨としての役割をしだいに拡大していった。
[原 信]
管理通貨制への移行
1929年に始まった世界恐慌のあと、国際金本位ないし金為替(かわせ)本位制は崩壊し、アメリカも1933年の金融恐慌を経て、同年3月金本位制を停止した。翌1934年金準備法を制定、ドルの金平価を約41%切り下げて、1ドル=13.71グレイン(1オンス=35ドル)とした。また、国内での金兌換・保有および輸出を禁止し、ただ外国通貨当局の保有ドルについては、前記平価で金を売却することとした。かくして対外的には局限された金本位制、かつ対内的には実質的な管理通貨制が採用されることとなった。
[原 信]
第二次世界大戦後の動き
IMF体制下のドル
第二次世界大戦後、ドルは、国際通貨基金(IMF)の設立を軸とする国際通貨体制のなかで中心的地位を占めた。すなわち、1オンス=35ドルで外国当局に対し金兌換に応ずる米ドルが価値の基準となって、通貨間の為替平価体系がつくりあげられた。
第二次世界大戦後アメリカは、大きな戦災を受けたヨーロッパ諸国や日本と対照的に、強力な経済力を誇り、政治・軍事に優越し、ドルは約240億ドルの金準備を擁した世界の最強通貨であり、各国は経済復興のためドル獲得に苦心した。これが「ドル不足時代」であり、アメリカはこれを緩和しようとしてマーシャル・プランをはじめ、各種の対外援助や貸付を行った。
復興が進み、ヨーロッパ諸国や日本が国際競争力を高めてくるにしたがい、情勢は変わった。アメリカの国際収支は、貿易収支黒字の縮小、対外援助・貸付の増加、海外軍事支出の増加、および米企業の海外投資の増加により、赤字に転換、それがしだいに増大し、海外に保有されるドル残高が増大した。その残高の一部は金に兌換され、金準備がしだいに減少し、一方で国際収支の赤字が減少せずドル残高がさらに増大すると、ドルの金兌換能力に疑念がもたれるようになり、「ドル不安」の時代が始まった。1968年末の金準備は約100億ドルにまで減少し、一方外国の保有するドル残高はその3倍にも達した。このドル不安は1960年および1968年のゴールド・ラッシュとなり、市場の金価格が公定価格を上回って急上昇した。
アメリカ政府は、1963年以降、資本取引面の規制を中心としたドル防衛政策を打ち出し、金利平衡税などを導入したが、効果はあまりなく、ベトナム戦争の出費増大も加わって、アメリカの対外ポジションはさらに悪化していった。ドル不安は国際通貨不安を生み、他の主要通貨を巻き込んで、為替市場をしばしば混乱に陥れた。
1971年8月、ニクソン大統領はドルの金兌換停止を発表、ここに、金の裏づけをもつドルによって支えられていたIMF体制は、その支柱を失うこととなった。また、ドルの金兌換停止は、1オンス=35ドルというドルの平価を放棄したことになり、事実上フロート(変動相場制)状態となった。しかし、為替の安定のためには為替相場の固定が必要であるという主張が各国から出され、また、ドルの切下げによってアメリカの国際収支を均衡させることが必要であるとの認識も深まった。かくて、1972年12月にはスミソニアン協定が成立し、同協定に基づいて、ドルの金平価を1オンス=38ドルと約7.9%の切下げを行うとともに、円16.88%、ドイツ・マルク13.5%をはじめとする主要通貨の切上げを行ったが、ドル不安は収まらず、1973年2月にはドルをさらに10%切り下げ、1オンス=42.22ドルとなった。だがこれも長続きせず、海外のドル資産保有者は、ドイツ・マルク、スイス・フラン、円などの強い通貨への転換を急いだため、これらの通貨がドルに対してフロートし始め、同年3月には主要通貨はすべて全面的フロートへ移行するに至り、スミソニアン体制も崩壊した。
[原 信]
変動相場制下のドル
変動相場制下でもドル不安は収束せず、第一次オイル・ショック(石油危機)を経て、インフレが高まり、国際収支の赤字が増大し、1978年秋には、米ドルは主要通貨に対し第二次世界大戦後最低の為替相場を示した。1979年のインフレ率は13.3%という数字を示し、金利も2桁(けた)を超えて上昇するに至った。
