ナショナリズム(読み)なしょなりずむ(英語表記)nationalism

翻訳|nationalism

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナショナリズム」の意味・わかりやすい解説

ナショナリズム
なしょなりずむ
nationalism

ある民族や複数の民族が、その生活・生存の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家(ネーション・ステート)とよばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目ざす思想原理・政策ないし運動の総称。

[田中 浩]

ナショナリズムの多義性

ある民族ないし複数の民族による国家形成のあり方・維持・発展・強化の方法は、国により時代により異なるので、ひと口にナショナリズムといっても、その思想原理や政策・運動の表現形態は多種多様である。そもそも英語のナショナリズムという語が日本語で国民主義、国家主義、民族主義などとさまざまに訳され、使い分けられているのはそのためである。

(1)国民主義という場合のナショナリズムは、民主的な政治・経済制度を構築することによって、国家の構成メンバーである個々の国民の人権や自由を尊重しつつ、近代的な統一国家を維持・発展させようとする思想原理や運動をさす。この種の国民主義は、17世紀のイギリス市民革命期、18世紀のアメリカ独立戦争期、フランス革命期に新興の市民階級が封建的な絶対君主とその支持勢力である貴族階級や大地主階級を打倒して近代国家を形成した際に登場した。そのため、この国民主義は自由国民主義ともよばれる。

(2)イギリス、アメリカ、フランスなどの先進諸国よりも1~2世紀近く遅れて近代国家の形成に着手したドイツ、日本のような後進諸国は、先進諸国に追い付け追い越せという形で強大な国家建設を目ざして富国強兵策をとった。したがって、そこでは国家的利益(ナショナル・インタレスト)が個人利益(人権・自由)よりも絶対的に優位するという国家・政治思想や政策が、国家権力によって国民教化の手段として用いられた。そして、こうした思想原理や政策は、日本では国家主義あるいは片仮名のナショナリズムと表現されているが、英語圏の国々では、国民主義をあらわすナショナリズムと国家主義をあらわすナショナリズムとを区別するためにわざわざ後者の場合のナショナリズム=国家主義をステイティズムstatismとよぶことがある。

 ところで、国家主義をとる国々のなかには、当然に自民族の優越性を高唱し、他民族や他国民を劣等視し、さらには、劣等諸民族を文明化し善導すると称して実際には彼らを抑圧したり支配下に置こうとする侵略主義的・軍国主義的思想や行動を正当化する国家も出てくる(日本の「八紘一宇(八紘為宇)(はっこういちう)」やドイツの「ゲルマン民族の優越性」など)。この場合には、これらの極端な国家主義的な国々の政治思想や行動は、超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)とよばれた。

(3)19世紀後半に入って先進資本主義国が経済上の利益確保を至上のものとして対外的膨張策を図り、アジア・アフリカなどの後進諸地域を支配・抑圧すると、被支配諸民族がそうした不当な支配から自己を解放し、自民族や自国の独立を主張する民族主義的(ナショナリスティック)な思想や運動が現れた。そして、これらのナショナリズムは民族解放主義・民族自決主義とよばれる。

 このように、ナショナリズムという語のもつ意味内容はきわめて多様であるが、これを民主主義の発展という観点から価値付けしてみれば、(1)の国民主義、(3)の民族解放主義や民族自決主義などは「健康なナショナリズム」とよばれる。その意味では、近代国家の形成と文明開化の推進を目ざした明治維新直後から明治啓蒙期(けいもうき)に至る10年間ぐらいの日本も「健康なナショナリズムの時代」であった、ということができよう。そして、(2)の国家主義や超国家主義などは、自国民はもとより、他民族の人権や自由を侵害・抑圧することを正当化したから「悪(あ)しきナショナリズム」の典型といえよう。1889年(明治22)の「明治憲法」制定後から第二次世界大戦までの日本の封建的かつ絶対主義的な政治、とくに1931年(昭和6)の満州事変にはじまる「15年戦争期」の日本の内政・外交政策、ドイツのナチ党支配の時期などは、「悪しきナショナリズムの時代」とよぶことができよう。

[田中 浩]

