フランスの哲学者、美術史家。グルノーブル生まれ。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)卒。アメリカのカリフォルニア州立大学サン・ディエゴ分校、ジョンズ・ホプキンズ大学などで教えた後、1978年からパリの社会科学高等研究院の教授を務める。博士論文をもとに1975年に刊行された『言説の批判――「ポール・ロアイヤルの論理学」およびパスカルの「パンセ」に関する研究』La Critique du Discours; sur la “Logique de Port-Royal” et les “Pensées” de Pascalをはじめとし、『絵画を破壊する』Détruire la peinture(1977)、『語りは罠』Le Récit est un Piège(1981)、『声の回復』La Voix Excommuniée(1981)、『食べられる言葉』La Parole Mangée(1986)など著書は数多い。また没後もマランを慕う研究者たちによって、フランスの画家ニコラ・プサンあるいはフィリップ・ド・シャンペーニュに関する論考などが刊行されている。
アウグスティヌス、パスカル、ポール・ロアイヤル運動、モンテーニュ、スタンダールからカラバッジョ、プサンまで、きわめて広範な研究対象をもち、またその理解に際して動員される知の枠組も、哲学、神学、歴史学にはじまり、言語学ないしは記号論、神話学、精神分析など多彩であった。マランの業績を要約することはむずかしいが、つねにそこで問われていたのが「表象再現」représentationの概念であった。しかしながら、表象再現とは何かという定義、あるいはある時代の表象再現について何らかの網羅的な見取り図を与えることなどはマランの関心ではなかった。むしろときに歴史家や理論家をとらえる包括的な議論への希求に抵抗し、そうした議論がしばしば自らの読解の暴力を通して無力化してしまう対象本来の力を明らかにしようというのが、マランの目ざすところであった。したがって彼が「仕掛け」とよぶ、あるテクストやイメージの細部に属するような要素、たとえばアウグスティヌスのテクストにおける音節の反復、プサンの絵画の背景に見られる奇妙な廃墟の形象、さらには絵画の額縁、あるいは裏面に至るまでを、全体に奉仕する一部分としてではなく、むしろ表象再現という行為のプロセスに伴う力学そのものを明らかにする重要な要素として論じた。また、聖体の秘蹟(ひせき)というキリスト教の概念を手がかりに、福音書の説話論的構造の分析にはじまり、ポール・ロアイヤルの論理学における記号をめぐる議論の問題、さらには肖像画や貨幣における王の身体へと、マランの議論は時間、空間あるいは学問領域の枠を自由に越境し、きわめて周到かつ緻密(ちみつ)な解読作業を通して、さまざまな表象再現の形式に活力を与える、ある種の断絶、不連続性、特異点を探していく。こうしたマランの学際的な姿勢は、1985年(昭和60)にフランス政府の文化使節として来日した際に日本の研究者に多くの影響を与えた。
[松岡新一郎 2015年6月17日]
『梶野吉郎訳『声の回復――回想の試み』(1989・法政大学出版局)』▽『鎌田博夫訳『語りは罠』(1996・法政大学出版局)』▽『梶野吉郎訳『食べられる言葉』(1999・法政大学出版局)』▽『梶野吉郎・尾形弘人訳『絵画を破壊する』(2000・法政大学出版局)』▽『La Critique du Discours; sur la "Logique de Port-Royal" et les "Pensées" de Pascal (1975, Minuit, Paris)』
南アフリカ連邦(現・南アフリカ共和国)の政治家。旧ケープ州リーベック・ウェスト(現・西ケープ州)に生まれる。ステレンボッシュ大学卒業後、オランダのユトレヒト大学神学部留学。帰国後オランダ改革派教会牧師となる。1915年下院議員として政界に入るとともに国民党入党。1924年第一次ヘルツォーク内閣の内相・教育相・厚生相兼任。1929年の第二次ヘルツォーク内閣でも留任したが、1933年第三次内閣がイギリス系スマッツの南アフリカ党と連合したのに反対して下野し、純正国民党を結成。1948年選挙で黒人の脅威(ブラック・ペリル)をスローガンに大勝し首相に就任。マラニズムとよばれる極端なアパルトヘイト政策を次々と実施し、南ア連邦を人種差別国家に仕上げた。1954年高齢のため引退し、1959年死去した。
[林 晃史]
インドネシア、ジャワ島東部の都市。スラバヤの南方80キロメートル、テンゲル山地とカウィ火山(2651メートル)の裾合谷(すそあいだに)に位置し、ブランタス川上流に臨む。標高455メートル。人口51万1780(1980)、138万2786(2018推計)。18世紀のすえ、付近のコーヒー栽培が盛んになるとともに発展し、さらにオランダ領時代には高原保養都市として開発され、また軍事基地ともされた。現在はコーヒー、砂糖、タバコなどの集散地ともなっている。市街は近代的で美しく活気があり、かつてのマジャパヒト王の名にちなむブラウィジャヤ博物館は、ジャワでもっとも近代的な博物館の一つである。マランを中心にオランダ領時代からいくつかの高原保養地が開かれたが、なかでも西方20キロメートルのアルジュノ火山の南麓(なんろく)にあるセレクタは有名。なお、この地方は中部ジャワと並んで古くからヒンドゥー・ジャワ文化の栄えた土地で、シンゴサリ王朝の遺跡も多い。
[別技篤彦]
インドネシア,ジャワ島東部の都市。人口77万0483(2003)。スラバヤの南80km,ブランタス川が市街地を貫流する。東のテンゲル山地と西のブータ(2874m),カウィ(2651m)両火山にはさまれた高原の盆地にあり,標高455m,健康に適した気候をもつ。マラン地方は,中部ジャワと並んで,古くからヒンドゥー・ジャワ文化の栄えた土地である。今日のマラン市北西部のディノヨから出土した,ジャワ暦682年(西暦760)の銘のある碑文や,避暑地バトゥ近辺のソンゴリティ寺院遺跡(推定9世紀),バドゥ寺院遺跡などは,ジャワ文化史上のいわゆる中部ジャワ期に,この地にもヒンドゥー文化の影響が及んでいたことを示している。しかし,マラン地方がジャワ史の中心舞台として姿を現すのは,シンガサリ王朝が当地を中心に勢力をふるった13~14世紀である。マラン市北方のシンガサリ寺院,東方のキダル寺院,ジャゴ寺院などの遺構が当時をしのばせる。今日のマラン市は,おもに19世紀以降,コーヒー,砂糖など農産物の集散地,鉄道・道路交通の要地として発展したものである。ことに20世紀初めからオランダ軍の基地とされて一層の発展を示し,1914年に市制を施行した。商業活動が盛んで,市の中央市場は品物の豊富なことで知られる。マラン産のタバコも有名である。市にはモダンなブラウィジャヤ博物館があって,マランに司令部を置く陸軍ブラウィジャヤ師団の戦史に関連した物品を展示している。国立ブラウィジャヤ大学もある。また,市から20kmへだたったカウィ火山北斜面のセレクタ(標高1300m)は,すぐれた山地リゾート地となっている。
執筆者:別技 篤彦+加納 啓良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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