ペルー日本大使公邸人質事件(読み)ペルーにほんたいしこうていひとじちじけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ペルー日本大使公邸人質事件
ペルーにほんたいしこうていひとじちじけん

1996年 12月 17日,ペルーリマで天皇誕生日祝賀パーティを開いていた日本大使公邸を左翼ゲリラトゥパク・アマル革命運動」 (Movimiento Revolucionario Tupac Amaru;MRTA) が襲撃し,700人以上もの出席者と大使館関係者を人質にたてこもった事件。 MRTAは獄中の仲間の釈放,戦争税 (身代金) などを要求する一方で,人質を暫時,釈放。最終的には日本大使と大使館職員,ペルー政府高官,日本企業駐在員など 72人が残された。ペルー政府側は「武装グループの海外亡命」を条件として交渉にのぞむ方針を決定し,MRTAとの予備的対話を始めた。日本政府は事件直後に池田外相をペルーに派遣し,97年1月には橋本首相がカナダでフジモリ大統領と会談武力行使自制を求めた。しかし事件は長期化し,予備的対話も決裂。ついにフジモリ大統領は4月 22日,特殊部隊 140人による公邸突入を決行し,MRTAの 14人全員が射殺され,人質1人と特殊部隊員2人が死亡した。パーティ会場での警備体制の不備,事件解決に日本がなんら寄与できなかったことなど,日本の外交・危機管理体制があらためて問われる結果となった。

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知恵蔵 の解説

ペルー日本大使公邸人質事件

ペルーの首都リマで1996年12月17日、日本大使公邸を左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の武装部隊が襲撃し、天皇誕生日祝賀パーティーの出席者約800人を人質に立てこもった。ゲリラは人質解放の条件として、獄中の仲間全員の釈放や革命税(身代金)の支払いなど4項目を要求。やがて人質の大半は解放されたが、ペルー政府高官や青木盛久大使ら日本大使館員、日本企業駐在員ら72人が最後まで残された。事件発生から127日目の97年4月22日、政府軍の特殊部隊140人が公邸に突入、チャビン・デ・ワンタル作戦を展開した。人質のペルー人判事1人と特殊部隊員2人、ゲリラ14人全員の計17人が死亡した。日本人24人を含むその他の人質は無事だった。日本政府は平和解決を主張していたが、突入作戦の結果をみて武力解決支持に転換した。フジモリ大統領(当時)は同年7月に訪日し、日本政府は約400億円の円借款供与を約束した。突入作戦の際に投降したゲリラを殺害したとして特殊部隊員が起訴されたが、軍最高裁は2004年4月、全員の訴追を棄却した。

(伊藤千尋 朝日新聞記者 / 2007年)

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