ホッブズの理論と国民主義的ナショナリズムの形成

ホッブズの近代国家論

自由で自立した市民が主体となって近代的かつ民主的な「政治共同体」=国家(ネーション)を設立し、国家のなかで生活することが国家の成員(国民)にとって最善の状態である、という国民主義的ナショナリズムが政治を行う為政者、政治を委託した国民の間で形成されたのは、当然のことながら、この地上に初めて近代国家が形成されてから以後のことである。近代国家・民族国家・国民国家が形成されたとき、イギリス、アメリカ、フランスなどはいうまでもなく、日本、ドイツ、イタリアなどの国々においてすら、人々は初めて、貴族・大名、士農工商などの封建的身分制度の桎梏(しっこく)から解放されて自由・平等な国民(ネーション)・市民となった。これ以後、「国を愛す」「国を誇りに思う」「国を守る」という健全なナショナリズムの精神が人々の間に生まれたのである。また、この際には「他国をも愛する」というインターナショナルな協調精神がセットになっていたことはいうまでもない。では、こうした「健康なナショナリズム」あるいは「国民主義的ナショナリズム」の思想を世界で最初に理論化した思想家はだれか。それは、世界初の市民革命であるピューリタン(清教徒)革命期(1640~1660)に、人間にとっての最高の「価値」(よいもの)は、生命の尊重と保存にあり、そのためには、平和で安全な状態を保障できる政治社会=国家を設立する必要がある、という近代国家論を展開したトマス・ホッブズである。

 人間の生命の尊重・保存こそが今日の基本的人権思想の中核思想である。そして、生命の安全を脅かすものは、紛争・内乱・戦争などである。このようにとらえたホッブズは、人と人とが殺し合う悲惨な内乱の続く当時のイギリスの状態をみて、一刻も早く「平和な社会」を確立することが必要である、と考えた。その意味では、彼の主著『リバイアサン』(1651)は、近代において初めて国内・国際問題とナショナリズムの問題とを関連づけて考えることを可能にしたもっとも基本的な政治学の書物である、といえよう。なぜなら、ナショナリズムの思想は、しばしば民族間の対立や宗教問題と結びついて、紛争・内乱・戦争状態を発生させるからである。

[田中 浩]

基本単位としての自由・平等な人間

ホッブズは、当時の内乱の原因を二つあげて、その解決のための処方戔(せん)を書いているが、これは、17世紀だけでなく現代においても有効な、民族・宗教問題をめぐるナショナリスティックな紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナ問題、チェチェン問題、イスラエルパレスチナの対立問題など)解決の指針になるものと思われる。彼は、当時のイギリスにおける内乱の原因を、一つは、中世以来続いてきた国王と議会との間の世俗権力の覇権をめぐる争いから、もう一つは、これまた16世紀以来、各国で起こってきた国家(君主)と教会との間のすなわち政治と宗教をめぐる争いから起こった、とみている。そして、こうした複雑に入りくんだ権力争いに理論的な解決の指針を与えることはだれにとっても至難のわざであっただろう。どちらかを支持すれば必ずどちらかが反撥(はんぱつ)し反対するであろう。そこで、ホッブズは、どちらの側に立つこともやめて、人間であればだれでもが反対できない原理に立って、この対立・紛争を解決しようとした。そして、この解決方法こそが、ホッブズに近・現代を通底する普遍的な民主主義の原理を確立することを可能にさせたのである。ホッブズは政治を考える基本単位として、自由・平等な人間をもちだしてきた。当時は、君主・議会・教会・ギルドなどが政治を考える単位であったから、ホッブズのような神や身分や各種利益団体をまったく考慮しない政治論はきわめて斬新(ざんしん)なものと思われ、それだけに支配階級や宗教団体などから危険視され嫌悪されたのである。

[田中 浩]

