日本大百科全書(ニッポニカ) 「デイトン合意」の意味・わかりやすい解説
デイトン合意
でいとんごうい
The Dayton Agreement
正式名称ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定。1995年11月、アメリカのオハイオ州デイトンの空軍基地に、ユーゴスラビア紛争当事国の代表であるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の幹部会議長イゼトベゴビッチ、クロアチア共和国の大統領トゥジマン、ユーゴスラビア連邦(新ユーゴスラビア)セルビア共和国の大統領ミロシェビッチが参集した。アメリカのクリントン政権の強い圧力のもとで、3週間にわたる交渉の結果、三者がそれぞれ妥協を重ねて合意に達した。これが1995年11月21日に発表されたデイトン合意である。これまで、「統一ボスニア」を一貫して主張してきたムスリム人勢力がボスニアの2分割を実質的に認めたことが大きい。
大部にわたる合意内容の骨子は、(1)ボスニア・ヘルツェゴビナは現在の国境線のまま統一国家として存続、(2)ボスニアは「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(ムスリムとクロアチア人勢力で構成)と「セルビア人共和国」からなる、(3)「ボスニア連邦」は領土の51%、「セルビア人共和国」は領土の49%を管理、(4)「ボスニア連邦」と「セルビア人共和国」は隣国(クロアチアとユーゴスラビア連邦)とそれぞれ独自の政治・経済・文化的交流を行う「特別な関係」を樹立しうる、(5)首都はサライエボで、「ボスニア連邦」が統一管理、(6)NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)を中心とした多国籍の和平実施部隊が停戦監視、(7)9か月以内に自由な選挙を実施、(8)難民・避難民の帰還の保証、などである。このデイトン和平合意は12月14日にパリで正式に調印され発効し、和平合意の付属書4がその後ボスニア憲法となった。
一方、和平合意の民政面での実施を確実にするため、1995年12月8、9の両日、ロンドンで42か国と14の国際機関が参加して、和平実施会議が開催された。この会議で(1)民政面での和平実施を統括する機関として、和平実施評議会を設置、(2)民政面での和平実施の調停役として上級代表を置き、これに元スウェーデン首相ビルトCarl Bildt(1949― )が指名され、事務所がサライエボとブリュッセルに設置された。なお、その後は1997年6月に元スペイン外相ウェステンドルプCarlos Westendorp(1937― )が第2代上級代表、1999年10月にオーストリアの元ユーゴスラビア大使ペトリッチWolfgang Petritsch(1947― )が第3代上級代表に就任している。
軍事面での和平実施部隊と民政面での和平実施評議会を二本柱として、ボスニア和平プロセスが進められたが、一つの国家としてのボスニアの実現は困難を極めている。
なお、上級代表部は2008年6月末をもって撤退する予定であったが、ボスニア情勢が安定しないため、その後も上級代表の任期が延長されている。ペトリッチ以後の上級代表は、イギリスの政治家アシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018。在任期間2002年5月~2006年1月)、ドイツの政治家シュバルツ・シリンクChristian Schwarz-Schilling(1930― 。同2006年1月~2007年7月)、スロバキアの外交官ライチャクMiroslav Lajčák(1963― 。同2007年7月~2009年3月)、オーストリアの外交官インツコValentin Inzko(1949― 。同2009年3月~ )であり、2002年以後、上級代表はEUの上級代表をも兼任している。
[柴 宜弘]