翻訳|nationalism
ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家(ネーション・ステート)とよばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目ざす思想原理・政策ないし運動の総称。
[田中 浩]
ある民族ないし複数の民族による国家形成のあり方・維持・発展・強化の方法は、国により時代により異なるので、ひと口にナショナリズムといっても、その思想原理や政策・運動の表現形態は多種多様である。そもそも英語のナショナリズムという語が日本語で国民主義、国家主義、民族主義などとさまざまに訳され、使い分けられているのはそのためである。
(1)国民主義という場合のナショナリズムは、民主的な政治・経済制度を構築することによって、国家の構成メンバーである個々の国民の人権や自由を尊重しつつ、近代的な統一国家を維持・発展させようとする思想原理や運動をさす。この種の国民主義は、17世紀のイギリス市民革命期、18世紀のアメリカ独立戦争期、フランス革命期に新興の市民階級が封建的な絶対君主とその支持勢力である貴族階級や大地主階級を打倒して近代国家を形成した際に登場した。そのため、この国民主義は自由国民主義ともよばれる。
(2)イギリス、アメリカ、フランスなどの先進諸国よりも1~2世紀近く遅れて近代国家の形成に着手したドイツ、日本のような後進諸国は、先進諸国に追い付け追い越せという形で強大な国家建設を目ざして富国強兵策をとった。したがって、そこでは国家的利益(ナショナル・インタレスト)が個人利益(人権・自由)よりも絶対的に優位するという国家・政治思想や政策が、国家権力によって国民教化の手段として用いられた。そして、こうした思想原理や政策は、日本では国家主義あるいは片仮名のナショナリズムと表現されているが、英語圏の国々では、国民主義をあらわすナショナリズムと国家主義をあらわすナショナリズムとを区別するためにわざわざ後者の場合のナショナリズム=国家主義をステイティズムstatismとよぶことがある。
ところで、国家主義をとる国々のなかには、当然に自民族の優越性を高唱し、他民族や他国民を劣等視し、さらには、劣等諸民族を文明化し善導すると称して実際には彼らを抑圧したり支配下に置こうとする侵略主義的・軍国主義的思想や行動を正当化する国家も出てくる(日本の「八紘一宇(八紘為宇)(はっこういちう)」やドイツの「ゲルマン民族の優越性」など)。この場合には、これらの極端な国家主義的な国々の政治思想や行動は、超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)とよばれた。
(3)19世紀後半に入って先進資本主義国が経済上の利益確保を至上のものとして対外的膨張策を図り、アジア・アフリカなどの後進諸地域を支配・抑圧すると、被支配諸民族がそうした不当な支配から自己を解放し、自民族や自国の独立を主張する民族主義的(ナショナリスティック)な思想や運動が現れた。そして、これらのナショナリズムは民族解放主義・民族自決主義とよばれる。
このように、ナショナリズムという語のもつ意味内容はきわめて多様であるが、これを民主主義の発展という観点から価値付けしてみれば、(1)の国民主義、(3)の民族解放主義や民族自決主義などは「健康なナショナリズム」とよばれる。その意味では、近代国家の形成と文明開化の推進を目ざした明治維新直後から明治啓蒙期(けいもうき)に至る10年間ぐらいの日本も「健康なナショナリズムの時代」であった、ということができよう。そして、(2)の国家主義や超国家主義などは、自国民はもとより、他民族の人権や自由を侵害・抑圧することを正当化したから「悪(あ)しきナショナリズム」の典型といえよう。1889年(明治22)の「明治憲法」制定後から第二次世界大戦までの日本の封建的かつ絶対主義的な政治、とくに1931年(昭和6)の満州事変にはじまる「15年戦争期」の日本の内政・外交政策、ドイツのナチ党支配の時期などは、「悪しきナショナリズムの時代」とよぶことができよう。
[田中 浩]
自由で自立した市民が主体となって近代的かつ民主的な「政治共同体」=国家(ネーション)を設立し、国家のなかで生活することが国家の成員(国民)にとって最善の状態である、という国民主義的ナショナリズムが政治を行う為政者、政治を委託した国民の間で形成されたのは、当然のことながら、この地上に初めて近代国家が形成されてから以後のことである。近代国家・民族国家・国民国家が形成されたとき、イギリス、アメリカ、フランスなどはいうまでもなく、日本、ドイツ、イタリアなどの国々においてすら、人々は初めて、貴族・大名、士農工商などの封建的身分制度の桎梏(しっこく)から解放されて自由・平等な国民(ネーション)・市民となった。これ以後、「国を愛す」「国を誇りに思う」「国を守る」という健全なナショナリズムの精神が人々の間に生まれたのである。また、この際には「他国をも愛する」というインターナショナルな協調精神がセットになっていたことはいうまでもない。では、こうした「健康なナショナリズム」あるいは「国民主義的ナショナリズム」の思想を世界で最初に理論化した思想家はだれか。それは、世界初の市民革命であるピューリタン(清教徒)革命期(1640~1660)に、人間にとっての最高の「価値」(よいもの)は、生命の尊重と保存にあり、そのためには、平和で安全な状態を保障できる政治社会=国家を設立する必要がある、という近代国家論を展開したトマス・ホッブズである。
