日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルー事件」の意味・わかりやすい解説
ペルー事件
ぺるーじけん
1996年12月17日、ペルーの首都リマの日本大使公邸を、ネストール・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が武装襲撃、以降127日間、青木盛久大使や各国の外交官ら多数の人質をとって同公邸を占拠した事件。MRTAはセンデロ・ルミノソとならぶペルーの左翼ゲリラ組織で、1980年代前半に結成。日本や欧米の多国籍企業、銀行、民族系大企業を標的に爆破や企業恐喝、誘拐など、都市部を中心にゲリラ活動を繰り広げたが、1992年に「反テロ法」を制定したフジモリ政権の徹底的なテロ取り締まり強化によって、同年に創設者・最高幹部のビクトル・ポライが逮捕されるなど壊滅的状態となっていた。MRTAは日本大使公邸襲撃の理由として、日本からペルーへのODA(政府開発援助)が貧困層のために役だっていないこと、日本が支援するフジモリ政権の緊縮経済政策によって貧富の差が拡大したことをあげていた。日本大使公邸を占拠したゲリラ側は、ビクトル・ポライや収監中の政治犯数百人の解放や戦争税(身代金)などを要求、ペルー政府もシプリアニ大司教をはじめとする保証人委員会を設置してMRTAとの折衝に当たっていたが交渉は進展せず、フジモリ大統領は武力制圧を決断、1997年4月22日、ペルー特殊部隊が公邸に強行突入しゲリラ14人を全員射殺、人質72人中71人を救出(ペルー人人質1人・特殊部隊2人が死亡)して、この事件は決着した。
[編集部]