ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャハル部」の意味・わかりやすい解説 チャハル(察哈爾)部チャハルぶCh`ahaêrh 中国の明代半ばから民国時代まで,モンゴル東部の一角を占めた部名。 16世紀初めダヤン・ハン (達延汗)の6トゥメン (万戸) の一つとして成立,以後その嫡統に伝えられた。初め現在の内モンゴル自治区シリンゴル (錫林郭勒) 盟の地にあったが,のち同族のアルタン (俺答)の圧迫を受けて興安嶺の東に移動。さらに 1634年リンダン (林丹)が清朝との争いで敗死するに及び一時滅びた。その後,清朝はリンダンの子エルケ・ホンゴル・エジェイによってチャハル部を再興させたが,1674年呉三桂の反乱に乗じエジェイの弟ブルニが乱を企てて失敗。ついに清朝はチャハル部を解体して直轄とし,8旗に編成,大同,宣化辺外に移した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
旺文社世界史事典 三訂版 「チャハル部」の解説 チャハル部チャハルぶChakhar 明代の内モンゴルの部名明代の半ばごろ,元朝の子孫のダヤン=ハンが内モンゴルを統一したとき,チャハル万戸として成立したのが始まり。のち他部に圧迫され,やがて清に支配された。清代には同地方の行政単位の名称となり,中華民国では省名となった。現在,内モンゴル自治区の一部。 出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報 Sponserd by