人間の生命の尊重・保存こそが今日の基本的人権思想の中核思想である。そして、生命の安全を脅かすものは、紛争・内乱・戦争などである。このようにとらえたホッブズは、人と人とが殺し合う悲惨な内乱の続く当時のイギリスの状態をみて、一刻も早く「平和な社会」を確立することが必要である、と考えた。その意味では、彼の主著『リバイアサン』(1651)は、近代において初めて国内・国際問題とナショナリズムの問題とを関連づけて考えることを可能にしたもっとも基本的な政治学の書物である、といえよう。なぜなら、ナショナリズムの思想は、しばしば民族間の対立や宗教問題と結びついて、紛争・内乱・戦争状態を発生させるからである。
[田中 浩]
ホッブズは、当時の内乱の原因を二つあげて、その解決のための処方戔(せん)を書いているが、これは、17世紀だけでなく現代においても有効な、民族・宗教問題をめぐるナショナリスティックな紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナ問題、チェチェン問題、イスラエルとパレスチナの対立問題など)解決の指針になるものと思われる。彼は、当時のイギリスにおける内乱の原因を、一つは、中世以来続いてきた国王と議会との間の世俗権力の覇権をめぐる争いから、もう一つは、これまた16世紀以来、各国で起こってきた国家(君主)と教会との間のすなわち政治と宗教をめぐる争いから起こった、とみている。そして、こうした複雑に入りくんだ権力争いに理論的な解決の指針を与えることはだれにとっても至難のわざであっただろう。どちらかを支持すれば必ずどちらかが反撥(はんぱつ)し反対するであろう。そこで、ホッブズは、どちらの側に立つこともやめて、人間であればだれでもが反対できない原理に立って、この対立・紛争を解決しようとした。そして、この解決方法こそが、ホッブズに近・現代を通底する普遍的な民主主義の原理を確立することを可能にさせたのである。ホッブズは政治を考える基本単位として、自由・平等な人間をもちだしてきた。当時は、君主・議会・教会・ギルドなどが政治を考える単位であったから、ホッブズのような神や身分や各種利益団体をまったく考慮しない政治論はきわめて斬新(ざんしん)なものと思われ、それだけに支配階級や宗教団体などから危険視され嫌悪されたのである。
[田中 浩]
ここでホッブズは、人間にとっての最高価値は生命の保存(自己保存)にあると主張する。そのうえで彼は、人間は国家も政府も法律をもたない「自然状態」にあっては、なにごとについても自分のことは自分で決めることのできる自由をもっているが、その反面、そのような社会では、法律も治安維持機構も存在しないから自分の生命は自分の力で守らざるをえなかった、という。したがって自然状態にあっては、風水害や冷害・地震などにより食料危機が発生すると、人々は生きるために他の家族集団や集落を襲い、そこに戦争状態が生ずるが、ホッブズは、これを有名な「万人の万人に対する闘争状態」というフレーズでよんでいる。このように自然状態は人間にとって自由な社会であるが、他方で闘争状態が発生する危険性が絶えず存在するので、人間は生まれながらにもっている「生きるための権利」(これは今日の基本的人権のことであり、ホッブズは自然権とよんでいる)をよりよく守ることのできる「理性の教え」を19あげ、これらを自然法とよび、この教えに従うことを人々に命じている。そして、この自然法は、人間に平和を確保するために全力をあげよと命じ、そのためには自然権の一部を放棄(具体的には、自分で自分の生命を守ることをやめる。つまり武器を捨てるということ。国際連合の究極的目標はこの点にある)して平和な社会をつくる契約を結べと命じている。また、こうしてつくられた社会は、人々が自発的に形成した集団であるから、一人の人間の力よりもずっとずっと強い力である。すなわち、ホッブズは、この「集団の力」を国王権力や議会権力や教会権力よりも強い「人民の結集した力」と考えていたが、これこそが、今日の「国民主権」、「人民主権」思想のルーツであるといえよう。
続いてホッブズは、契約・同意によって形成した政治集団において、多数決により、代表者(主権者、最高権力者)を選出せよという。そして代表者=主権者が選出されたとき、国家=政治社会が設立された、と述べている。続いてホッブズは、人々は、この代表者=主権者の制定する法律に従って、為政者も、被統治者(一般国民)も正しく安全に平和に生きよ、と述べている。そして、これこそが、今日の現代国家における「法の支配」する政治のあり方である、といえよう。
[田中 浩]
ホッブズによって、国家権力の基礎は人民・国民の意志にあり、「法の支配」によって人権と自由が真に保障される、という現代民主主義国家論の原型がつくられたのである。こうして、人々の間には、自らのつくった政治社会=国家を愛し、これを守るという愛国心が生じる。J・J・ルソーのいう「祖国愛」もこの意味であった。ナショナリズムというと、とかく八紘一宇やドイツ民族の優秀性といった偏狭な国家主義が想起されがちだが、ナショナリズムとは、本来的には、自由で民主主義的な自分たちの国を愛する精神、それは同時に他の国々の国民の生命や自由をも尊重するという精神に力点があることを忘れてはならない。誇るに足る国家を形成し維持・発展させていくことこそが真のナショナリズムの精神といえよう。
[田中 浩]
ホッブズの政治思想のもう一つの重要な功績は、現代社会においてさえもその解決がもっとも困難といわれている、異なった宗教間の対立・抗争をめぐる問題の解決に有効な示唆を与えている点である。21世紀に入ってさえもなおパレスチナとイスラエル両国による「聖地エルサレム」の主権をめぐって激烈な武力衝突がくり返され、この問題の解決のめどは早急には立ちそうにない。ところで、こうした宗教と政治をめぐる問題は17~18世紀のキリスト教世界においても解決困難な問題であった。しかもこの宗教の問題は、絶対主義国家対ローマ・カトリック教会あるいはジュネーブのカルバン主義的プロテスタント本部という形をとって争われたから、宗教紛争はかならずナショナリズム(国王を守るか、対外勢力に屈するか)の問題と無関係ではありえず、宗教闘争が激化すれば国の存立さえも危険になりかねないという状況があった。そのため、近代国家形成期の16~17世紀における各国の思想家たちは、こうした政治と宗教をめぐる問題解決に力を注いだが、結局、この問題に最終的解答を与えたのがホッブズであった。
