ヘルツォーク(読み)へるつぉーく(英語表記)Thomas Herzog

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク(Thomas Herzog)
へるつぉーく
Thomas Herzog
(1941― )

ドイツの建築家。ミュンヘンに生まれる。1965年ミュンヘン工科大学建築学科卒業。その後1969年まで、ミュンヘンのペーター・C・フォン・ザイトラインPeter C. von Seidlein(1925―2014)のもとで働く。1969~1972年シュトゥットガルト大学の学術研究員となる。その間1971年、1972年にはローマのドイツ・アカデミーで在外研究生として研究活動を行う。1971年、ミュンヘンに自らの事務所を設立する。当時、膜構造建築の第一人者であったフライ・オットーの影響を受け、1972年「空気膜構造の研究」でローマ大学で博士号を取得。1973年カッセル総合大学教授となり、設計や製品開発に携わる。初期の代表作にはレーゲンスブルクの住宅(1979)がある。この住宅は、南面全体がゆるやかに傾斜した三角形断面をもつ構成で、南面を全面ガラスとし、太陽エネルギーの有効利用を考慮したソーラーハウス型の実験住宅である。

 1986年以降、ダルムシュタット工科大学で設計および建築工学を研究し、1993年からミュンヘン工科大学の教授となる。1990年代にはそれまでの研究成果を具体化する形で、環境やエネルギーをテーマとしたプロジェクトを次々と発表し、注目を集める。1990年代初期の代表作にはデザインセンター・リンツ(1993)がある。これは高さ約12メートル、幅約80メートルの広大な無柱空間(柱のないオープンな空間)を、複雑な制御機構による複層ガラスの屋根で全面的に覆ったものである。ここでは太陽光の入射角度を厳密に検討し、直射光を避け自然光を効果的に取り入れることができる。その直後に完成した自身の設計事務所アトリエ(1994、ミュンヘン)では、エアロジェル(ガラスと同じく二酸化ケイ素を主成分とする低密度の固体。体積のほとんどを空気が占める)という新素材を利用し、それをガラスの間に挟み込むことで、光を取り入れながら断熱性を確保する手法を試みている。

 ハノーバー産業見本市本部ビル(1999)は、一辺約24メートルからなる正方形平面のビルで、20階建ての高層オフィスビルである。このビルは複層ガラスによる外壁を付加することで二重壁の構成とし、二重壁の間を緩衝スペースとして利用することで、熱負荷の軽減や通風、採光の制御などを行う。2000年のハノーバー万国博覧会では「シンボル大屋根」を設計し、大規模な木造構造物を実現させた。ここでも木造の巨大な単位構造物を基本としながら、膜を通した自然採光、国産材の利用など、自然と技術との融合というテーマが実践されている。

 ヘルツォークは自然や環境というテーマに関して単体としての建築だけでなく、環境やサステイナビリティ(持続可能性)をテーマとし、都市レベル構想も持続的に展開している。ソーラー・シティ・プロジェクト(1995~2004、リンツ)ではノーマン・フォスターやリチャード・ロジャーズとともに、2万5000人が居住する環境共生型の都市を創案した。また、同じくフォスターたちとともに進めているソーラー・クォーター(1996~ 、レーゲンスブルク)でも、エネルギーのリサイクル・システムや太陽エネルギーの効果的な利用、自動車利用の抑制といった要素を多様に盛り込んだ、環境配慮型都市モデルを模索している。

 ヘルツォークの建築と活動は、単に環境への消極的な配慮にとどまらず、テクノロジーを駆使した積極的な環境への対応や、新素材の利用、交通問題への解答など、環境全体を見据えたより統合的な思考が展開されている点に特徴がある。日本でもしだいに注目を浴び、2003年(平成15)には東京・代官山のヒルサイド・テラスで「トーマス・ヘルツォーク展」が開催された。

 おもな受賞歴としてはミース・ファン・デル・ローエ賞(1981)、ドイツ建築家協会ゴールド・メダル(1993)、フランス建築アカデミー建築大賞(1998)、ヨーロッパ・ソーラー大賞(2000)などがある。