「自然権」「自然法」「法の支配」

ここでホッブズは、人間にとっての最高価値は生命の保存(自己保存)にあると主張する。そのうえで彼は、人間は国家も政府も法律をもたない「自然状態」にあっては、なにごとについても自分のことは自分で決めることのできる自由をもっているが、その反面、そのような社会では、法律も治安維持機構も存在しないから自分の生命は自分の力で守らざるをえなかった、という。したがって自然状態にあっては、風水害や冷害・地震などにより食料危機が発生すると、人々は生きるために他の家族集団や集落を襲い、そこに戦争状態が生ずるが、ホッブズは、これを有名な「万人の万人に対する闘争状態」というフレーズでよんでいる。このように自然状態は人間にとって自由な社会であるが、他方で闘争状態が発生する危険性が絶えず存在するので、人間は生まれながらにもっている「生きるための権利」(これは今日の基本的人権のことであり、ホッブズは自然権とよんでいる)をよりよく守ることのできる「理性の教え」を19あげ、これらを自然法とよび、この教えに従うことを人々に命じている。そして、この自然法は、人間に平和を確保するために全力をあげよと命じ、そのためには自然権の一部を放棄(具体的には、自分で自分の生命を守ることをやめる。つまり武器を捨てるということ。国際連合の究極的目標はこの点にある)して平和な社会をつくる契約を結べと命じている。また、こうしてつくられた社会は、人々が自発的に形成した集団であるから、一人の人間の力よりもずっとずっと強い力である。すなわち、ホッブズは、この「集団の力」を国王権力や議会権力や教会権力よりも強い「人民の結集した力」と考えていたが、これこそが、今日の「国民主権」、「人民主権」思想のルーツであるといえよう。

 続いてホッブズは、契約・同意によって形成した政治集団において、多数決により、代表者(主権者、最高権力者)を選出せよという。そして代表者=主権者が選出されたとき、国家=政治社会が設立された、と述べている。続いてホッブズは、人々は、この代表者=主権者の制定する法律に従って、為政者も、被統治者(一般国民)も正しく安全に平和に生きよ、と述べている。そして、これこそが、今日の現代国家における「法の支配」する政治のあり方である、といえよう。

[田中 浩]

ナショナリズムの意味

ホッブズによって、国家権力の基礎は人民・国民の意志にあり、「法の支配」によって人権と自由が真に保障される、という現代民主主義国家論の原型がつくられたのである。こうして、人々の間には、自らのつくった政治社会=国家を愛し、これを守るという愛国心が生じる。J・J・ルソーのいう「祖国愛」もこの意味であった。ナショナリズムというと、とかく八紘一宇やドイツ民族の優秀性といった偏狭な国家主義が想起されがちだが、ナショナリズムとは、本来的には、自由で民主主義的な自分たちの国を愛する精神、それは同時に他の国々の国民の生命や自由をも尊重するという精神に力点があることを忘れてはならない。誇るに足る国家を形成し維持・発展させていくことこそが真のナショナリズムの精神といえよう。

[田中 浩]

宗教と政治をめぐる問題

ホッブズの政治思想のもう一つの重要な功績は、現代社会においてさえもその解決がもっとも困難といわれている、異なった宗教間の対立・抗争をめぐる問題の解決に有効な示唆を与えている点である。21世紀に入ってさえもなおパレスチナとイスラエル両国による「聖地エルサレム」の主権をめぐって激烈な武力衝突がくり返され、この問題の解決のめどは早急には立ちそうにない。ところで、こうした宗教と政治をめぐる問題は17~18世紀のキリスト教世界においても解決困難な問題であった。しかもこの宗教の問題は、絶対主義国家対ローマ・カトリック教会あるいはジュネーブのカルバン主義的プロテスタント本部という形をとって争われたから、宗教紛争はかならずナショナリズム(国王を守るか、対外勢力に屈するか)の問題と無関係ではありえず、宗教闘争が激化すれば国の存立さえも危険になりかねないという状況があった。そのため、近代国家形成期の16~17世紀における各国の思想家たちは、こうした政治と宗教をめぐる問題解決に力を注いだが、結局、この問題に最終的解答を与えたのがホッブズであった。