1640年にイギリスで始まった世界初の市民革命は、19世紀になって別名ピューリタン革命とよばれたように、それは宗教の自由を求めて絶対君主と闘ったピューリタンたちの崇高な革命と称賛された。しかし、この革命によっても、カトリック教徒であれプロテスタントであれ、クェーカー教徒のような少数セクトであれ、だれでもが信仰の自由を保障される、あるいは無神論者であっても罪に問われないといった「宗教の自由」は認められなかった。民主政治の父といわれるJ・ロックですら、カトリック教徒と無神論者は「宗教的寛容」の恩典から排除していた。イギリスで完全な「宗教の自由」が認められるようになったのは、J・S・ミルが『自由論』(1859)で「宗教の自由」を唱えたあたりからである。したがって、キリスト教国家内部において宗教紛争がほぼ収まったのは、19世紀中ごろ以降のことといってよいだろう。しかし、この問題については、ミルよりも2世紀も早くホッブズがその解決策を提示していたのである。ホッブズは、革命期のほとんどの宗教諸派が自宗派の正当性だけを主張して、他宗派の教義を認めないことが紛争を激化させていると考えた。そこで彼は、『リバイアサン』の最終部分で、クリスチャンであれば「イエスはキリスト(救い主)である」ということはだれしも否定しないであろう。ならば、教義や礼拝の仕方の違いはともあれ、「イエスは救い主である」というこの一点だけで和解し、平和な社会を回復したらどうかと提案している。ホッブズはさらに、「平和の到来」を実現するための具体案を次のように述べている。彼によると、イエスはいまはこの世にはいない。とすれば、人間はいかなる基準によって平和を維持することができるのか。ホッブズは、全能の神は、キリストが再臨するまでは、人々が正しく安全にかつ平和に生き延びるために自然法を与え給(たも)うた、と述べている。
これは、結局のところは、現在この地上にある人間にとっての最高の価値は生命の尊重にある、ということを全世界の人々が承認し、それに基づいて平和な社会を保持せよといっていることにほかならないだろう。そして、この考え方は、現代世界における宗教紛争(これは国内における異なる宗教間だけでなく、しばしば国際的な異なる宗教間のいわばナショナリスティックな問題とインターナショナルな問題とが交錯する国際紛争まで含むのだが)の解決策に一つの重要なヒントを与えているように思われる。すなわち、宗教問題に関しては、人類にとっての普遍的価値である自由・平等・平和といった観点を相互に承認し合うなかからその解決策を探れ、ということであろう。
以上、ホッブズの政治思想について述べてきたが、われわれは、彼の政治思想のなかに、「健康なナショナリズム(国民主権)」、「悪しきナショナリズム(国家主義、ステイティズム)」、宗教紛争・民族紛争とナショナリズム・インターナショナリズム(国際主義)といった関係を考察する豊かな思想の宝庫をみつけだすことができよう。そして、ホッブズ以後のロック、ルソー、J・ベンサム、ミル、K・H・マルクス、H・J・ラスキなどの近代民主主義思想は、すべてホッブズの近代政治思想を新しい時代に適応させて発展させたものといえよう。
[田中 浩]
日本は1603年(慶長8)の徳川幕府の成立によって、ようやく中央権力をもつ統一国家の体裁をととのえた。しかし、これは、イギリス、アメリカ、フランスのような近代的な統一国家ではなく、イギリスやフランスでいえば市民革命前の16世紀から18世紀ごろまでの絶対君主による封建的な統一国家に似ているものといえよう。もっとも、日本では政治の中心地江戸に将軍がいて、日本国中には、三百諸侯(大名)が割拠し、将軍支配に従属していたという違いはあったが。したがって、各藩の家臣や領民にとっては、国とは藩を意味したから、そこには明治維新後に日本国全体について考えるといったようなネーション=国民という観念はまだなかった。
ところで、260年余の長い封建制度の下にあった日本人は、明治維新になっても、いまだに権力(徳川幕府にかわった薩長(さっちょう)藩閥政府)を恐れ(長いものには巻かれろ)、西欧人のような自主・独立の精神が欠如していた。そのため、明治政府は新しく獲得した権力を振り回し、国民の多くは政府の不当な命令に従った。福沢諭吉が『学問のすヽめ』(1872~1876)のなかで「日本には唯(ただ)政府ありて未(いま)だ国民あらずと言ふも可なり」と嘆じたのはそのためである。福沢が『文明論之概略』(1875)において、ホッブズ、ルソー流の自立した市民による国家の形成を提唱(文明開化論)したのは、民権論(人権と自由の保障)と国権論(国家の独立を確実なものとして国民の安全を図る)のバランスのとれた「健康なナショナリズム」の精神を学ぶことを明治の人々にアピールしたものといえよう。そして、こうした福沢の精神は、明治10年代から20年代前半にかけては、陸羯南(くがかつなん)や田口卯吉(うきち)のような思想家に受け継がれた。彼らは、明治政府の高官たちのような西欧一辺倒という卑屈な態度には批判的で、西洋のよきものはこれを取り入れ、他方日本のよき伝統はこれを保持するといった「健康なナショナリズム」によって、国民の間に自由と平等を広めることを国民主義(陸)とよび、対外的には商業・貿易を通じて諸外国と協調すべしとする商業共和国論(田口)を唱え、いずれも、日清戦争(1894~1895)後の日本の軍備拡大の傾向を厳しく批判していた。したがって、第二次世界大戦前の近代日本における「健康なナショナリズム」が通用した時代はせいぜいこの時期ごろまでが最盛期であったといえよう。
