1936年7月から1939年3月まで、スペインにおいて人民戦線政府に対して軍部・右翼諸勢力が起こし、2年半続いた内戦。
[斉藤 孝]
1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線が右翼の国民戦線に対して勝利を得て、19日、共和主義者が中心となってアサニャを首班とする人民戦線政府が成立した。これは、1931年の第二共和政の成立以来激しくなっていた国内の政治的対立に、ますます拍車をかけるものであった。人民戦線政府は、1934年10月の反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などを課題としたが、大衆は徹底した社会変革を望んでいた。とくにスペインにおいて強力であったアナキスト系の労働者や農民は、人民戦線政府の意向を超えて革命化していた。これに対して、自由主義的な中間層や社会党・共産党の指導下にある労働者などは、人民戦線政府に協力する態度をとっていた。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。
陰謀は、フランコら何人かの将軍を指導者として練られた。1936年7月17日のモロッコにおける駐屯軍の蜂起を機に、翌18日、軍部がスペイン各地で反乱を起こし、フランコはカナリア諸島からクーデターの宣言を放送した。反乱は短期決着をねらったクーデターとして始まったが、労働者の抵抗など人民戦線政府側の反撃にあって、クーデター計画は失敗に帰した。フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。
[斉藤 孝]
軍部の反乱に対して、いち早く対処したのは労働者であった。スペインの二大労働組合であるCNT(労働全国連合、アナキスト系)とUGT(労働総同盟、社会党系)は、武器を労働者に分配することを要求し、マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールJosé Giral(1879―1962)が新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。モロッコでは反乱軍が拠点を築いたが、海軍の大部分が反乱軍に協力しなかったので、モロッコから本土へ軍を輸送することはできなかった。反乱軍の総指揮にあたるはずのサンフルホ将軍は死亡し、他の有力な指導者が逮捕されたりしたために、モロッコで蜂起に成功したフランコ将軍が、反乱軍のなかで指導権を握った。
フランコは、ドイツとイタリアに援助を求め、ドイツとイタリアの飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を拡大し、内戦の長期化とともにこの介入も長期化することになった。ドイツのフランコ側に対する経済援助は約5億4000万マルクと推定され、ドイツがスペインに送った兵力は約1万であった。イタリアは、ドイツの2倍の約68億リラの経済援助を与え、送った兵力は約7万2000であった。また、サラザール独裁下のポルトガルはフランコ側を支持し、国土をドイツ・イタリア軍の通路と軍需品の輸送路として提供した。こうして、本来、軍のクーデターとして始まったものが、短時日のうちに内戦へ、さらに国際的内戦へと拡大した。
[斉藤 孝]
1936年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された地域とに二分されるに至った。ここに至るまでイギリス、フランスの両国政府は、共和国、ナショナリストのどちらの側も援助しないという「不干渉」原則を提唱していた。当時フランスでは、ブルムが人民戦線政府の首相となったばかりであり、ブルムはスペインの共和国側を援助する方針であったが、イギリスの圧力と国内の右翼の脅迫に屈して不干渉政策をとらざるをえなかったのである。
不干渉政策は、ヨーロッパ諸国に受け入れられて、不干渉協定が成立した。この協定は、合法政府としての共和国政府の武器購入の権利を奪うものであり、その意味において共和国側に不利に作用するものであった。しかし、ドイツ、イタリアの武力介入は続けられ、ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2000人程度で、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。
[斉藤 孝]
共和国側ではマドリードはじめ多くの都市で、市民はフランコ側に好意的な分子を逮捕し、また教会を焼き打ちしたりした。貴族や富豪はフランコ軍の占領地域へ逃げた。経営者や地主の逃亡した企業や土地は、人民戦線諸政党の代表によって管理され、宮殿や大邸宅は労働者組織の施設として利用された。
