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呉三桂 ごさんけいWu San-gui; Wu San-kui

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

呉三桂
ごさんけい
Wu San-gui; Wu San-kui

[生]万暦40(1612).遼東?
[没]康煕17(1678).8. 衡州
中国,明末清初の武将。字は月所,長白。明朝の錦州総兵官呉襄の子で,崇禎時代に遼東総兵となり,清朝の南下阻止の任にあった。李自成の軍が北京に迫ると,明は呉襄を提督京営に任じ三桂を平西伯に封じ,山海関に駐留させて北京防衛にあたらせた。李自成軍が北京を陥れると,三桂は敵であった清軍のドルゴン (多爾袞) にくだり,清軍の先導となって北京から李自成を追討した。清朝の中国本土進出は三桂の力によるところが大きいという。投降以後,順治2 (1655) 年には平西王に封じられ,錦州,漢中に軍を駐留して陝西,四川で孫可望李定国らの討伐に従い,同 14年には平西大将軍に任じられて雲南平定を行い,同 16年に雲南に駐留し,桂王をビルマに追討するなど中国全土の平定に活躍した。康煕1 (62) 年には平西親王に封じられるなど朝に優遇されたが,雲南,貴州でその勢力は強大な軍事力を背景に,軍事民政のすべてが三桂の手に帰し,平西藩,呉藩と称される独立王国的存在となった。同様の存在であった広東の平南王尚可喜,福建の靖南王耿継茂とともに「三藩」と称された。三藩の強大な勢力は清朝の脅威となり,同 12年の尚可喜の引退を機会に三桂をも雲南から引退させようとした。清の意図を知った三桂は反乱を起し,三藩の乱が始った。三桂は天下都招討兵馬大元帥周王を称し,雲南,貴州,四川,広西を支配下に入れたが,やがて清軍の反撃にあい,同 17年に衡陽で帝位につき,昭武と建元したものの病死した。三桂の跡は孫の呉世ぱんが襲ったが,同 20年に清軍によって滅ぼされた。

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デジタル大辞泉の解説

ご‐さんけい【呉三桂】

[1612~1678]中国、末・初の武将。遼東(りょうとう)(遼寧省)の人。字(あざな)は長白。明末に遼東総兵として山海関を守ったが、李自成(りじせい)北京を陥れると清に降り、清の中国統一を助け、平西王に封ぜられて雲南に鎮守駐屯した。1673年、清に背いて三藩の乱を起こし、周王と称した。

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百科事典マイペディアの解説

呉三桂【ごさんけい】

中国,明末清初の武将。遼西で明軍を指揮し対清戦に活躍したが,李自成の北京占領を聞き清に帰服。清軍を先導して北京を回復し,のち清の本土征討に活躍。平西王に封ぜられ,親王となる。

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世界大百科事典 第2版の解説

ごさんけい【呉三桂 Wú Sān guì】

1612‐78
中国,明末・清初の武将。父は遼西の錦州総兵呉襄。明末武官となり,寧遠(遼寧省興城県)に拠って清軍を防いでいたが,1644年(崇禎17),李自成の反乱軍が北京を攻略すると,清に降って援助を求め,清軍を導いて山海関を入り,北京を回復した。清が中国の王朝となるのに果たしたその役割は大きく,直ちに平西王に封ぜられた。48年(順治5)陝西省漢中に移鎮し,明の残存勢力の平定に当たり,ビルマ(現ミャンマー)に逃げた明の桂王朱由榔を追撃して62年(康熙1)これを捕らえ,雲南を平定し,この年親王に進封された。

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大辞林 第三版の解説

ごさんけい【呉三桂】

1612~1678) 中国、明末・清初の武将。初め清軍に対立。明が滅ぶと清に降り、清軍を北京に導き平西王に封ぜられ、清の中国統一に功をたてた。のち雲南に駐し、三藩さんぱんの乱を起こして帝位に就いたが、病死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

呉三桂
ごさんけい
(1612―1678)

中国、明(みん)末清(しん)初の武将。江蘇(こうそ)省高郵(こうゆう)の人。字(あざな)は長白、月所。父の呉襄(ごじょう)を継いで遼東(りょうとう)総兵となり、入関前の清と戦った。1644年李自成(りじせい)が北京(ペキン)に迫ると、明朝は呉三桂を平西伯に封じて首都防衛を命じたが、呉三桂は帰途北京陥落を聞くと山海関(さんかいかん)に引き返して清に降(くだ)り、清軍を入関させ李自成を滅ぼした。以後約30年間、呉三桂は平西王として陝西(せんせい)、四川(しせん)の張献忠(ちょうけんちゅう)の残党を鎮圧し、南明(なんみん)王朝を追撃して永暦帝(えいれきてい)(桂王)をビルマ(現ミャンマー)で殺すなど清の全国統一に貢献したが、他方その強大な軍事力、独立財政、雲南・貴州両省を中心とした人材掌握、鉱山・塩井(えんせい)の開発により勢力を伸ばし、清朝の警戒を招いた。
 1673年康煕帝(こうきてい)が撤藩令を出すと呉三桂は雲南に挙兵して周(1673~81)を建て、これに耿精忠(こうせいちゅう)(靖南王)、尚之信(しょうししん)(可喜の子、平南王)が呼応して「三藩(さんぱん)の乱」を起こした。揚子江(ようすこう)南岸に進出した軍勢は初め優位にたったが、清軍は77年から反撃に転じ、呉三桂の部将を招撫(しょうぶ)する一方、湖南と広西の両面から進攻した。78年呉三桂は衡州(こうしゅう)(湖南省衡陽)で帝位につき、昭武と改元したが同年秋病死した。後を継いで洪化と改元した孫の呉世(ごせいはん)も81年末、昆明の陥落とともに自殺した。呉三桂の反乱失敗は農民軍や明の遺王を討った前歴が反清運動との連携を妨げたこと、戦乱に疲弊した農民が秩序回復を望んだことがその原因とされる。[岡本さえ]

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世界大百科事典内の呉三桂の言及

【三藩の乱】より

…中国,清初の反乱。三藩sān fānとは雲南に駐する平西王呉三桂,広東の平南王尚可喜,福建の靖南王耿精忠(祖父,耿仲明,父,耿継茂)をいう。彼らは清に下った明の武将とその子孫で,清の中国平定に力を尽くし,王爵を与えられ,有力な軍団を率いて南中国の諸地に駐し,強大な勢力をふるった。…

【清】より

…20年代に勃発した李自成の反乱は40年代に入っていよいよ勢いを増し,44年(崇禎17)には反乱軍が北京城を占拠し,毅宗崇禎帝が自殺して明朝が滅亡するという事態が発生した。この非常事態に直面して,山海関を固守していた明将呉三桂(ごさんけい)は,李自成討滅のため,みずから山海関を開いてドルゴンの清軍を関内に引き入れたのである。
【入関後】

[全国支配]
 戦わずして関内に入った清軍は,李自成を追って北京に入り,順治帝を瀋陽から迎えて,清朝が明朝をつぐ正統の王朝である旨を宣言した。…

【李自成】より

…このとき明軍の主力は満州族との戦いで山海関にあったので,北京はたちまち陥落し,崇禎帝は自殺した。李自成はここで官制を改め新国家の体制を建てようとしていたが,山海関にいた明将呉三桂は満州軍に投降し,その援助のもとに李自成を打ち破った。李自成は北京をすて西安に逃れたが,のち45年(順治2)通城(湖北省)の山中で地主武装軍に殺された。…

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