[田中 浩]
ではなぜ日本は、早々と「悪しきナショナリズム」へと転落していったのか。日本が19世紀後半にようやく近代国家の仲間入りを果たしたころ、欧米列強はすでに資本主義体制を確立し、それを維持・強化するために、アジア・アフリカの後進地域を軍事力と資本力によって侵略・支配・搾取する帝国主義的政策をとり、そのことが日本支配層に強い危機意識を与えた。そのため、日本は、列強の対外侵略を防止する方法として、明治維新後、早くも隣国の朝鮮を支配下に収めようとし、それがのちに日清戦争や日露戦争(1904~1905)へと発展した。そして日本が当時の世界の大国、清国とロシアに勝利し、大正末年ごろまでに英米仏独と並んで世界の五大国の仲間入りを果たすまでになると、日本全体に政府権力側はもとより一般国民の間にまで国家主義(ステイティズム)的傾向が広がった。こうして日本は、20世紀に入って、朝鮮半島(1910年、韓国併合)から中国大陸への侵略を目ざした「満州事変」(1931)を契機に、日中戦争(1937~1945)、太平洋戦争(1941~1945)へと突入していった。この意味では、第二次世界大戦前の日本においては、約80年間のうち、「健康なナショナリズム」の時期は「明治啓蒙期」「自由民権期」「大正デモクラシー期」などのわずか30年間にすぎなかったといってもよいであろう。第二次世界大戦後、日本が「第二の開国」により徹底的な民主改革を断行せざるをえなかったのはこのためであった。
[田中 浩]
ところで、明治20年代以降日本において顕著になった国家主義的ナショナリズムは、日本と同じく遅れて近代国家への道を歩んだ国々、たとえばドイツやイタリアのような国々においても発生した。18世紀末にフランスが大革命によって近代国家を形成したとき、隣国ドイツは、日本の幕藩体制と同じく、300近い領邦国家に分裂していた。このためドイツでもフランスのような統一国家の形成を目ざす運動が起こった。その際、ドイツ統一のリーダーシップをとる国としては、ベルリンに拠点を置くフリードリヒ大王の率いるプロシア王国に期待が寄せられた。プロシアはフランス革命後、近代的改革を図り、ベルリン大学を創立(1810)している。そして、この大学の初代総長となったJ・G・フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』(1808)という書物を出版し、ドイツ人こそが全人類の道徳的改革に貢献できる民族であると述べ、ドイツ人のナショナリズムを喚起しようとしている。次いで2代目総長となったG・W・F・ヘーゲルは、『歴史哲学講義』(1822年より)のなかで、世界史を動かす「世界精神」がギリシア、ローマ、イギリス、フランスを経て、いまやドイツに舞い降りてきたとして、ドイツ民族を鼓舞している。これ以後ドイツにおいては、国家的統一を表すReich(ライヒ=帝国)と、民族的統一を表すVolk(フォルク=民族・国民)が、ドイツ民族の合いことばとなった。しかし、ドイツでは、第二次世界大戦前の日本と同じく、英米仏的な個人を主体とする自由・平等な人間を尊重するという民主主義思想が発展せず、国家利益にのみ重点が置かれたため、第一次世界大戦を引き起こし、敗戦後は、ドイツ民族の再興を強調するナチス・ドイツによって第二次世界大戦が引き起こされた。このときには、日本とイタリアがドイツと同盟を結んで、世界の民主主義国家51か国を相手に戦ったが、これら日独伊3国は、極端な国家主義(超国家主義)、ファシズム国家とよばれた。
[田中 浩]
前述したような、20世紀に入ってとくに顕著になったドイツや日本の国家主義的侵略政策は、資本主義国家が19世紀後半になってその最高段階(金融資本・独占資本)に到達したときに、遅れた国々や地域を武力で収奪し抑圧した英米仏などの帝国主義的植民地政策を真似(まね)したものといえる。他民族や他国民を自国の利益のために武力主義的に征服し抑圧する政策は、ギリシア・ローマの時代から世界の至る所でみられたが、近代資本主義が成立し、国民国家間の政治・経済競争が熾烈(しれつ)になると、侵略主義的帝国主義を正当化する観念があらわれた。とくにヨーロッパの先進資本主義国では、16世紀の中ごろから19世紀末にかけてアジア、アフリカ、中近東、中南米などの地域を植民地化し、それらの行為を「キリスト教による未開人の教化」が「白人の責務」であるという美名のもとに、または「アーリアン人種の優秀性」という民族の観念によって正当化した。このような武断主義的帝国主義的民族主義は、イギリスではブーア戦争(1899~1902)を境に武力抑圧ではなく資本輸出による表面的には平和的な方策に切り換えられていったが、日本やドイツでは、第二次世界大戦が終了するまで、少数民族やイギリス、アメリカ、フランスなどによる植民地を解放するという大義名分のもとに、武断主義的帝国主義を捨て去ることはなかった。
[田中 浩]
民族の独立を唱える運動は、近代全体を通じて民族自決主義として被支配・被抑圧民族の間で主張され各地で民族解放闘争が展開されたが、帝国主義国家の弾圧を受けてなかなか実現しなかった。19世紀中葉から20世紀前半にかけての有名な民族解放運動としては、清―イギリス間の「アヘン戦争」(1940~1942)、イギリス支配に対するインド傭兵(ようへい)の「セポイの反乱」(1857~1859、「インドの大反乱」ともいう)、西欧列強に反対する中国の「太平天国の乱」(1851~1864)、イギリスのエジプト支配に反対した「アラービーの反乱」(1881~1882)、19世紀後半のロシア帝国、ハプスブルク帝国内の民族自決運動、日本帝国主義に反対した中国の「五・四運動」(1919)、同じく朝鮮独立を目ざした「三・一独立運動」(1919)、ガンディーの指導するインドの「スワデーシー」(国産品愛用)・「スワラージ」(自治獲得)反英運動などがある。しかし、民族自決主義は、第一次世界大戦後、わずかに東欧においてポーランド、チェコスロバキアなどの国々を独立させたにすぎなかった。