第二共和政の課題であった農地改革は、ここにその実現の機会を迎え、フランコ軍側に走った地主の土地の利用を農民に許した。アラゴン地方では、アナキストによる農業の集産主義化が開始された。集産主義とは、小さい村や共同体を単位とする協同組合に似た組織によって共同作業や消費の配分を営むもので、その規模や形態は一様ではなかった。カタルーニャでは、工場の大部分が労働組合によって収用され、資産家や経営者などは逃亡したり、投獄されたり、あるいは処刑されたりした。
このように共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースLuis Companys(1883―1940)は、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。しかし、アナキストは、政府を無視して独自の社会革命に立ち上がったのである。アナキストの強い地域では、上流階級や教会に属するものへのテロリズムが統制なく行われるなど、反乱軍に対する戦闘にとっては不必要な行動が多かったが、政府はこれを取り締まる力をもたなかった。アナキストの組織であったFAI(イベリア・アナキスト連合)やその傘下の労働組合CNTは、人民戦線協定に参加しておらず、フランコらの反乱に対して、人民戦線政府を擁護するためではなくて、社会革命の好機として反フランコ闘争に立ち上がったのであった。
人民戦線政府を擁護し、共和国の秩序を確立するというたてまえから左翼諸勢力の統一を主張したのは共産党であった。1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。これは、アナキストの性急な革命主義を抑え、アナキストの民兵を吸収して一元的な政府軍に改組するためであった。一方、アナキストの側では、武器を手に入れる手段として入閣したのであった。共産党は、ソ連からの武器を得るチャンネルとなり、内戦開始後その勢力を著しく伸張した。共産党は、ばらばらな民兵組織を正規軍とし、指揮系統を一元化することを主張していた。
[斉藤 孝]
スペイン内戦の特徴は処刑と報復殺人の横行であった。左翼のテロリズムが自然発生的で激情的に行われたのに対して、反乱軍側によるテロは組織的、計画的であり、また大量であった。戦場における死者の数は10万ないし15万とみられるが、処刑または報復殺人は共和国側では約2万、反乱軍側では内戦後の処刑を含めて約30万から40万ほどの処刑または大量殺人があったとみられている。
反乱軍側によって殺されたもののなかには、詩人ガルシア・ロルカがいた。ロルカは共和国側を支持する立場にたっていたのである。哲学者ウナムーノは反乱軍の反知性主義や野蛮な行為を批判したために、反乱軍によって軟禁され、まもなく死んだ。外国の新聞記者も反乱軍の占領地域から追放され、軍によるテロを報道することができなかった。また、人民戦線側とくにアナキストの教会焼き打ちや僧侶(そうりょ)に対する無差別的な殺害は、穏健な民衆を離反させる結果を招いた。
[斉藤 孝]
元来フランコ軍は、大衆運動としての基礎を欠いており、カルロス党やファランヘ党などの在野右翼団体に頼らざるをえないのであった。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。
ファランヘ党の指導者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラは、1936年3月に人民戦線側によって逮捕され、同年11月処刑された。その後、ファランヘ党には別の指導者をたてようとする動きがあったが、フランコは、ファランヘ党やカルロス党を吸収し、自分の支配下の政党を組織しようとして、1937年4月ナショナリスト派すべての党派を合同し、「伝統主義者(カルロス党)とJONSのスペイン・ファランヘ」という新政党を結成した。彼はこの党の党首となった。これは一般に「ファランヘ党」として知られるが、ホセ・アントニオが創立したものとは組織的に異なっていた。ドイツとイタリアは、1936年11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えていた。
[斉藤 孝]
スペイン内戦の特色として、さらに国際義勇兵の活躍があげられる。1936年10月、フランコ軍はマドリード市の郊外に迫り、11月6日、総攻撃を開始した。アーネスト・ヘミングウェイ、アンドレ・マルローやジョージ・オーウェルなどの作家がスペインに赴いたことは有名であるが、そのほかこのころ、イギリス、フランス、アメリカなど多くの国の知識人や労働者、さらにドイツ、イタリアからの亡命者などが、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まり、無名の兵士として銃をとった。彼らは国際旅団に組織され、マドリードの戦場に姿を現した。この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。この義勇兵の数は正確にはわからないが、3万から4万とみられている。
