日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャーノ」の意味・わかりやすい解説
チャーノ
ちゃーの
Galeazzo Ciano
(1903―1944)
イタリアの政治家、外交官。第一次世界大戦におけるイタリア海軍の英雄でファシスト高官のコスタンツォ・チャーノを父にもつ。青年期にはジャーナリズムに没頭したが、ファシズムの体制化の時期に外務省に入り(1925)、南米諸国やバチカンに勤務し、中国全権公使も経験。ムッソリーニの長女エッダとの結婚(1930)により、若くして体制のもっとも著名な人物の1人となる。中国から帰国すると情報局に入り(1933)、ロンドン経済会議のイタリア代表を経て宣伝省次官に選ばれ、まもなく宣伝相に就任(1935)。ついで外相になり、ムッソリーニの方針に従って、バルカン政策やスペイン内戦への介入を推進し、ベルリン・ローマ枢軸(1936)、日独伊三国同盟(1940)の締結にも尽力した。しかし、1938年のドイツのオーストリア併合以来、ヒトラーに不信を抱くようになり、その点で義父とも意見があわなくなり、第二次世界大戦へのイタリアの参戦には反対であった。軍事情勢の悪化に伴い義父との関係はますます険悪となり、1943年2月チャーノは外相を辞任し、教皇庁駐在大使になった。同年7月24日の最後の大評議会では、グランディの反ムッソリーニ決議案に賛成投票をした。翌1944年1月、ベローナの特別裁判で死刑の判決を受け、ただちに処刑された。戦後出版された彼の『日記』は、現代史の第一級の史料といわれる。
[重岡保郎]