[南 泰裕]

『「特集サステナブル・アーキテクチュアの射程」(『Glass & Architecture』2003年春号・旭硝子)』『「トーマス・ヘルツォーク氏インタビュー」(『日経アーキテクチュア』2003年5月26日号・日経BP社)』


ヘルツォーク(Werner Herzog)
へるつぉーく
Werner Herzog
(1942― )

ドイツの映画監督。ミュンヘンに生まれる。大学で歴史学や文芸学を学ぶかたわら短編映画を自主製作し、映画の実際を独学で勉強。1967年の長編第一作『生の証明』(翌年のベルリン国際映画祭新人監督賞受賞)が高い評価を受け、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手の一人となった。以後、『小人(こびと)の饗宴(きょうえん)』(1970)、『闇(やみ)と沈黙の国』(1971)、『アギーレ 神の怒り』(1972)、『カスパー・ハウザーの謎(なぞ)』(1974)、『フィッツカラルド』(1982)、『緑のアリが夢見るところ』(1984)、『コブラ・ヴェルデ』(1987)など、辺境の地や異常な環境にある人間を描きながら、ドキュメンタリー映画や劇映画で独特の世界を発表している。また1990年代には舞台の演出も手がけている。

[村山匡一郎]

資料 監督作品一覧

生の証明 Lebenszeichen(1967)
蜃気楼 Fata Morgana(1968)
小人の饗宴 Auch Zwerge haben klein angefangen(1970)
闇と沈黙の国 Land des Schweigens und der Dunkelheit(1971)
アギーレ 神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes(1972)
カスパー・ハウザーの謎 Jeder für sich und Gott gegen alle(1974)
跳躍の孤独と恍惚(こうこつ) Die große Ekstase des Bildschnitzers Steiner(1974)
ガラスの心 Herz aus Glas(1976)
ラ・スフリュール、起こらざる天災の記録 La Soufrière - Warten auf eine unausweichliche Katastrophe(1976)
シュトロツェクの不思議な旅 Stroszek(1977)
ノスフェラトゥ Nosferatu : Phantom der Nacht(1978)
ヴォイツェク Woyzeck(1979)
フィツカラルド Fitzcarraldo(1982)
緑のアリが夢見るところ Wo die grünen Ameisen träumen(1984)
コブラ・ヴェルデ Cobra Verde(1987)
彼方へ Cerro Torre : Schrei aus Stein(1991)
問いかける焦土 Lektionen in Finsternis(1992)
キンスキー、我が最愛の敵 Mein liebster Feind - Klaus Kinski(1999)
神に選ばれし無敵の男 Invincible(2001)
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス~「失われた一万年」 Ten Minutes Older : The Trumpet - Ten Thousand Years Older(2002)
グリズリーマン Grizzly Man(2005)
ワイルド・ブルー・ヨンダー The Wild Blue Yonder(2005)
戦場からの脱出 Rescue Dawn(2006)
バッド・ルーテナント The Bad Lieutenant : Port of Call New Orleans(2009)
狂気の行方 My Son, My Son, What Have Ye Done(2009)
世界最古の洞窟(どうくつ)壁画3D 忘れられた夢の記憶 Cave of Forgotten Dreams(2010)

『ヴェルナー・ヘルツォーク著、藤川芳朗訳『氷上旅日記』(1993・白水社)』『『解凍! ヘルツォーク』(2000・パンドラ、現代書館発売)』


ヘルツォーク(James Barry Munnik Hertzog)
へるつぉーく
James Barry Munnik Hertzog
(1866―1942)

南アフリカ連邦(現南アフリカ共和国)の政治家。旧ケープ州のウェリントン(現・西ケープ州)に生まれ、ステレンボッシュ大学卒業後ヨーロッパに留学した。1893年帰国し、オレンジ自由国高等裁判所の判事となり、ブーア戦争に参加した。ブーア人ナショナリズムを掲げて、1914年国民党(NP)を結成、24年労働党との連立内閣で首相に就任した。26年ロンドン帝国会議に出席し自治領の主権を認めさせた。国内政治では都市に流出したブーア人をアフリカ人から守るため、一連の産業上の人種差別法を制定した。大恐慌のときは白人の利益を擁護するため、スマッツと連立政権を樹立し連合党を結成した。第二次世界大戦に際しては中立を主張したが議会で敗れ、39年首相を退任した。

