1930年代のドイツとイタリアとの友好関係をさす語。1936年11月、イタリアの首相ムッソリーニがミラノでドイツ、イタリア間の友好を強調して演説し、「今後ヨーロッパの国際関係はドイツ、イタリアを軸axisとして転回するであろう」と述べたことに由来する。両国はともにファシズム体制をとる国でありながらとかく利害が対立していた。しかし1935年のイタリアのエチオピア侵略、ドイツの再軍備宣言、1936年スペイン内戦における両国のフランコ支援などによって急速に接近の方向に進み、1936年7月のオーストリアをめぐる両国の了解(ドイツ・オーストリア7月協定)によって両国の利害の調整がいっそう進展した。同年10月イタリアの外相チャーノがベルリンを訪問、「ヨーロッパ再編に関する秘密議定書」に調印して両国の接近を具体化した。ムッソリーニの演説はこのことを強調したものである。翌1937年イタリアの日独防共協定への加入、1939年のドイツ・イタリア鋼鉄条約を経て1940年(昭和15)日独伊三国同盟が締結され、ドイツ、イタリアに加えて日本も「枢軸国」の仲間入りをし、第二次世界大戦へと向かうに至るのである。
[藤村瞬一]
1936年11月1日,イタリアの独裁者ムッソリーニはミラノで演説して,〈ローマとベルリンとの垂直線は障壁ではなく枢軸である〉と語り,そのときからベルリン・ローマ枢軸という語は,ドイツとイタリアという二つのファシズム国家の提携関係を指すのに広く用いられるようになった。もともとナチス政権出現後も,ドイツとイタリアの関係は,オーストリアの独立保障をめぐって対立していた。しかし1935年10月のイタリアのエチオピア侵略を機に,両国の接近が進んだ。国際的非離の矢面に立たされたイタリアにとって,既存の国際秩序の破壊に踏み切っていたドイツの存在は有利な条件であった。こうしてイタリアは,オーストリア政策をドイツ側に有利に修正し,36年7月スペイン内乱が勃発すると,ドイツとともに反政府側を支持して共同で介入するにいたった。もっともベルリン・ローマ枢軸は,イデオロギーや政治的利害の違いによって,最後まで全面的協力関係には発展しなかった。
→第2次世界大戦
執筆者:平井 友義
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