日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
トゥパク・アマル革命運動
とぅぱくあまるかくめいうんどう
Movimiento Revolucionario Túpac Amaru スペイン語
略称MRTA。1996年12月17日(現地時間)に日本大使公邸人質事件(「ペルー事件」)を起こしたぺルーのゲリラ組織。事件は翌年4月22日に軍、警察の特殊部隊の強行突入によって解決された。キューバ革命の影響を受けた1960年代のゲリラ闘争を受け継ぐ、1980年代の第二世代の運動である。ぺルーの革命運動は1920年代のアメリカ革命人民同盟(APRA(アプラ))とぺルー社会党に起源をもつが、MRTAはAPRAの民族主義急進派と1968年に始まったベラスコ軍政による社会改革を支えた社会主義グループが合流して1981年に結成された。中心的な指導者はAPRA急進派(MIR)のビクトル・ポライや組合運動指導者で日本大使公邸人質事件の首謀者であるネストル・セルパなどである。下層中間階級と労働者を中核として1982年から武装闘争を開始した。トゥパク・アマルとは、インカ皇帝の末裔(まつえい)で1780年の先住民大反乱の指導者の名前であるが、直接的には1965年のMIRのロバトン指導のゲリラ部隊(トゥパク・アマル部隊)の名に由来する。
一方、ぺルー共産党紅旗派から分かれ、農民を基盤として毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)路線をとるセンデロ・ルミノソ(ぺルー共産党SL派)は、1980年から武装闘争を開始した。MRTAは、SLの世界革命を標榜(ひょうぼう)し無差別テロも辞さない戦術とは一線を画し、また組織的にも幹部が直接軍事作戦に従事するMRTAと、軍事を党の支配下におくSLとは対照的である。だが、SLの陰に隠れて散発的な闘争しか組織しえず、北部・中部の密林地帯(サンマルティン県、フニン県)が活動拠点となっていた。MRTAの名前を一躍有名にしたのは1990年7月リマのカント・グランデ刑務所からのポライをはじめとした47名の大脱走劇である。1992年にポライは再度逮捕され、フジモリ政権による経済回復、治安維持の下でゲリラ闘争は衰退の一途をたどった。日本大使公邸人質事件は組織の再生を賭(か)けたものであった。
[辻 豊治]