 1640年にイギリスで始まった世界初の市民革命は、19世紀になって別名ピューリタン革命とよばれたように、それは宗教の自由を求めて絶対君主と闘ったピューリタンたちの崇高な革命と称賛された。しかし、この革命によっても、カトリック教徒であれプロテスタントであれ、クェーカー教徒のような少数セクトであれ、だれでもが信仰の自由を保障される、あるいは無神論者であっても罪に問われないといった「宗教の自由」は認められなかった。民主政治の父といわれるJ・ロックですら、カトリック教徒と無神論者は「宗教的寛容」の恩典から排除していた。イギリスで完全な「宗教の自由」が認められるようになったのは、J・S・ミルが『自由論』(1859)で「宗教の自由」を唱えたあたりからである。したがって、キリスト教国家内部において宗教紛争がほぼ収まったのは、19世紀中ごろ以降のことといってよいだろう。しかし、この問題については、ミルよりも2世紀も早くホッブズがその解決策を提示していたのである。ホッブズは、革命期のほとんどの宗教諸派が自宗派の正当性だけを主張して、他宗派の教義を認めないことが紛争を激化させていると考えた。そこで彼は、『リバイアサン』の最終部分で、クリスチャンであれば「イエスはキリスト(救い主)である」ということはだれしも否定しないであろう。ならば、教義や礼拝の仕方の違いはともあれ、「イエスは救い主である」というこの一点だけで和解し、平和な社会を回復したらどうかと提案している。ホッブズはさらに、「平和の到来」を実現するための具体案を次のように述べている。彼によると、イエスはいまはこの世にはいない。とすれば、人間はいかなる基準によって平和を維持することができるのか。ホッブズは、全能の神は、キリストが再臨するまでは、人々が正しく安全にかつ平和に生き延びるために自然法を与え給(たも)うた、と述べている。

 これは、結局のところは、現在この地上にある人間にとっての最高の価値は生命の尊重にある、ということを全世界の人々が承認し、それに基づいて平和な社会を保持せよといっていることにほかならないだろう。そして、この考え方は、現代世界における宗教紛争(これは国内における異なる宗教間だけでなく、しばしば国際的な異なる宗教間のいわばナショナリスティックな問題とインターナショナルな問題とが交錯する国際紛争まで含むのだが)の解決策に一つの重要なヒントを与えているように思われる。すなわち、宗教問題に関しては、人類にとっての普遍的価値である自由・平等・平和といった観点を相互に承認し合うなかからその解決策を探れ、ということであろう。

 以上、ホッブズの政治思想について述べてきたが、われわれは、彼の政治思想のなかに、「健康なナショナリズム(国民主権)」、「悪しきナショナリズム(国家主義、ステイティズム)」、宗教紛争・民族紛争とナショナリズム・インターナショナリズム(国際主義)といった関係を考察する豊かな思想の宝庫をみつけだすことができよう。そして、ホッブズ以後のロック、ルソー、J・ベンサム、ミル、K・H・マルクス、H・J・ラスキなどの近代民主主義思想は、すべてホッブズの近代政治思想を新しい時代に適応させて発展させたものといえよう。

[田中 浩]

日本における国民主義と国家主義

徳川幕府の成立から明治維新へ

日本は1603年(慶長8)の徳川幕府の成立によって、ようやく中央権力をもつ統一国家の体裁をととのえた。しかし、これは、イギリス、アメリカ、フランスのような近代的な統一国家ではなく、イギリスやフランスでいえば市民革命前の16世紀から18世紀ごろまでの絶対君主による封建的な統一国家に似ているものといえよう。もっとも、日本では政治の中心地江戸に将軍がいて、日本国中には、三百諸侯(大名)が割拠し、将軍支配に従属していたという違いはあったが。したがって、各藩の家臣や領民にとっては、国とは藩を意味したから、そこには明治維新後に日本国全体について考えるといったようなネーション=国民という観念はまだなかった。