第二次世界大戦後15年ぐらいの間に、アジア、アフリカ、中近東などの地域においてアジア7か国、アフリカ27か国、中近東3か国に独立国家が誕生した。とくに1960年にはアフリカに17か国の独立国家が一挙に誕生し「アフリカの年」といわれた。そして、21世紀初頭では100か国近い旧植民地の国々が独立し国際連合の場で活躍している。人間解放、民族独立の実現という観点からナショナリズムとインターナショナリズムの問題をとりあげ、全世界の被抑圧民族に大きな影響力を与えたのはマルクス・レーニン主義などの社会主義理論であった。たとえばインドシナ戦争、中国革命、キューバ革命、ベトナム戦争などはマルクス主義の民族解放理論を基礎にしたものであった。しかしこれらの新興独立国家(開発途上国)のなかには、現在においても経済的基礎を十分に確立することができず、そのため政治的に不安定な状況にある国々もある。
[田中 浩]
第二次世界大戦後、米ソ対立の激化のなかで、両陣営に属する先進諸国の開発途上国に対する経済援助競争が起こった。しかし、そのやり方は、途上国の利益を助長するという観点よりも、自国の政治的利益や経済的権益の確保を図るという傾向が強かった。そのため、途上国はアジア・アフリカ会議(第1回、1955年バンドン会議)などに結集して、国家間における主権尊重・平等互恵などを主張し、また国連総会においてアジア・アフリカの43か国が「植民地独立付与宣言」(1960)を提出し採択している。さらに1981年の非同盟諸国会議では、途上国に不利な現在の国際経済機構の変更をねらった「新国際経済秩序(NIEO(ニエオ))確立のための宣言」(ニューデリー・アピール)を採択し、「資源ナショナリズム」を主張している。それにもかかわらず、依然としてこの南北格差の問題は、民族間紛争・宗教的対立問題とともに「ナショナリズム」をめぐる問題の中心テーマである。
[田中 浩]
「冷戦終結宣言」後の1992年に、108か国が参加して第10回非同盟諸国会議が開催された。そこでは、冷戦終結後の経済と開発の問題、とくに南北対話路線、南北協力問題に取り組もうという「ジャカルタ宣言」が採択されている。そして、2000年9月には、「国連ミレニアム・サミット」がニューヨークで開催された。その課題は、平和と安全、環境と人類と多岐にわたるが、焦点は「南」の一部の国々にみられる「貧困と混乱」の救護にどう取り組んでいくか、ということであった。このサミットでは、アナン国連事務総長が「私たち諸国民」と題する報告書を提出しているが、そこでアナンは「豊かさ」から取り残された「南」の人たちの怒りと訴えをみごとに描きだしている。すなわち、彼は開発の推進や貧困の撲滅、民主化による「よき統治」の実現などは、どれ一つとっても国家や政府の力だけでは解決できず、「世界中の人たち」が地球全体で起きている現実に目を向ける必要があると訴えかけているのである。
[田中 浩]
1989年に「冷戦終結宣言」がなされ、21世紀初頭の2001年から、ヨーロッパにおいてはユーロ導入による国民国家の枠を徐々にはずす世界史上初の試みが始まった。しかし、東西対立が終わった後も、それまでの厳しい冷戦構造下に影をひそめていた人種的・民族的紛争や宗教的対立を軸とするナショナリスティックな性格をもつ紛争・対立が、世界中の至る所で頻発している。ところで、民族・宗教をめぐる対立・紛争のタイプとしては次のようなものがある。
(1)民族間の武力抗争(スリランカ、キプロス)
(2)少数民族が政治的独立を要求するもの(東チモール、チベット、チェチェン)
(3)複数国家に分住させられた民族集団が自治を求め統合化を目ざす運動(クルド人、バスク人)
(4)複数のエスニック(少数民族)・グループが混在している地域で支配集団が他集団を強制的に排除しようとする、いわゆる「民族浄化」をめぐる紛争(セルビア人のアルバニア系住民の排除、ルワンダのフツ人、ツチ人の抗争)
(5)宗教的対立と民族的対立がからまった紛争(イスラエルとPLO=パレスチナ解放機構の対立、アイルランドとイングランドの対立)
(6)南北朝鮮、あるいは中国と台湾の関係のような体制の違いをめぐる問題
現代ナショナリズムのかかえる問題はきわめて複雑多岐にわたるが、人命の損傷を伴う危険性のあるこのような現代の紛争の解決は、基本的には国連が中心となって行う。それには、非軍事的手段による政治的強圧や経済的制裁、PKO(国連平和維持活動)による停戦、監視、警察・行政要員の派遣、あるいは軍事的制裁による介入などがある。この軍事介入は、国連安全保障理事会の決議のもとに多国籍軍をつくって介入する(クルド、ソマリア、ボスニア)が、コソボ紛争のユーゴ空爆に際しては、安保理事会ではなく(ロシアと中国が空爆に反対したため)、EU(ヨーロッパ連合)の首脳会議に基づきNATO(北大西洋条約機構)軍が行うということもあった。
[田中 浩]
