改訂新版 世界大百科事典 「スリースウィー問題」の意味・わかりやすい解説
スリースウィー問題 (スリースウィーもんだい)
〈シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題〉のデンマーク史の観点にたつ呼称。19世紀のナショナリズムの高揚のもとで対峙するデンマーク・ドイツ間の,デンマークの公爵領スリースウィーSlesvig(ドイツ語でシュレスウィヒSchleswig)の帰属をめぐる係争で,ドイツのシュレスウィヒ・ホルシュタイン主義Slesvigholsteinismeとデンマーク自由主義者のアイダー主義Ejderpolitikの双方の要求がまっこうから対立した。前者はデンマーク王を公爵としてドイツ連邦に加盟していたホルシュタイン公爵領とスリースウィーとを合一しドイツ連邦に加盟しようとする〈分離主義〉であり,後者はデンマーク王国とスリースウィーの合一による国民国家の建設,ドイツ領土であるべきホルシュタインの切離しを企てた。スリースウィーは元来デンマークの民族地域であったが,南からドイツ化が時の流れとともに進行し,19世紀中葉までには南部地方と主要都市がドイツ語日常語地域と化した。33万人の人口中18万5000人がデンマーク語を日常語としていたが,さらなるドイツ化を防ぐべくデンマーク語住民と王国の自由主義者とが提携した。一方で住民の4分の3がドイツ人となる〈シュレスウィヒ・ホルシュタイン両公国〉の一体視の思想は,ドイツ統一運動の一環に組み込まれていたため,国家再編成をめざす両民族の衝突は避けられなかった。1848年3月,デンマークでは自由主義者の政権が誕生し,それに抗してシュレスウィヒ・ホルシュタイン主義者がキール臨時政府を樹立しドイツ連邦の援助をあおいだため,デンマーク,プロイセン軍が出兵し,第1次スリースウィー戦争(1848-50)に突入した。戦前の状態の維持がデンマークの勝利の代償であり,結果的に第2次スリースウィー戦争(1863-64)を招来し,デュベルDybbølの戦で決定的敗北を喫したデンマークは,スリースウィー,ホルシュタイン,ラウエンブルクの3公爵領を失った。56年後の1920年スリースウィーの北部地方が住民投票を経て祖国に復帰した。
→シュレスウィヒ・ホルシュタイン
執筆者:村井 誠人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報