[林 晃史]

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改訂新版 世界大百科事典 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク
Herzog

フランク王国,ドイツ王国における官職,称号。大公または公と訳されることが多い。古ゲルマン人のもとで,戦時に置かれる最高の軍隊指揮官で,多くの場合有力豪族が選ばれた。フランク王国でも大公の制度が認められるが,これはローマ帝国末期,国境守備軍の指揮官として各地に置かれた将軍(ドゥクスdux)の制度を継承したもので,主として辺境地域に置かれた。メロビング朝末期,王権の弱体化と各地豪族の自立化に伴って,チューリンゲンバイエルンアラマン,フリーゼン,アクイタニアに大公が出現する。アクイタニア以外は大公の支配領域が部族領域と結合しているので,部族大公制と呼ばれる。カロリング朝は部族大公制を廃止し,大公領を多くのグラーフシャフトグラーフ)に分割するが,王朝末期には,再びバイエルン,シュワーベン,フランケン,ザクセンの部族大公領が復活し(新部族大公制),ザクセン朝,ザリエル朝,シュタウフェン朝を通じ,いずれかの部族大公の家門がドイツ王位を世襲して,部族大公領は,中世ドイツ国家の重要な構成単位となった。フリードリヒ1世は部族大公の権力を弱める一手段として,バイエルン大公領の東部を切り離し,オーストリア大公領を新設したのをはじめ,部族大公領の分割に努めた。さらに大公家門内部の分割相続による大公領の細分化の傾向もこれに加わり,大公領は部族領域との結び付きを失い,領域大公領へと変質を遂げた。
ランデスヘルシャフト
執筆者:


ヘルツォーク
James Barry Munnik Hertzog
生没年:1866-1942

南アフリカの軍人,政治家。ケープ州ウェリントンに生まれ,ステレンボッシュ大学法学部卒業後,オランダに留学。1893年帰国しトランスバール最高裁判所判事となったが,ボーア戦争勃発とともにボーア軍指揮官として参戦。1910年南ア連邦結成後,ボータ内閣に司法相として入閣。しかし親イギリス的なボータに対抗してボーア人ナショナリズムを提唱し14年国民党を結成。22年のラント金鉱山ストライキ後,労働党と提携して24年第1次ヘルツォーク内閣組閣。ボーア人のプーア・ホワイトpoor whiteを保護するさまざまな人種差別法を制定すると同時に,26年大英帝国会議に出席して南ア連邦の主権を主張,31年自治領dominionの地位を獲得した。第2次(1929-33)内閣後,大恐慌からの回復のためスマッツと合同して連合党を結成,第3次(1933-38),第4次(1938-39)内閣を組閣したが,第2次大戦に際し中立を主張して,連合軍側参戦を主張するスマッツに敗れ,39年辞任,42年失意のうちに亡くなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク
Herzog, Roman

[生]1934.4.5. ランツフート
[没]2017.1.10. バートメルゲントハイム
ドイツの政治家。大統領(在任 1994~99)。バイエルン州で生まれ,教育を受けた。1958年,ミュンヘン大学で法学博士号を取得。1966年に,ベルリン自由大学で憲法学および政治学の教授に就任した。1969年にシュパイアー行政大学院に移って政治学を教え,翌 1970年に中道右派のキリスト教民主同盟に入党した。シュパイアー行政大学院時代に,ラインラントファルツ州の首相だったヘルムート・コールに出会い,1973年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都ボンで,ラインラントファルツ州の全権代表となった。その後政府の役職を歴任し,最終的にシュツットガルトに移り 1980年にはバーデンウュルテンベルク州の内務大臣となった。1983年に連邦憲法裁判所副長官に就任。1987年に同裁判所長官となった。1994年5月,1990年の東西ドイツの統一後初めての連邦大統領選挙が行なわれ,3回目の投票で当選に必要な過半数の票を獲得し,勝利した。大統領任期中はドイツ民主共和国(東ドイツ)と西ドイツの相互理解を深めることに努めた。またヨーロッパ統一の推進派でもあった。1999年に任期が満了すると,ドイツ内の複数の大学で非常勤の教授として教鞭をとった。2003年,ミュンヘンにローマン・ヘルツォーク研究センターを設立した。