 ところで、260年余の長い封建制度の下にあった日本人は、明治維新になっても、いまだに権力(徳川幕府にかわった薩長(さっちょう)藩閥政府)を恐れ(長いものには巻かれろ)、西欧人のような自主・独立の精神が欠如していた。そのため、明治政府は新しく獲得した権力を振り回し、国民の多くは政府の不当な命令に従った。福沢諭吉が『学問のすヽめ』(1872~1876)のなかで「日本には唯(ただ)政府ありて未(いま)だ国民あらずと言ふも可なり」と嘆じたのはそのためである。福沢が『文明論之概略』(1875)において、ホッブズ、ルソー流の自立した市民による国家の形成を提唱(文明開化論)したのは、民権論(人権と自由の保障)と国権論(国家の独立を確実なものとして国民の安全を図る)のバランスのとれた「健康なナショナリズム」の精神を学ぶことを明治の人々にアピールしたものといえよう。そして、こうした福沢の精神は、明治10年代から20年代前半にかけては、陸羯南(くがかつなん)や田口卯吉(うきち)のような思想家に受け継がれた。彼らは、明治政府の高官たちのような西欧一辺倒という卑屈な態度には批判的で、西洋のよきものはこれを取り入れ、他方日本のよき伝統はこれを保持するといった「健康なナショナリズム」によって、国民の間に自由と平等を広めることを国民主義(陸)とよび、対外的には商業・貿易を通じて諸外国と協調すべしとする商業共和国論(田口)を唱え、いずれも、日清戦争(1894~1895)後の日本の軍備拡大の傾向を厳しく批判していた。したがって、第二次世界大戦前の近代日本における「健康なナショナリズム」が通用した時代はせいぜいこの時期ごろまでが最盛期であったといえよう。

[田中 浩]

日本における「悪しきナショナリズム」

ではなぜ日本は、早々と「悪しきナショナリズム」へと転落していったのか。日本が19世紀後半にようやく近代国家の仲間入りを果たしたころ、欧米列強はすでに資本主義体制を確立し、それを維持・強化するために、アジア・アフリカの後進地域を軍事力と資本力によって侵略・支配・搾取する帝国主義的政策をとり、そのことが日本支配層に強い危機意識を与えた。そのため、日本は、列強の対外侵略を防止する方法として、明治維新後、早くも隣国の朝鮮を支配下に収めようとし、それがのちに日清戦争や日露戦争(1904~1905)へと発展した。そして日本が当時の世界の大国、清国とロシアに勝利し、大正末年ごろまでに英米仏独と並んで世界の五大国の仲間入りを果たすまでになると、日本全体に政府権力側はもとより一般国民の間にまで国家主義(ステイティズム)的傾向が広がった。こうして日本は、20世紀に入って、朝鮮半島(1910年、韓国併合)から中国大陸への侵略を目ざした「満州事変」(1931)を契機に、日中戦争(1937~1945)、太平洋戦争(1941~1945)へと突入していった。この意味では、第二次世界大戦前の日本においては、約80年間のうち、「健康なナショナリズム」の時期は「明治啓蒙期」「自由民権期」「大正デモクラシー期」などのわずか30年間にすぎなかったといってもよいであろう。第二次世界大戦後、日本が「第二の開国」により徹底的な民主改革を断行せざるをえなかったのはこのためであった。

[田中 浩]

ドイツにおけるナショナリズム

ところで、明治20年代以降日本において顕著になった国家主義的ナショナリズムは、日本と同じく遅れて近代国家への道を歩んだ国々、たとえばドイツやイタリアのような国々においても発生した。18世紀末にフランスが大革命によって近代国家を形成したとき、隣国ドイツは、日本の幕藩体制と同じく、300近い領邦国家に分裂していた。このためドイツでもフランスのような統一国家の形成を目ざす運動が起こった。その際、ドイツ統一のリーダーシップをとる国としては、ベルリンに拠点を置くフリードリヒ大王の率いるプロシア王国に期待が寄せられた。プロシアはフランス革命後、近代的改革を図り、ベルリン大学を創立(1810)している。そして、この大学の初代総長となったJ・G・フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』(1808)という書物を出版し、ドイツ人こそが全人類の道徳的改革に貢献できる民族であると述べ、ドイツ人のナショナリズムを喚起しようとしている。次いで2代目総長となったG・W・F・ヘーゲルは、『歴史哲学講義』(1822年より)のなかで、世界史を動かす「世界精神」がギリシア、ローマ、イギリス、フランスを経て、いまやドイツに舞い降りてきたとして、ドイツ民族を鼓舞している。これ以後ドイツにおいては、国家的統一を表すReich(ライヒ=帝国)と、民族的統一を表すVolk(フォルク=民族・国民)が、ドイツ民族の合いことばとなった。しかし、ドイツでは、第二次世界大戦前の日本と同じく、英米仏的な個人を主体とする自由・平等な人間を尊重するという民主主義思想が発展せず、国家利益にのみ重点が置かれたため、第一次世界大戦を引き起こし、敗戦後は、ドイツ民族の再興を強調するナチス・ドイツによって第二次世界大戦が引き起こされた。このときには、日本とイタリアがドイツと同盟を結んで、世界の民主主義国家51か国を相手に戦ったが、これら日独伊3国は、極端な国家主義(超国家主義)、ファシズム国家とよばれた。

