クロアチア(読み)くろあちあ(英語表記)Republic of Croatia 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア
くろあちあ
Republic of Croatia 英語
Republika Hrvatska クロアチア語

ヨーロッパ南東部のバルカン半島に位置する共和国。アドリア海に面する。正式名称はクロアチア共和国クロアチア語ではフルバツカHrvatskaという。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つであったが、1991年6月に独立を宣言した。その後、独立に反発した共和国内のセルビア人とクロアチア人の間で内戦が勃発(ぼっぱつ)したが、1992年には国連の仲介で鎮静化した。1992年5月国連に加盟。面積5万6538平方キロメートル、人口443万7460(2001年センサス)、444万(2006年推計)。首都はザグレブ。地形や気候条件からみて、地中海地方(イストリア半島、ダルマチア海岸地域、アドリア海の諸島)、山岳地方(ディナル・アルプス地域)、パンノニア地方(内陸部のドナウ川、ドラバ川、サバ川流域の肥沃(ひよく)な平原を含む)に三分される。

[漆原和子]

自然・地誌

内陸部は大陸性気候で、パンノニア地方の平原ではトウモロコシ、小麦、テンサイを、丘陵地ではライムギエンバクを産する。ダルマチア地方は地中海性気候で、オリーブ、イチジク、ブドウの栽培が行われ、良質のワインを産する。この地方の石灰岩地域はローマ時代の大理石採掘によって植生破壊が始まり、さらにその後ヤギの放牧によって植生の回復がいっそう遅れたといわれる。背後のディナル・アルプスの峠からアドリア海に向けて、冬季に乾燥した寒風ボラが吹く。アドリア海沿岸のセーニはとくに峠から吹きおりるボラの強風地域として知られている。なお、古代からこの地方に数多く定着していたイヌのダルメシアンの名称は、ダルマチア地方に由来する。

[漆原和子]

歴史

クロアチア人は7世紀中葉、サバ川上流域周辺に定住した。概してフランク王国の強い影響を受け、宗教的にはローマ・カトリックを受け入れた。925年、一首長であったトミスラブTomislav(在位910~928ころ)が「クロアチア王」を宣言し、初の統一国家を建国。以後約200年にわたって中世クロアチア王国が続いた。11世紀後半に王国を統治したクレシミルP.KrešimirⅣ(在位1058~1074)は、クロアチア史上の英雄として知られている。彼はダルマチアをも支配下に置き、その統治期は黄金の時期と称される。しかし、1102年ハンガリーがクロアチアを完全に征服し、クロアチア王国は崩壊した。以後1527年までハンガリーの支配下に置かれた。その後、一時期オスマン帝国の統治を受けるが、1918年までハプスブルク帝国(実質的にはハンガリー)の支配下に置かれた。1809年からわずか4年間、ナポレオンがこの地方を「イリリア諸州」として、緩やかな統治を行った。この時期に強まったクロアチア人としての民族意識は、ハンガリー化に反発するイリリア運動として展開された。1848~1849年の革命時には、イェラチチを指導者とするクロアチア軍がクロアチアの自治権の拡大を求めてハンガリー革命軍と敵対した。1867年、オーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(和協)で、ハプスブルク帝国がオーストリア・ハンガリー帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に再編されると、それを補足する形で、ハンガリーとクロアチア間に「ナゴドバ(協定)」が締結された。これにより、ハンガリー帝国内で、クロアチアは形式的にはハンガリーとの平等が認められたが、実質的にはハンガリーの優越権が保持された。クロアチア人の不満はいっそう強まり、クロアチアの完全な自治を求める動きや、帝国内の南スラブの統一を求める動きがみられた。第一次世界大戦後の1918年、南スラブの統一国家として「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年からユーゴスラビア王国に改称)が成立した。

[柴 宜弘]