これまで述べてきたように、ナショナリズムをめぐる問題の解決はきわめてむずかしいが、近代350年間の人類の歩みをみれば、少しずつではあれ解決への道が開けてきているように思われる。そのことは20世紀最後の年のシドニー・オリンピックにみることができよう。かつて、1936年のナチス統治下のベルリン・オリンピックでは、ヒトラーはオリンピックを「民族の祭典」として位置づけ、ドイツ民族の国家主義の意識高揚のための政治的手段として最高度に利用した。それから半世紀以上たった2000年9月のシドニー・オリンピックでは、史上最多の199の国々と地域の選手たち、また独立を目ざしていた東チモール(2002年5月独立)からも個人参加があり、また開会式では南北朝鮮の選手団が同じユニフォームで「統一旗」を掲げて行進し、スタンドを埋めつくした11万人の観衆が総立ちとなって大声援を送った。オーストラリア先住民(アボリジニー)の女子陸上選手キャシー・フリーマンが聖火の最終点火者として起用されるというパフォーマンスもあった。こうした光景は、1975年のベトナム戦争終結ごろまでの東西両陣営対決時代に想像しえたであろうか。
2000年6月には、第二次世界大戦後初めて南北朝鮮の首脳(金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)・金正日(きんしょうにち/キムジョンイル))会談が実現し南北統一問題交渉の進展に大きな一歩を踏み出した。また同年10月には、アメリカと北朝鮮が、朝鮮戦争(1950~1953)以来続いた敵対関係を終わらせる「共同コミュニケ」を発表した。この米朝会談は、21世紀の中国、南北朝鮮、日本、それにアメリカ、ロシアを含む国々の関係改善を大きく前進させることになろう。米朝会談の翌日には金大中が、東アジア全体の平和と韓・朝両国と日本との和解に貢献したことで「ノーベル平和賞」を授与された。2002年9月には、日本の首相小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談が行われた。なお2000年7月以降、アメリカ大統領クリントンが「エルサレム聖地問題」の解決を目ざしてPLO議長アラファトとイスラエル首相バラクとの会談を設定し、10月にもエジプトで「緊急中東首脳会議」を開いて仲介の労をとったが決着をみなかった。しかし、こうした努力が続く限り、いつの日か解決のめどがたつであろう。民族と宗教をめぐる問題や体制イデオロギーをめぐる問題は、その違いを主張し合っているばかりではけっして解決しない。この点に関しては、かつてホッブズが教えたように、人間の生命の尊重というただ一点において、「世界中の人々」(アナン)が平和への道を模索することによって解決の道が開かれていくであろう。
[田中 浩]
『E・H・カー著、大窪愿二訳『ナショナリズムの発展』(1952・みすず書房)』▽『橋川文三著『ナショナリズム』(1978・紀伊國屋書店)』▽『E・ウィリアムズ著、田中浩訳『帝国主義と知識人』(1999・岩波書店)』▽『田中浩著『20世紀という時代』(2000・NHK放送出版協会)』▽『田中浩編『ナショナリズムとデモクラシー――現代世界 その思想と歴史2』(2010・未来社)』
かつては,民族主義,国民主義,国家主義などと訳し分けられることが多かったが,最近では一般にナショナリズムと表記される。このことは,ナショナリズムという言葉の多義性を反映し,そしてその多義性は,それぞれのネーションnationや,そのナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。あえて一般的な定義をすれば,自己の独立,統一,発展をめざすネーションの思想と行動を指す。こうしたナショナリズムは,政治的であるだけにとどまらないが,政治的であることなしには成り立たない。
政治的ナショナリズムが国内政治や国際政治の重要な原動力となるのは近代以降だが,その主体であるネーションはそれ以前から,主として文化的共同体として存在した。この文化的民族と,政治的民族つまり民族国家との関係は,それ自体が政治的所産であって複雑だが,大別して三つの型がある。第1は政治・経済的先発先進国の場合で,イギリスがその代表例である。ここでは絶対王政を軸とした主権国家形成が先行し,それから文化的民族統一がなされた。英語のnationは国家と同意義であり,現実には国家は帝国を意味していた。第2の型は政治・経済的後発先進国で,ドイツ,イタリアなどがその例である。ここでは文化的民族の形成統一が先行し,それが統一国家形成を追求する主体となった。ここに,第1の型を追い上げる運動としてのナショナリズムが生まれる。その意味ではナショナリズムは後発国のイデオロギーであるといってよい。この点がいっそう明確なのは第3の型で,上述の第1と第2の型が近代史で帝国を形成したのに対し,近代において植民地化された社会がそれに当たる。この場合には,植民地帝国によって刻印された非主権的な統治機構が先行し,それに抵抗して文化的民族の形成や復権が主張されることになった。この場合,上からの統治機構の設定が先行し,政治の単位と文化の単位が一致しないという点で,第1と第3の型には共通性がある。ただ第1の場合には土着の支配的民族が国家形成を推進して統治機構を支えたのに対して,第3の場合には統治の枠組みは外来のものである。したがって,この枠組みに対して国境が画定された新興独立国家には,その国家に対応する土着民族が必ずしも存在せず,国家独立後,誰が支配的民族となるかをめぐって伝統的文化共同体ethnic groupsや部族間の激しい対立・闘争が展開され,〈民族なき国家〉の様相を呈することが少なくない。とくにアフリカおよびアジアの一部にこの傾向が著しい。このように,国家と民族との関係は,政治・経済的発展の格差と深く結びついている。
一般に,ナショナリズムは後発社会が先発国を追い上げる際の思想や行動であるが,相対的後発国がその追上げの過程で,より後発の社会を支配することが多く,この場合ナショナリズムが同時に帝国主義の性格を帯びる。日本の〈東亜新秩序〉樹立,ナチス・ドイツのヨーロッパ〈新秩序Neue Ordnung〉樹立の主張などはその例であり,東欧圏支配の秩序を正当化するソ連のブレジネフ・ドクトリン(1968)もこれに類する。しかし〈民族自決〉〈民族解放〉を掲げるそれら後発帝国は,不可避的に被抑圧民族の抵抗を触発せざるをえない。
