スラバヤ(読み)すらばや(英語表記)Surabaya

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スラバヤ」の意味・わかりやすい解説

スラバヤ
すらばや
Surabaya

インドネシア、ジャワ島北東岸の港湾都市。東ジャワ州の州都。ブランタス川支流のカリマス川河口に位置する。対岸マドゥラ島との間に狭長なスラバヤ水道を抱く。首都ジャカルタに次ぐ大都市で、人口約295万4400(2001推計)、288万5245(2018推計)。地名は「ワニのすむ川」の意。第二次世界大戦後、織物、機械、船舶精油など各種工業が発展し、インドネシアの重要工業地帯の一つとなった。またこの地の戦略的位置から、かつてはオランダ海軍、現在はインドネシア海軍の重要基地となっている。市街はカリマス川に沿い、南北約20キロメートルにわたり細長く延びるが、カリマス川が二つに分岐する市の中央部が都心で、にぎやかなタンジュンガン通りはショッピングセンターとなっている。川の西側は住宅・学校地区、東側は中国人、アラブ人などの居住地区である。南東部の動物園はコモドオオトカゲを飼育していることで知られる。国立エルランガ大学がある。

[別技篤彦]

歴史

オランダ植民地時代を通じジャワ東部の政治・経済・文化の中心都市として繁栄するとともに、オランダ東インド会社海軍の最重要基地でもあった。同時にインドネシアの民族主義運動の拠点の一つであり、最初の本格的な大衆組織イスラム同盟(サレカット・イスラム)の指導者チョクロアミノトTjokroaminoto(1882―1935)が活躍し、その下で若き日のスカルノが影響を受けたのもこの町であった。また1935年、医師ストモSoetomo(1888―1938)らを中心に結成されたパリンドラ党の本部が置かれたが、同党は日本軍政に至るまでの期間、最大の民族主義政党として重要な役割を果たした。

 しかし、スラバヤの名を歴史的に不動なものとしたのは、独立戦争の初期インドネシア側と連合軍(英印軍)との間で展開された激しい市街戦であった。とくに1945年11月10日は、戦闘ピークに達し、インドネシア側は「独立か死か」の呼びかけの下に果敢な抵抗を行った。この日は、今日でも「英雄の日」として毎年全国的に祝われている。

[後藤乾一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スラバヤ」の意味・わかりやすい解説

スラバヤ
Surabaya

インドネシア,ジャワ島東部の港湾都市。ジャワティムール州の州都。ブランタス川河口に位置し,狭い海峡をへだててマドゥラ島と向き合う。年平均気温 27℃,月降水量 5mm (8,9月) ~279mm (2月) 。 1743年からオランダ東インド会社の支配下におかれ,貿易港として発展。ソロ川,ブランタス川流域の肥沃な農業地帯を後背地とする。タンジュンペラク,ウジュンの新旧2港は,ジャカルタのタンジュンプリオク港に次ぐ荷扱い量があり,砂糖,タバコ,コーヒー,チーク材,タピオカ,ゴム,香辛料などを輸出する。漁港,海軍基地としても重要。工業都市でもあり,製油,農産物加工,織物,ガラスなどのほか,造船,車両などの重工業も立地。鉄道,道路で島内各地と結ばれ,沿岸航路も発達し,国内空港もある。市街は住宅などの建て込んだ旧市と,近代的なオフィス,ホテル,住宅の並ぶ新市に分けられる。オランダ人の築いた要塞,巨大なモスクなどがあり,南西方にはマジャパイト王国の古都モジョケルトの遺跡がある。人口 234万 5206 (1985推計) 。

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