ユーゴスラビア内のクロアチア

セルビアの国王が新国家の国王となり、セルビアの政治エリートが国家の中心を占めた「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」において、クロアチアは反セルビアと地方分権を掲げて中央政府に反発した。この「クロアチア問題」が両世界大戦間期ユーゴスラビアの最大の問題となった。1928年、議事録にセルビアで用いられているキリル文字(ロシア文字)を使用するか、クロアチアで用いられているラテン文字を使用するかで王国議会の議論が白熱し、セルビア人議員がクロアチア農民党指導者のラディチを射殺する事件が生じた。この事件を契機として、国王は「クロアチア問題」の終結を目的として、1929年に独裁制を宣言した。しかし、「クロアチア問題」はこれで解決されたわけではなく、クロアチア人の不満は継続した。1930年代後半に至り、国際情勢が緊迫の度を増すなかで、国内の安定化が緊急の課題となり、「クロアチア問題」解決の動きが進められた。1939年、王国政府とクロアチア農民党との間に「スポラズム(協定)」が調印された。この結果、ザグレブを州都とするクロアチア自治州が創設された。自治州はクロアチア固有の領域と考えられるクロアチア、スラボニア、ダルマチアに加えて、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部を含む広大な領域となり、ユーゴスラビア王国の人口の約3分の1にあたる440万人を擁することになった。さらに1941年4月、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国軍がユーゴスラビアに侵攻し、分割・占領した。この過程で、ドイツの傀儡(かいらい)国家である「クロアチア独立国」が建国され、その領域は「クロアチア自治州」の領域にボスニア・ヘルツェゴビナの全土を加えた部分となった。これは中世クロアチア王国最大の版図とほぼ同じ領域であり、多くのクロアチア人の長年の夢が実現したものと考えられた。しかし、「クロアチア独立国」の政権を担ったファシスト集団ウスタシャはヒトラーと同様の人種差別政策を進め、ユダヤ人およびロマ(ジプシー。おもに北インドに由来し、中・東欧に居住する移動型民族)への弾圧だけでなく、異分子とみなすセルビア人への弾圧も行った。ドイツ軍の撤退とともに、「クロアチア独立国」は瓦解(がかい)し、1945年5月にパルチザンによって解放された。

 第二次世界大戦後、1945年11月にユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され、チトーを指導者として、すべての民族の平等に基づく連邦制の社会主義国家が築かれた。クロアチアは、連邦を構成する6共和国の一つとなった。社会主義体制のもとで、クロアチアの不満は解消されたかにみえたが、1960年代に入り、ユーゴスラビアの対外的緊張関係が緩み、国家保安機関が縮小されるなど、自主管理社会主義のもとで自由化政策が推進されると、クロアチアの民族主義的な動きが再燃した。1970年から1971年にかけて、クロアチア共産主義者同盟「改革派」、民族派知識人、学生による「マス・ポク(大衆運動)」と称される大規模なクロアチア共和国の自治要求運動が展開された。これが一般的には「クロアチアの春」とよばれる民族主義運動であり、クロアチア共和国の権利拡大にとどまらず、独立まで要求に掲げた。チトーが積極的に事態の収拾にあたり、クロアチア共産主義者同盟の指導部を入れ替えることによって、この運動は沈静化した。チトーらの連邦指導部は「クロアチアの春」をはじめとする各地の民族主義の動きを教訓として、1974年に新憲法を制定し、チトー、共産主義者同盟、連邦人民軍を絆(きずな)として、6共和国と2自治州が「経済主権」をもつ緩い連邦制をつくり上げた。しかし、1980年代に入ると、経済危機を背景として、ユーゴスラビアを結びつけていた絆が一つずつ消滅していく過程をたどることになった。

[柴 宜弘]

政治―独立と内戦

1990年代に入ると、ユーゴスラビアの解体過程が加速された。1990年春の複数政党制による自由選挙で、トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利を収め、トゥジマンが大統領に就任した。先進共和国のクロアチアはスロベニアとともに独立の方向を打ち出し、1991年6月、クロアチアとスロベニア両共和国が独立宣言を出すに至った。クロアチアでは、これを契機として内戦が生じ、クロアチアの独立に反対する国内のセルビア人60万人が武装して抵抗した。セルビア人勢力とクロアチア共和国軍とが衝突し、これにセルビア人保護を理由として連邦人民軍が介入するに及び、内戦が本格化した。1991年末、国連が仲介し、国連の平和維持活動の一環として国連保護軍が展開されることで一応の停戦が成立。1992年1月に、EC(ヨーロッパ共同体)はクロアチアの独立を承認し、同5月に国連に加盟したが、国内の「セルビア人問題」は未解決のままであった。クロアチアの3分の1の領域が「クライナ・セルビア人共和国」の支配下に置かれていた。トゥジマン政権は国連保護軍に守られた形のセルビア人勢力の対応に手を焼き、ついに軍事的解決の方針を強めた。1995年5月と8月には、アメリカの支持を取りつけ「クライナ・セルビア人共和国」をいっきに軍事制圧し、「セルビア人問題」は圧殺されてしまった。1995年10月の下院選挙では、過半数には及ばなかったもののクロアチア民主同盟が勝利を収めた。1996年10月、トゥジマン大統領が癌(がん)であることが明らかとなったが、その後も執務を続けた。1997年4月、クロアチアの地方選挙が実施され、最後までセルビア人支配が続いていた「クライナ・セルビア人共和国」の東スラボニアでも、クロアチア民主同盟が勝利を収めた。6月の大統領選挙では、トゥジマンが3選された。7月には、東スラボニアの国連暫定統治が終了し、「セルビア人問題」は解決されたことになるが、セルビア人難民の帰還問題はその後も依然として未解決のままである。

