日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポール・ロアイヤル運動」の意味・わかりやすい解説
ポール・ロアイヤル運動
ぽーるろあいやるうんどう
Port-Royal フランス語
17世紀フランスにおける宗教運動。パリの南西約25キロメートルの沼沢地に1204年創設されたシトー会所属のポール・ロアイヤル女子修道院の院長に、わずか10歳のアンジェリックLa Mère Angélique(本名ジャクリーヌ・マリ・アルノーJacqueline-Marie Arnauld、1591―1661)教母が就任し(1602)、禁欲的な戒律に基づく修道院改革に着手したことに始まる。当初はフランソア・ド・サルらの指導を仰ぎ、ついでサン・シランSaint-Cyran(1581―1643)が指導司祭となってからはさらに厳格な戒律を実践し、世評を高めた。世評とともに修道女も増えたので、パリの郊外に新しい修道院を建て、新院をポール・ロアイヤル・ド・パリPort-Royal de Paris、旧院をポール・ロアイヤル・デ・シャンPort-Royal des Champsとよんだ。一方サン・シランの感化により、デ・シャンの高台に隠棲(いんせい)した「ポール・ロアイヤルの隠士たち」とよばれる人々(そのなかにはアンジェリック教母の末弟アントアーヌ・アルノーや甥(おい)のサシIsaac-Louis Le Maistre de Sacy(1613―1684)らもいた)は、世俗を離れて祈りと読書、労働と教育に専念した。しかしかつて王権に反旗を翻したフロンド派の貴族たちがこの修道院に好意的であったこととジャンセニスムとの関係を理由に、この修道院と隠士たちはルイ王権からさまざまの圧迫を受けた。神学者ヤンセンの『アウグスティヌス』(1640)に五つの異端命題ありと表明する信仰宣誓文への署名を強制された際、パスカルの妹ジャクリーヌJacqueline Pascal(1625―1661)尼は良心の呵責(かしゃく)に耐えられず憤死した。信仰宣誓文署名拒否の強硬派の修道女たちは、最終的に官憲の力でデ・シャンのほうに集められ(1665)、パリの建物には妥協派が残った。その後新たに修道女の受け入れを禁止されたため、老齢の尼僧ばかりになったデ・シャンの修道院は、1709年に解散命令が出され、建物は2年後に官憲の力で破壊された。
若き日のラシーヌが教育を受けた隠士たちの「小さな学校」は独自な教育方針で知られ、文法学者ランスロClaude Lancelot(1615―1695)とアントアーヌ・アルノーの共著『文法』(1660)は文法理念の歴史に一大転換を生み、神学者ニコルPierre Nicole(1625―1695)とアルノーの共著『論理学』(1662)とともに今日なお言語学者の研究対象となっている。また、ポール・ロアイヤルの敬虔(けいけん)な信仰と脱俗の精神は、同時代のパスカル、ラシーヌをはじめ、19世紀のサント・ブーブ、20世紀のモーリヤック、モンテルランなど多くの思想家、文学者に影響を与えた。
[西川宏人]
『落合太郎著『ポール=ロワイヤル運動』(『岩波講座 世界思潮 第12冊』所収・1929・岩波書店/『落合太郎著作集』全1巻・1971・筑摩書房)』▽『N・チョムスキ著、川本茂雄訳『デカルト派言語学』(1970・テック)』▽『C・ランスロ、A・アルノー著、P・リーチ編、南舘英孝訳『ポール・ロワイヤル文法』(1972・大修館書店)』▽『飯塚勝久著『フランス・ジャンセニスムの精神史的研究』(1984・未来社)』