[田中 浩]

帝国主義による弱小民族の抑圧

前述したような、20世紀に入ってとくに顕著になったドイツや日本の国家主義的侵略政策は、資本主義国家が19世紀後半になってその最高段階(金融資本・独占資本)に到達したときに、遅れた国々や地域を武力で収奪し抑圧した英米仏などの帝国主義的植民地政策を真似(まね)したものといえる。他民族や他国民を自国の利益のために武力主義的に征服し抑圧する政策は、ギリシア・ローマの時代から世界の至る所でみられたが、近代資本主義が成立し、国民国家間の政治・経済競争が熾烈(しれつ)になると、侵略主義的帝国主義を正当化する観念があらわれた。とくにヨーロッパの先進資本主義国では、16世紀の中ごろから19世紀末にかけてアジア、アフリカ、中近東、中南米などの地域を植民地化し、それらの行為を「キリスト教による未開人の教化」が「白人の責務」であるという美名のもとに、または「アーリアン人種の優秀性」という民族の観念によって正当化した。このような武断主義的帝国主義的民族主義は、イギリスではブーア戦争(1899~1902)を境に武力抑圧ではなく資本輸出による表面的には平和的な方策に切り換えられていったが、日本やドイツでは、第二次世界大戦が終了するまで、少数民族やイギリス、アメリカ、フランスなどによる植民地を解放するという大義名分のもとに、武断主義的帝国主義を捨て去ることはなかった。

[田中 浩]

民族解放運動と民族自決主義

民族の独立を唱える運動は、近代全体を通じて民族自決主義として被支配・被抑圧民族の間で主張され各地で民族解放闘争が展開されたが、帝国主義国家の弾圧を受けてなかなか実現しなかった。19世紀中葉から20世紀前半にかけての有名な民族解放運動としては、清―イギリス間の「アヘン戦争」(1940~1942)、イギリス支配に対するインド傭兵(ようへい)の「セポイの反乱」(1857~1859、「インドの大反乱」ともいう)、西欧列強に反対する中国の「太平天国の乱」(1851~1864)、イギリスのエジプト支配に反対した「アラービーの反乱」(1881~1882)、19世紀後半のロシア帝国、ハプスブルク帝国内の民族自決運動、日本帝国主義に反対した中国の「五・四運動」(1919)、同じく朝鮮独立を目ざした「三・一独立運動」(1919)、ガンディーの指導するインドの「スワデーシー」(国産品愛用)・「スワラージ」(自治獲得)反英運動などがある。しかし、民族自決主義は、第一次世界大戦後、わずかに東欧においてポーランド、チェコスロバキアなどの国々を独立させたにすぎなかった。

 第二次世界大戦後15年ぐらいの間に、アジア、アフリカ、中近東などの地域においてアジア7か国、アフリカ27か国、中近東3か国に独立国家が誕生した。とくに1960年にはアフリカに17か国の独立国家が一挙に誕生し「アフリカの年」といわれた。そして、21世紀初頭では100か国近い旧植民地の国々が独立し国際連合の場で活躍している。人間解放、民族独立の実現という観点からナショナリズムとインターナショナリズムの問題をとりあげ、全世界の被抑圧民族に大きな影響力を与えたのはマルクス・レーニン主義などの社会主義理論であった。たとえばインドシナ戦争、中国革命、キューバ革命、ベトナム戦争などはマルクス主義の民族解放理論を基礎にしたものであった。しかしこれらの新興独立国家(開発途上国)のなかには、現在においても経済的基礎を十分に確立することができず、そのため政治的に不安定な状況にある国々もある。