 1999年12月、トゥジマンが死去。2000年2月に行われた大統領選では、クロアチア民主同盟の候補を破って、クロアチア国民党のメシッチStjepan(Stipe) Mesić(1934― )が当選。同年1月に行われた下院選では社会自由党、社会民主党が勝利し、野党6党連立により社会民主党党首ラチャンIvica Raćan(1944―2007)を首相とする新政権が発足した。独立以後、政権を掌握してきたクロアチア民主同盟は敗北し、クロアチアは民主化へと向かうことになった。議会は二院制であったが、この選挙後に上院を廃止する憲法改正が下院で可決されて上院は廃止、一院制となった。ラチャン政権は、セルビア系難民のクロアチアへの帰還や旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)との協力に取り組み国際協調路線を図った。しかし失業問題などから国民の不満が募り、2003年11月の議会選挙ではクロアチア民主同盟が定数152議席中66議席を獲得して勝利し政権を奪回した。同年12月、クロアチア民主同盟党首イボ・サナデルIvo Sanader(1953― )率いる内閣が発足した。サナデル政権は前政権の政策を踏襲して国際協調路線へと方向転換した。

 その後、2005年1月、任期満了に伴う大統領選挙では、メシッチが再選された。2007年11月の議会選挙でもクロアチア民主同盟が第一党を維持し、サナデルがふたたび首相となったが、サナデルは2009年6月、贈賄疑惑が浮上し辞任した。後任にはコソルJadranka Kosorが選出され、初めての女性首相となった。メシッチの大統領任期切れに伴う大統領選挙では、社会民主党のヨシポビッチIvo Josipović(1957― )が勝利をおさめ、2010年2月に就任した。大統領のヨシポビッチは、積極的に近隣のセルビアおよびボスニア・ヘルツェゴビナとの関係の修復を進めている。なお、クロアチアは、1992年に欧州安全保障協力機構(OSCE)に、1996年に欧州評議会に、2000年に世界貿易機関(WTO)に加盟した。2003年2月にはEU(ヨーロッパ連合)への加盟申請を行い、2004年6月に正式加盟候補国となり、2013年7月、正式加盟した。また、2009年4月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。

[柴 宜弘]

社会・文化

1991年の旧ユーゴスラビア時代の調査では、民族構成はクロアチア人が75%、セルビア人が12%となっているが、内戦により多くのセルビア人が難民となるなど、大きく変化し、2001年ではクロアチア人が約90%、セルビア人が約5%となった。言語は旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語で、独立後はクロアチア語化が進み、クロアチア語と呼称を変えた。ラテン文字を使用している。クロアチア人はローマ・カトリック教徒、セルビア人はセルビア正教徒である。スポーツ振興も盛んで、とくにサッカー、バスケットボールなどは国民に人気が高い。1998年フランスで開催された第16回サッカーワールドカップでは、初出場ながら第3位と健闘。ザグレブ近郊にザグレブ国際空港Zagreb Airportがあり、ヨーロッパ各都市などと結んでいる。

[漆原和子]