1979年10月、連邦準備制度は、インフレ抑制策を強化するため、金融市場操作の目標を金利からマネーサプライ(通貨供給量。すなわち金融機関以外で民間に保有される現金通貨および各種流動性預金の合計)に移し、その成長率を長期的に抑制する方針をとった。それ以後、金利は急変動を示しながら、歴史的高水準にまで上昇したが、一方インフレ率はしだいに低落して5~6%にまで戻り、したがって実質金利はきわめて高い水準を示し、海外からドルへの資金流入を促進した。それに加えて、対外経常収支も改善され、1981~1982年にかけてドル相場は著しく回復し、主要通貨に対し、変動相場制移行時の水準にまで戻った。そして中近東や東欧などの政情不安を背景にドルへの資産選択が高まり、かつてのドル不安とはまったく逆の状態を示した。
レーガン政権のもとでアメリカは財政赤字が増大し、それが金利を高め、ドル高を招き、さらに経常収支の赤字を継続させることになり、「双子の赤字」が生まれた。そしてアメリカ経済は高金利のために第二次世界大戦後最大の不況となり、失業率も2桁に達し、ひいては世界全体に不況が波及した。この状況を改善すべく、アメリカが主唱して開かれた1985年9月の先進5か国の会議の決定(プラザ合意)による各国の為替(かわせ)市場への協調介入を契機として、今度はドル安が急速に進み、ドルの為替相場は不安定となり、とくに円やマルクに対して乱高下した。
このように国際通貨としての米ドルの地位はけっして安定とはいえないが、1990年以降、東西ドイツの統合(1990年)、社会主義圏の崩壊(1991年)、ヨーロッパ通貨統合の進展そして中南米や東アジアのいわゆる新興市場の発展と通貨波乱(1994年メキシコ危機、1997年東アジア危機)などを経て、米ドルは中心的な国際準備通貨、決済通貨としての地位を維持してきた。
すなわちアメリカが当事者である国際取引はもとより、アメリカに関係のない第三国間の取引にも、仕切り通貨、決済通貨および金融通貨として依然として広く利用されている。また為替市場での媒介通貨として他の通貨どうしの取引の媒介役を果たしている。すべての為替取引の約9割は、米ドルがかかわっているという状況は大きく変わっていない。
また各国政府や企業の対外支払準備として米ドルはなお中心的な地位を占めている。ただユーロの出現、および世界経済におけるアメリカの地位の変化などにより米ドルの比率は徐々に減少し、2000年代後半時点では65%程度とみられる。
さらに米ドルは、国際的な価値の尺度として、自国通貨と米ドルの交換比率すなわち為替相場をもっとも重要な相場とし、それを制度的にあるいは実質的に安定させようとする国が多かった。このように自国通貨を米ドルに結び付けようとする国は、1972年米ドルと金の結び付きがなくなって以来少なくとも制度的には大きく減少したが、実質的にはなおかなり残っている。アメリカとの貿易額が多い中東の石油輸出国や中国、そして南米の数国はその例である。したがって、他通貨に対する米ドルの相場は、ユーロや英ポンド、円など主要先進国通貨に対しては、大きく変動するが、アメリカとの貿易額などにより加重平均した実効相場でみると長期的にみれば比較的安定していたといわれる(
)。このような国際通貨としての米ドルの背景には、国際経済上世界がアメリカの経済成長に依存するという状態がなお存続し、その限りでアメリカも通貨発行者の利益によってきた。
しかし事態は動いている。同国の経常収支は1980年代なかばからおおむね継続的に赤字を拡大、1990年代初めに一時均衡したあと、よりいっそう大きくなり、2000年代後半は国内総生産(GDP)の5~6%に達し、当面大きく改善する可能性は少ない。そのため世界全体の経常赤字の大部分をアメリカが占めている現状である。そしてその赤字は外国の保有する米ドル建て公社債や預金でまかなわれている。アメリカの対外純債務残高は2006年末で2兆5396億ドル、2007年末は約3兆ドルに達し、GDPの20%を超え、世界最大の債務国である。このような状況にかかわらず他の諸国が米ドルを保有し、その赤字をまかなっている(