ではなぜナショナリズムは,近代以降の世界史で,それほどまで強力な動因となったのだろうか。この過程はきわめて複雑であるが,あえて単純化すれば,そこには次のような力学の展開が認められる。
近代の歴史は一面において,社会内および社会間でのモノ,ヒト,情報の流動性が増大していく過程であった。それはミクロのレベルでの村落から都市への出稼ぎや離農から,マクロのレベルでの大航海時代をはじめとする大陸間の人口移動にまで及ぶ。この結果,必然的に経済的市場の単位が拡大し,ヒトと情報の流動範囲も拡大し,したがって政治的な統治と統合の単位も,それまでの領主支配の単位より拡大することになった。政治的統合の単位の拡大は,外在的および内在的な二つの理由で政治と土着文化との結合を強化する。一つには,政治単位の拡大は当然に他の政治単位との接触・摩擦を増大するから,そこに新たな国境の画定,領土国家territorial stateとしての正当な支配の単位の確立が必要になる。その際,それの正当性の基礎を提供するのが,土着的文化を共有する民族が国家の中核を構成するという事実である。
もう一つは,内在的な理由である。つまり政治・経済の基礎単位の拡大とは,伝統的な政治・経済の基礎単位をなしていた村落共同体が,人間の基本的な社会的帰属単位としてもっていた機能の衰退や崩壊をもたらす。その結果,社会の基底部分で,民衆が可視的な忠誠の対象を失って社会的に根なし草状況を生じ,心理的な根深い不安に陥る。伝統的人間関係の崩壊に伴い,社会的な役割や存在理由のイメージが失われることになる。まさにそうであればこそ,新しい忠誠の体系,新しい役割のイメージの創出が切実に要求され,そうした要求を満たす政治的な座標軸として〈民族国家〉が強い社会的支持と帰属感の対象となる。この場合,新しい大きな単位は,村落共同体的な具体的な人的結合体ではなく抽象的共同体であるから,それだけにいっそう,〈民族国家〉の正当性の基礎として,伝統的民族文化の継承あるいは復活という神話が用いられる。ナショナリズムが,〈近代化〉と〈復古・復興〉という2面を同時に内包することが多い理由はここにある。これは,民族のアイデンティティの保持と政治・経済的変革とを両立させる深層心理的転轍(てんてつ)装置であるといってよい。
それにしても,こうした転換は,伝統社会の混乱や崩壊を伴うだけに容易ではない。そこで,この転換を容易にするための上からの政治的転轍装置として登場するのが,新しい国家を具体的な人格に体現するカリスマ的政治指導者である。16~17世紀のヨーロッパにおける絶対君主,また中国の孫文,毛沢東,インドのガンディー,ネルー,インドネシアのスカルノ,キューバのカストロなど,その国の代名詞的存在として扱われる〈建国の父〉がそれに当たる。これによって新しい国家に対する被支配者の同一化identificationが促進され,〈国民〉が形成されていく。
ところでこうした国家(目標としての,あるいはすでに存在する)への同一化は,一般的にいって,民族の独立,統一,発展による国家形成を利益とする社会階層にとくに強く,そうでない階層の場合には同一化が弱いか,疎外感をもつことが多い。その意味で,ある歴史的時点でのある社会で,ナショナリズムの主たる担い手になる層は限られており,その意味でナショナリズムの成立範囲には限界がある。それには歴史的限界と構造的限界とがある。
歴史的限界についていえば,ヨーロッパで主権国家が成立したとき,それへの同一化の主たる担い手は絶対主義的官僚であった。ついで,とくにフランス革命後,それはブルジョア的市民層を包摂することになり,その後19世紀から20世紀にかけ,ナショナリズムの下限は政治体制の底辺を構成する労働者階級にまで及び,マス・ナショナリズムの時代を迎えた。先進国でナショナリズムが体制全体に貫徹するころ,ナショナリズムのイデオロギーは非欧米社会にも波及し,植民地のエリート層の忠誠は,帝国本国から離れて自民族へと転換されることになった。
第三世界,とくにアジアとアフリカのナショナリズムの展開は複雑多岐であるが,ごく概括的にいえば,まず従来植民地支配に協力してきた伝統的土着エリート層が〈自治〉の要求を出し,やがて植民地支配から疎外されていた伝統的エリート層や中間層が〈独立〉の旗印を掲げ,現地民衆を政治的に動員して一応の政治的独立を達成する。これを第1次ナショナリズムと呼べば,ラテン・アメリカでは19世紀前半から20世紀初めまでの時期に大半の国々が,またアジア,アフリカでは1970年代中ごろまでに大半の国々が,この過程を完了した。ついで,一方で国内での経済的格差の増大,他方で新興国エリート層の先進国への経済的従属の持続と対内的な政治的抑圧の強化という条件の下で,多くの国々で,自国の特権的支配層と,それに連携する外国勢力との双方に対抗する第2次ナショナリズムが,中間層の一部,労働者,農民などを担い手として展開されることになった。この過程は今日も続いている。
要するに,ナショナリズムの下限は,まず先進国で体制の上層から底辺にまで拡大され,ついで先進国から発展途上国に,そして発展途上国内で体制の上層から底辺へと拡大されるという歴史的変化をたどってきている。それは民衆の政治化が世界全体に浸透していく過程であるといってよい。しかし,ナショナリズムには仮にそれが体制の底辺まで開放されている場合でも,構造的限界が伴う。それは,民族国家への一体化や忠誠を拒否する基盤となるような,対抗座標軸の存在を指す。