ヘルツォーク
Herzog; duc; duke

もともと古ゲルマンの軍隊統率者の意で,ラテン語でドゥクス duxと呼ばれ,戦争の際の人民集会で貴族のなかから選ばれたが,やがて平時においても政治的な指導者をこう呼ぶようになった。その権威は王に準じるものであった。メロビング朝の王権衰退期に,バイエルン,アレマンネンなどの諸部族を支配する「部族公」 Stammes-Herzogが出現し,この地方的勢力は,カロリング朝のもとで一度制圧されたのち,10世紀初めに復活し,12世紀中頃までドイツ帝国の土台を形成した。封建制の発達とともにヘルツォーク職は,一般にグラーフの上,王の下に立つ大貴族の位階をさすようになるが,「公 (こう) 」と訳されるこの高級貴族の国制史的な役割は国によって一様でない。

ヘルツォーク
Hertzog, James Barry Munnik

[生]1866.4.3. ケープ植民地ウェリントン近郊
[没]1942.11.21. プレトリア
南アフリカ共和国の軍人,政治家,アフリカーナー (現地オランダ系白人) 民族主義者。アムステルダム大学卒業後,弁護士,次いで判事となったが,1899~1902年の南ア戦争 (第2次ボーア戦争) に司令官として従軍。 10年連邦成立後 L.ボータ内閣の法相となり,12年に反英的立場から辞職。 14年アフリカーナーを基盤とする国民党を結成,24年の総選挙に労働党と組んで勝ち,首相となった。第2次世界大戦の際中立を主張し,39年参戦をめぐる議会の表決で敗れて辞職。 40年に議員も辞任した。

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百科事典マイペディア 「ヘルツォーク」の意味・わかりやすい解説

ヘルツォーク

南アフリカの軍人,政治家。ケープ州ウェリントンに生まれ,ステレンボッシュ大学法学部卒業後,アムステルダム大学に留学。1893年帰国し,弁護士を開業した後,トランスバール最高裁判所判事となった。1899年10月,第2次ボーア戦争が勃発するとボーア軍司令官として参戦。1902年英国が勝利した後も反英的立場をとった。1910年に南ア連邦が結成されると,最初の首相ボータの率いる内閣の司法相となるが,1912年,親英的なボータと別れ,1914年国民党を結成,完全な南アフリカの独立を主張した。その後労働党と提携して1924年の選挙に勝利し,第1次ヘルツォーク内閣を組閣,プア・ホワイトと呼ばれるボーア人労働者を保護するため,いくつかの人種差別法を制定した。大英帝国議会にも出席して南ア連邦の主権を主張している。1929年−1933年第2次内閣を組閣,1933年には大恐慌からの回復のためスマッツ将軍と連合党を結成し,1939年まで第3次,第4次内閣を組閣した。第2次大戦に際しては中立を唱えたが,連合軍側への参戦を主張するスマッツに敗れ辞任,失意のうちに亡くなった。

ヘルツォーク

ドイツその他中世ゲルマン系諸国での爵位。大公と訳される。元来は戦時に部族会議で選ばれる軍司令官のことであったが,やがて官職化し,さらに領地を支配する強大な地位となり,貴族の最高位として定着していった。→爵位

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ヘルツォーク」の解説

ヘルツォーク
James Barry Munnik Herzog

1866~1942

南アフリカ連邦の首相(在任1924~39)。1910年に成立した南アフリカ連邦の親英的政策に反対し,14年に国民党を結成。24年政権の座につくと,親アフリカーナー政策を展開,31年イギリスから自治権を獲得。39年に政敵スマッツに敗れ辞任。

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