[田中 浩]

開発途上国間の連携の動き

第二次世界大戦後、米ソ対立の激化のなかで、両陣営に属する先進諸国の開発途上国に対する経済援助競争が起こった。しかし、そのやり方は、途上国の利益を助長するという観点よりも、自国の政治的利益や経済的権益の確保を図るという傾向が強かった。そのため、途上国はアジア・アフリカ会議(第1回、1955年バンドン会議)などに結集して、国家間における主権尊重・平等互恵などを主張し、また国連総会においてアジア・アフリカの43か国が「植民地独立付与宣言」(1960)を提出し採択している。さらに1981年の非同盟諸国会議では、途上国に不利な現在の国際経済機構の変更をねらった「新国際経済秩序(NIEO(ニエオ))確立のための宣言」(ニューデリー・アピール)を採択し、「資源ナショナリズム」を主張している。それにもかかわらず、依然としてこの南北格差の問題は、民族間紛争・宗教的対立問題とともに「ナショナリズム」をめぐる問題の中心テーマである。

[田中 浩]

「ナショナリズム」をめぐる課題

南北格差問題

「冷戦終結宣言」後の1992年に、108か国が参加して第10回非同盟諸国会議が開催された。そこでは、冷戦終結後の経済と開発の問題、とくに南北対話路線、南北協力問題に取り組もうという「ジャカルタ宣言」が採択されている。そして、2000年9月には、「国連ミレニアム・サミット」がニューヨークで開催された。その課題は、平和と安全、環境と人類と多岐にわたるが、焦点は「南」の一部の国々にみられる「貧困と混乱」の救護にどう取り組んでいくか、ということであった。このサミットでは、アナン国連事務総長が「私たち諸国民」と題する報告書を提出しているが、そこでアナンは「豊かさ」から取り残された「南」の人たちの怒りと訴えをみごとに描きだしている。すなわち、彼は開発の推進や貧困の撲滅、民主化による「よき統治」の実現などは、どれ一つとっても国家や政府の力だけでは解決できず、「世界中の人たち」が地球全体で起きている現実に目を向ける必要があると訴えかけているのである。

[田中 浩]

民族・宗教紛争問題

1989年に「冷戦終結宣言」がなされ、21世紀初頭の2001年から、ヨーロッパにおいてはユーロ導入による国民国家の枠を徐々にはずす世界史上初の試みが始まった。しかし、東西対立が終わった後も、それまでの厳しい冷戦構造下に影をひそめていた人種的・民族的紛争や宗教的対立を軸とするナショナリスティックな性格をもつ紛争・対立が、世界中の至る所で頻発している。ところで、民族・宗教をめぐる対立・紛争のタイプとしては次のようなものがある。

(1)民族間の武力抗争(スリランカ、キプロス)
(2)少数民族が政治的独立を要求するもの(東チモール、チベット、チェチェン)
(3)複数国家に分住させられた民族集団が自治を求め統合化を目ざす運動(クルド人、バスク人)
(4)複数のエスニック(少数民族)・グループが混在している地域で支配集団が他集団を強制的に排除しようとする、いわゆる「民族浄化」をめぐる紛争(セルビア人のアルバニア系住民の排除、ルワンダのフツ人、ツチ人の抗争)
(5)宗教的対立と民族的対立がからまった紛争(イスラエルとPLO=パレスチナ解放機構の対立、アイルランドとイングランドの対立)
(6)南北朝鮮、あるいは中国と台湾の関係のような体制の違いをめぐる問題
 現代ナショナリズムのかかえる問題はきわめて複雑多岐にわたるが、人命の損傷を伴う危険性のあるこのような現代の紛争の解決は、基本的には国連が中心となって行う。それには、非軍事的手段による政治的強圧や経済的制裁、PKO(国連平和維持活動)による停戦、監視、警察・行政要員の派遣、あるいは軍事的制裁による介入などがある。この軍事介入は、国連安全保障理事会の決議のもとに多国籍軍をつくって介入する(クルド、ソマリア、ボスニア)が、コソボ紛争のユーゴ空爆に際しては、安保理事会ではなく(ロシアと中国が空爆に反対したため)、EU(ヨーロッパ連合)の首脳会議に基づきNATO(北大西洋条約機構)軍が行うということもあった。