)。もとよりこのような状態がいつまでも続くとは思われず、いずれ米ドルの大幅下落が起こるという予想がなされ、事実、経常赤字が急増し始めた2002年なかばから前記実効相場で米ドルは下落基調となった。しかし為替市場では大量の浮動的な短期資金が景気予想、金利そして内外政治動向などを材料として、短期的な差益を求めて投機的に動き、少なくも米ドルに関する限り赤字=相場下落という単純な予想はつねに裏切られた。前記の下落も赤字はその一因にすぎなかった。すなわち赤字と「強い米ドル」が両立し得たのである。
[原 信]
金融危機と米ドル
2007年8月アメリカで起こったサブプライムローン問題は世界の金融市場に巨大な影響をもたらし、未曾有(みぞう)の金融危機となり、金融界のみならず実体経済にも深刻な影響を及ぼしつつある。2008年9月アメリカ投資銀行の大手リーマン・ブラザーズが破綻(はたん)、事態は急激に悪化し、世界中の株価が大きく下落して企業や投資家の資産価値を下げた。そうでなくとも停滞ぎみであった経済景況の見通しがさらに悲観的となり、かつての世界恐慌の再来が懸念される状況となった。
その元凶は、アメリカの巨大投資銀行、その周辺の金融機関、ヘッジファンドや投機的投資家による世界大のマネーゲームである。金融市場の世界的同質化(グローバリゼーション)の波に乗って、本来内容不透明なドル建て証券や、デリバティブといわれる派生的金融商品がアメリカのみならずヨーロッパやアジアの金融機関や投資家にばらまかれ、それが不良資産となって、先進国だけでなく新興国でも破綻の懸念のある金融機関が増えた。各国政府は国際協調をベースとして、資本注入や不良資産買取り、IMFの援助要請などにより金融システムの崩壊を防ごうと努力している。
このような危機のなかで、国際通貨としての米ドルはどのような状況にあるのか。もとよりアメリカの金融体制が動乱の中心にあり、またアメリカ全体が巨額の対外債務を負っている。かつ国内の景況も悲観的な見方が増えている現状では、当然海外で米ドル建て金融資産をもつものは政府、民間を問わず、それを他のより安全な通貨、たとえばユーロ建て資産に切り替えるだろうし、それによって米ドル相場は大きく下落することになる。事実2007年夏以降、米ドルの実効相場は下落の道をたどった。
2008年4月にはユーロに対し最安値となった。しかしヨーロッパやアジアでも事態は深刻になっているということで、ユーロのほかヨーロッパやアジアの通貨が米ドルに対して下落し、米ドル実効相場は上昇に転じた。すなわち、アメリカの危機とはいえ、まだアメリカへの本格的な取付けは起こっていない。それは国際的な政府や中央銀行間の協調が進められていることにもよるが、今回の危機は単なる米ドルだけの危機ではないことを示している。
かつての世界恐慌に伴う金融危機のなかで、中心的国際通貨であった英ポンドは、その地位を米ドルに明け渡した。第二次世界大戦後の米ドルを基礎としたブレトン・ウッズ体制はニクソン・ショックで崩壊したが、それ以後、米ドルにかわる強力な通貨が存在せず、現在まで金との交換性のないまま米ドル本位制ともいうべき状態が続いている。米ドルへの信頼は下落の道をたどってはいるが、体制の本質は変わっていない。アメリカだけでなく、他の主要国の協力を得て危機を乗り切ることが必要である。金融の危機を最終的に救う「最後の貸し手」は当然アメリカの政府当局や連邦準備制度であり、現に金融安定法により事態収拾の努力はしているがその影響力は限界があるからだ。
いまや米ドル本位制という不安定な仕組みを改める時期と思われる。ユーロがすこしずつ米ドルの役割を補うとしても、市場の不安定は容易には収まらないだろう。
IMFを含めた主要国の協調で、なんとか主要通貨間の相場安定を図るか、あるいは主要通貨で構成する通貨バスケット(SDR=IMFの特別引出権はその一例)をつくり、各国通貨とそのバスケットとの関係を安定させるのが究極の形と考えたい。
[原 信]
『R・F・ハロッド著、東京銀行調査部訳『ドル』(1955・実業之日本社)』▽『R・トリフィン著、小島清・村野孝訳『金とドルの危機』(1961・頸草書房)』▽『塩谷安夫著『アメリカ・ドルの歴史』(1975・学文社)』▽『山本栄治著『国際通貨システム』(1997・岩波書店)』