産業

第二次世界大戦前は農牧業がおもな経済の基盤であったが、戦後、工業化が急速に進展した。とくにザグレブは石油化学、家庭電器、工作機械、通信機器、繊維などの工業が盛んであった。そのほか、アドリア海沿岸にはリエカの造船、精油、スプリトの造船、プラスチック工業、シベニクのアルミニウム工業があり、これらの都市は貿易港としても知られていた。天然資源としては、イストリア半島のボーキサイト、パンノニアの油田、天然ガスがある。しかし、内戦により、産業は大きな打撃をうけた。またダルマチア地方には美しく古い町並みを残すザダル、ドゥブロブニク、コルチュラなどがあり、観光地として非常に有名であったが、内戦で一部が破壊された。また、交通が遮断されたため、観光も大きな打撃をうけた。内戦終了後の経済復興は困難をきわめているが、徐々に回復しつつある。経済的には、IMFと協調してマクロ経済の安定に成功する一方で、財政赤字、対外債務が増加しており、緊縮財政と失業対策が求められている。通貨単位はクーナKuna(HRK)。国内総生産(GDP)は2000年に約184億ドル、2004年には約343億ドル(クロアチア政府統計)。世界遺産登録地として、「アドリア海の真珠」と讃えられるドゥブロブニク旧市街、ディオクレティアヌス宮殿などローマ時代の遺跡が残るスプリト史跡、古都トロギール、プリトビツェ湖沼群国立公園などがあり、古い歴史と風光明媚な観光資源に恵まれ、GDPの約2割を占める観光収入は順調に増加している。おもな貿易相手国はイタリアをはじめとする近隣諸国で、主要貿易品目は、輸出では繊維、石油製品、船舶、化学製品、食品など、輸入では石油製品、繊維、食品、電気製品となっている。

[漆原和子]

日本との関係

日本との関係では、独立後、1993年に外交関係を樹立。2008年(平成20)3月にはメシッチ大統領が来日している。日本へのおもな輸出品目はマグロ、ワイン、繊維であり、日本からのおもな輸入品目は自動車、電気機器、二輪車。

[柴 宜弘・編集部]

『スティーブン・クリソルド編著、田中一生、柴宜弘、高田敏明訳『ケンブリッジ版ユーゴスラヴィア史』(1980・恒文社)』『金丸知好著『廃墟からのワールドカップ』(1998・NTT出版)』『宇都宮徹壱著『ディナモ・フットボール――国家権力とロシア・東欧のサッカー』(2002・みすず書房)』『G・カステラン、G・ヴィダン著、千田善、湧口清隆訳『クロアチア』(文庫クセジュ・白水社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』『加藤周一著『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行――社会主義の三つの顔』(岩波新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア
Croatia

正式名称 クロアチア共和国 Republika Hrvatska。
面積 5万6594km2
人口 402万1000(2021推計)。
首都 ザグレブ

ヨーロッパ南東部,バルカン半島の北西部にある共和国。1991年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する 6共和国の一つであった。北はスロベニアハンガリー,東はセルビア,南はボスニア・ヘルツェゴビナに接し,西はアドリア海に臨む。地形は大部分が山地であるが,ドラバ川(ドラウ川),サバ川の流域には肥沃な平野と丘陵が広がっている。住民はおもにクロアチア人で,カトリック教徒が多い。公用語はクロアチア語(→セルボ=クロアチア語),文字はローマ字を用いる。初めは古代ローマの属州パンノニアおよびダルマチアの一部で,6世紀頃からクロアチア人が定住。フランク王国ビザンチン帝国の支配を経て,クロアチア王国を建て,11世紀中頃に全盛期を迎えたが,オーストリアなど支配勢力の交代を経て,1918年ほかの南スラブ人の地方と連合してセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が発足。1929年国名をユーゴスラビア王国と改めた。第2次世界大戦下の 1941~45年には枢軸軍の勢力下で独立国となったが,1945年にクロアチア人民共和国としてユーゴスラビア連邦人民共和国の自治共和国となり,その後 1963年に新憲法によりユーゴスラビア社会主義連邦共和国,クロアチア社会主義共和国と改称した。1991年クロアチア共和国として独立を宣言。これに少数派のセルビア人が反対し,内戦に突入した(→クロアチア紛争)。1994年3月,2度目の停戦協定が結ばれた。産業は農林業がおもで,コムギなどの穀類,ブドウ,オリーブなどを産し,ウシの飼育や,漁業も行なわれる。コタル山地,スラボニア地方などでは林業が盛ん。工業はザグレブを中心に発展。主要都市はザグレブ,スプリットリエカオシエクプーラなど。ドゥブロブニクは観光保養地として知られる。2013年ヨーロッパ連合 EU加盟。(→ユーゴスラビア史

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