共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転したが、マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。「ノ・パサランNo pasarán(やつらを通すな)」というのが、マドリード市民の合いことばであった。マドリード市の攻防戦が長期化するうちに、戦局はしだいに共和国の敗色が濃くなった。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。
[斉藤 孝]
スペイン内戦は、一面では中央集権に対する地域自治の闘争でもあった。内戦開始後まもなくバスク地方は自治政府をつくり、保守的なカトリック教徒も共和国を支持していた。1937年4月、制空権を掌握したドイツ空軍のコンドル兵団は、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した。画家ピカソはゲルニカ爆撃に憤慨して名作『ゲルニカ』を完成させた。以後バスク地方を制圧したフランコ軍はバスクの自治を奪い、バスク語を禁止した。カトリック教徒も共和国を支持する限り厳しい弾圧にあった。このゲルニカ爆撃とバスク弾圧によって、フランコは国際世論の非難を浴びた。
[斉藤 孝]
内戦中フランコ側がともかく統一を保ちえたのに対して、共和国側は構成要素がしだいに分裂し始めた。スペイン共産党の勢力伸張は、同時に当時のスターリン的な政治指導の誤りをスペインにも持ち込むことになった。ソ連における「粛清」がスペインでも行われ、反フランコ勢力の内部に致命的な分裂を生じた。1937年5月のバルセロナにおける市街戦では、共産党はアナキストおよび反スターリン的マルクス主義者を一掃した。共和国側は、以後政治的危機が続き、カバリェロ内閣にかわったネグリン内閣ももはや大勢を挽回(ばんかい)することはできなかった。1939年1月バルセロナは陥落し、3月マドリードも陥落して、内戦はフランコの勝利に帰した。
[斉藤 孝]
スペイン内戦は、スペインの歴史からみれば、19世紀のカルリスタ戦争に続く、最大規模の内戦であった。王党派や教会・軍部・地主などにとっては、内戦は、第二共和政を打倒し、伝統的スペインを再興するための「十字軍」であった。そしてスペインの資本主義は、このような伝統的勢力に支持されて労働運動を鎮圧することができたのであった。一方、共和派ブルジョアジーにとって第二共和政の課題は、フランス革命をスペインに実現することであった。また社会党やアナキストの労働運動にとっては、ロシア革命の任務を果たすこと、すなわち資本主義社会の打倒が目標であった。この二つの革命の課題が重なり合って提出されていたことは、当時のスペイン社会の構造の複雑さを物語っていたのである。しかも、ファシズム諸国の台頭というヨーロッパの情勢の変化が、スペイン国内の対立を刺激し、またスペイン内部の動きが国際対立を激化させたのである。当時のヨーロッパの国際対立は政治イデオロギー上の対立とも重なっており、スペインはイデオロギーの戦場でもあった。
[斉藤 孝]
『斉藤孝編『スペイン内戦の研究』(1979・中央公論社)』▽『斉藤孝著『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』(中公新書)』▽『ヒュー・トマス著、都築忠七訳『スペイン市民戦争』Ⅲ(1962、63・みすず書房)』▽『G・ジャクソン著、斉藤孝監修・宮下嶺夫訳『図説スペイン内戦』(1986・彩流社)』
人民戦線内閣下の社会秩序の悪化を理由とした,1936年7月の右派軍部クーデタに端を発する。反乱勃発時,共和国軍側は大都市部を掌握,主要な武器,艦船を押えて民兵を組織,国際旅団もこれに参加した。フランコ率いる反乱軍は,不干渉協定を遵守しないイタリアとドイツから軍事支援を受け,戦闘を有利に進め始めた。共和国側は政府中枢をバレンシアへ移し,社会革命の遂行を試みつつ,ソ連の支援を受けて戦闘を続行したが,諸勢力の結合の弱さ,内部分裂に苦しんだ。一方反乱軍は,内戦をカトリック擁護の「聖戦」とするイデオロギー的基盤を創出,兵の反共的士気を鼓舞した。北部戦線での勝利後,反乱軍は地中海をめざし東部へ進軍。38年冬,エブロ川の戦いで共和国軍の敗色は濃厚となった。39年3月ついにマドリードが陥落,4月1日フランコが勝利宣言を出した。最終的に両陣営あわせて死者60万,傷病者150万,亡命者35万を出したともいわれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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