その第1は,個人の良心と国家への忠誠との相克で,その端的な例は,パンイズムpan-ismであり,それに基づく兵役拒否である。これは,戦争という最も危機的な状況において国家やナショナリズムと厳しく対決する。第2は,自立した個人,あるいは個人の非権力的な連帯という原理に立脚して民族国家への忠誠を拒否するアナーキズムである。第3は,コスモポリタニズムである。アナーキズムが反国家であるのに比し,これは脱国家・脱民族の色彩が濃い。本来は世界大のアナーキズムの性格が強かったが,今日では多国籍企業の行動原理にも含まれている。第4は,家族主義である。これには伝統中国の遺産である大家族主義のような型もあれば,近代的小家族,現代的核家族のような型もある。家族主義は原理的につねに民族国家と対立するわけではないが,民族国家の名の下に家族に人的物的な犠牲が及ぶときに,国家との忠誠の相克を生じる。家族には血族的な要素があるだけに,いったん国家と対立した場合,強力な積極的抵抗か,国家への忠誠の消極的空洞化を示すことが少なくない。なおこのほか,階級と民族国家との相克が強調されたときもあったが,労働者階級へもナショナリズムが開放され,とくに福祉国家が成立するとともに,この相克が,階級の国際連帯という形をとる可能性は激減した。また一民族国家内の少数民族も,多くの場合,それ自身が民族の自決や自治を要求するという点で,ナショナリズムに原理的に対抗するものではない。
ところでナショナリズムの主たる担い手が,時と所により異なるということは,その担い手が誰であるかによって,ナショナリズムの政治的機能は多様であり,正反対でさえあることを物語っている。つまり体制の現状維持を有利とする勢力がナショナリズムの象徴に訴えるとき,それは保守的あるいは反動的ナショナリズムとなり,現状変革の勢力が担い手であるときには,革新的あるいは革命的ナショナリズムになる。ナショナリズムは,伝統的な土着文化と結合し,同時に近代の人間のアイデンティティにかかわる深層心理に根ざすだけに,非合理的・情動的に強く人々の思想と行動を左右する力をもつ。したがって,いかなる政治勢力がナショナリズムの象徴を独占したり操作したりするかは,政治のあり方に決定的な影響をもつことが少なくない。それだけに,ナショナリズムの呪術的な象徴によって,現実に誰のいかなる利益が擁護され,また擁護されていないかを見定めることが国民にとって重要である。現代では,民族国家を超えて,モノ,ヒト,情報が流動し,現代の問題を主権国家がどれだけ解決しうるかが問われているが,まさにそうした流動化状況のゆえに,人々の心理の深層に不安が強まり,民族や国家への回帰指向が復活するという傾向も軽視しえない力をもちうる。その意味で,ナショナリズムの政治的実態を的確に認識する必要は,今日も少しも減っていない。
→愛国心
執筆者:坂本 義和
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(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2008年)
(山口二郎 北海道大学教授 / 2007年)
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国民ないし民族という政治的共同体の価値を至上のものとして重視,尊重,宣伝する意識・運動をさす。近代においてフランス革命国家の意識に始まったが,それに対抗したドイツ,スペイン,ロシアなどでは対抗的な国民意識の高揚が起こった。帝国からの解放,他民族支配からの解放を求める意識・運動としても,オーストリアからの解放を求めたイタリアやイギリスからの解放を求めたアイルランドにみられた。やがて20世紀には欧米帝国主義,植民地主義からの解放を求めるアジア,アフリカ,ラテンアメリカの運動となった。ロシア革命をなしとげた共産主義者たちは世界革命のために反帝国主義のナショナリズムと結びつこうとした。しかし,新しく生まれたソ連は,民族の自決権を尊重する国家連合と称したが,民族的な自立傾向はナショナリズムとして否定的に扱われた。1930年代のナチズムは「国民社会主義」と称したように,ドイツ民族を至上のものとしてユダヤ人の大量抹殺をめざしたウルトラ・ナショナリズムであった。第二次世界大戦後,東欧に拡大した社会主義世界はソ連を盟主としており,これに抵抗する各国内の動きはナショナリズムの現れだと考えられる。社会主義の崩壊の過程で国際主義に代わってナショナリズムが強まった。最も悲劇的・病的な様相をみせたのは,ユーゴスラヴィアの民族浄化政策である。ユダヤ人のナショナリズムとしてのシオニズムがアラブ人を追い立てて民族の故地に自分たちの国家イスラエルを建設することをめざしたために,パレスチナ人との果てしない戦いを招来しているのもナショナリズムの悲劇である。ナショナリズムは歴史上大きな役割を演じ,歴史を左右したといえる。その作用には肯定的なものも否定的なものもあった。
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…この統一問題は,革命を通じて現れてきた社会問題とともにその解決はこの後の政治の大きな課題として残されたのである。【坂井 栄八郎】
[近代と伝統]
48年革命から第三帝国の崩壊にいたるドイツ近・現代史の1世紀は,〈ナショナリズム〉と〈社会主義〉を二つの軸として展開したといっても過言ではない。しかもこれら二つの問題は,ナチズムNationalsozialismusのドイツ征覇に端的に示されているように,相互に深くかかわるものであった。…
※「ナショナリズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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