[田中 浩]

民族融和への道

これまで述べてきたように、ナショナリズムをめぐる問題の解決はきわめてむずかしいが、近代350年間の人類の歩みをみれば、少しずつではあれ解決への道が開けてきているように思われる。そのことは20世紀最後の年のシドニー・オリンピックにみることができよう。かつて、1936年のナチス統治下のベルリン・オリンピックでは、ヒトラーはオリンピックを「民族の祭典」として位置づけ、ドイツ民族の国家主義の意識高揚のための政治的手段として最高度に利用した。それから半世紀以上たった2000年9月のシドニー・オリンピックでは、史上最多の199の国々と地域の選手たち、また独立を目ざしていた東チモール(2002年5月独立)からも個人参加があり、また開会式では南北朝鮮の選手団が同じユニフォームで「統一旗」を掲げて行進し、スタンドを埋めつくした11万人の観衆が総立ちとなって大声援を送った。オーストラリア先住民(アボリジニー)の女子陸上選手キャシー・フリーマンが聖火の最終点火者として起用されるというパフォーマンスもあった。こうした光景は、1975年のベトナム戦争終結ごろまでの東西両陣営対決時代に想像しえたであろうか。

 2000年6月には、第二次世界大戦後初めて南北朝鮮の首脳(金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)・金正日(きんしょうにち/キムジョンイル))会談が実現し南北統一問題交渉の進展に大きな一歩を踏み出した。また同年10月には、アメリカと北朝鮮が、朝鮮戦争(1950~1953)以来続いた敵対関係を終わらせる「共同コミュニケ」を発表した。この米朝会談は、21世紀の中国、南北朝鮮、日本、それにアメリカ、ロシアを含む国々の関係改善を大きく前進させることになろう。米朝会談の翌日には金大中が、東アジア全体の平和と韓・朝両国と日本との和解に貢献したことで「ノーベル平和賞」を授与された。2002年9月には、日本の首相小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談が行われた。なお2000年7月以降、アメリカ大統領クリントンが「エルサレム聖地問題」の解決を目ざしてPLO議長アラファトとイスラエル首相バラクとの会談を設定し、10月にもエジプトで「緊急中東首脳会議」を開いて仲介の労をとったが決着をみなかった。しかし、こうした努力が続く限り、いつの日か解決のめどがたつであろう。民族と宗教をめぐる問題や体制イデオロギーをめぐる問題は、その違いを主張し合っているばかりではけっして解決しない。この点に関しては、かつてホッブズが教えたように、人間の生命の尊重というただ一点において、「世界中の人々」(アナン)が平和への道を模索することによって解決の道が開かれていくであろう。

[田中 浩]

『E・H・カー著、大窪愿二訳『ナショナリズムの発展』(1952・みすず書房)』『橋川文三著『ナショナリズム』(1978・紀伊國屋書店)』『E・ウィリアムズ著、田中浩訳『帝国主義と知識人』(1999・岩波書店)』『田中浩著『20世紀という時代』(2000・NHK放送出版協会)』『田中浩編『ナショナリズムとデモクラシー――現代世界 その思想と歴史2』(2010・未来社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナショナリズム」の意味・わかりやすい解説

ナショナリズム
nationalism

民族,国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通,民族主義と訳されるが,国民主義,国家主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。ナショナリズムの概念が多義的であるのは,ネーション (民族,国民) が歴史上きわめて多様な形態をたどって生成,発展してきたことに起因している。歴史的な重要概念となったのは 18世紀末以後のことである。アメリカの独立とフランス革命がその端緒となったとされ,南アメリカに浸透し,19世紀にはヨーロッパ全体に広まり,ナショナリズム時代をつくりだし,20世紀に入って,アジア,アフリカで多くのナショナリズム運動が展開された。ナショナリズムはこうした諸国の独立をもたらす解放的イデオロギーではあるが,民族紛争と戦争の拡大をもたらす危険も大きい。

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