フランスの数学者、物理学者、哲学者。
オーベルニュのクレルモン(今日のクレルモン・フェラン)で生まれる。3歳で母を亡くし、優れた自然研究者であった父エチエンヌÉtienne Pascal(1588―1651)の合理的教育を受けた。1631年、父は3人の子を連れてパリに移住する。パスカルは幼少のころから異常な天分を発揮し、12歳でユークリッド幾何学の定理32までを独力で考えだし、16歳のとき『円錐(えんすい)曲線試論』を書き、世を驚嘆させた。1640年にルーアンに移住する。徴税官としての父の仕事を助けるため、計算器を考案、試作する。1646年、父の捻挫(ねんざ)を治療したデシャン兄弟を介して、ポール・ロアイヤル修道院の指導者サン・シランSaint-Cyran(1581―1643)の弟子ギュベールを知り、その影響で一家をあげてジャンセニスム(ヤンセン主義)の信仰に入る(最初の回心)。同年、トリチェリの真空の実験の追試に成功して以来、この問題に取り組み、翌1647年、『真空についての新実験』を発表。「自然は真空を嫌悪する」という、アリストテレスの権威に基づくスコラ的通念を実験的に打破するに至る。1648年、義兄フロラン・ペリエFlorent Perrier(1605―1672)に依頼してやらせたピュイ・ド・ドーム山頂での実験に成功し、これによって空気の重さが水銀柱の停止の唯一の原因であることを実証した。さらにこの考えを広げて流体静力学の全体に及ぼし、「パスカルの原理」を発見する。
1651年、父エチエンヌの死後まもなく、妹ジャクリーヌJacqueline Pascal(1625―1661)が兄の反対にもかかわらず、ポール・ロアイヤル修道院に入る。パスカルはこのころから社交界に出入りしはじめ、ロアネーズ公Artus Gouffier, duc de Roannez(1627―1696)、シュバリエ・ド・メレChevalier de Méré(1607―1684)らと親交を結ぶ。いわゆる「世俗時代」の始まりである。1654年、勝負事の名人メレの発案で、賭(か)け金の分配の問題に取り組み、数学の世界に確率論という新分野を生み出す。この年の9月ごろから俗世間に対する大きな嫌悪を感じるようになり、禁欲的態度に戻り、たびたび修道院の妹を訪れ、心境を訴える。1654年11月23日の夜、恩寵(おんちょう)の火を経験する(決定的回心)。このときの記録「メモリアル」を羊皮紙に書き写し、死ぬまで胴衣の裏に縫い込んでもち続けた。翌1655年1月、ポール・ロアイヤル・デ・シャンでの隠棲(いんせい)生活に入る。ド・サシIsaac-Louis Le Maistre de Sacy(1613―1684)と対話し、『エピクテトスとモンテーニュとについてド・サシ氏との対話』が生まれる。
このころから、ポール・ロアイヤル派(ジャンセニスト)とイエズス会(ジェズイット)との対立が激化しはじめ、パスカルもジェズイットとの神学論争に巻き込まれていく。アントワーヌ・アルノーの勧めで、彼は『田舎(いなか)の友への手紙(プロバンシアル)』と題する匿名文書を次々に発表し、ジェズイットの弛緩(しかん)した道徳を徹底的に攻撃した。1656年1月から翌1657年3月までに18の書簡が矢つぎばやに公表され、大いに人心を動かした。1656年3月24日、パリのポール・ロアイヤルにおいて「聖荊(せいけい)の奇跡」がおきる。これは、パスカルの姪(めい)マルグリットMarguerite Perrierの涙腺(るいせん)炎がキリストの荊(いばら)の一部分と信じられていた聖荊に触れてたちまち快癒したという奇跡で、このできごとは迫害のさなかにあったポール・ロアイヤルの人たちを喜ばせ、力づけた。パスカルは自分の近親者のうえにこの奇跡がおきたことに感動し、あふれる感謝の思いから「キリスト教弁証論」を書くことを決意する。
1658年には、サイクロイドの問題を解決し、積分法の基礎を発見するに至る。1661年、ポール・ロアイヤルへの弾圧が一段と厳しくなる。10月4日に妹ジャクリーヌが没する。10月31日、信仰問題と事実問題との区別なく、無条件にジャンセニウスを異端と認める信仰宣誓文に署名することを命ずる布告が出される。このとき、パスカルとその友ドマは署名に反対し、アルノーと争う。しかし、パスカルの考えは入れられず、こののち彼は論争から身を引く。1662年6月に入って生来の病気が急激に悪化し、苦しい療養生活の合間に貧者への愛のわざに励んでいたが、1662年8月19日、39歳の生涯を終えた。
[伊藤勝彦 2015年6月17日]
パスカルの死後、多くの遺稿が残されていたが、そのおもな部分は「キリスト教弁証論」のための断片的覚え書きで、本来、不信仰者を信仰に導く目的のために起草されたものであった。初版は、『宗教その他若干の主題についてのパスカル氏の思想(パンセ)』という題で1670年に出された、いわゆる「ポール・ロアイヤル版」である。しかし、これは当時の情勢から、適当と思われる部分のみを選び出して編んだ不完全な版であったので、その後、自筆原稿との照合の努力が続けられ、いくつかの新しい版本が生まれた。もっとも読まれているのは、ブランシュビック版(1897)だが、その後、第一写本優先説に基づくラフュマ版(1951)が現れ、新しい研究段階に入った。
この書の基本的骨組みは、第一に偉大と悲惨の弁証法が語られ、第二にこれを解決するために哲学の無力が明らかにされ、第三にイエスの愛による解決の方向が指示される、という構えになっている。人間は無限と無、偉大と悲惨との間に浮動する中間者である。広大無辺な宇宙に比べるならば、ほとんど一つの点に等しい。1本の葦(あし)のように弱い存在である。だが、それは「考える葦」である。「空間によって宇宙は私を包み、一つの点として私を飲み込む。だが、思考によって私は宇宙を包む」。ここに人間の尊厳がある。人間は偉大であると同時に悲惨であり、自分の悲惨を知るゆえに偉大である。哲学者はこの二律背反(アンチノミー)をけっして解決してはいない。
エピクテトスは自分の悲惨を知らず、自分の力で神を完全に知り、愛そうとしたから傲慢(ごうまん)に陥った。モンテーニュは人間の弱小だけをみて偉大に目を向けようとしなかったから、救いがたい懐疑と絶望の淵(ふち)に追いやられた。人間によっては解決できないこの矛盾は、神の偉大さと人間の悲惨を一身に体現したイエス・キリストによって初めて解決される。この仲介者がないならば、神とのあらゆる交わりは絶ち切られる。だから、生ける神を知ろうとするものは、孤立的精神の次元を去って、キリストとの深い内面的関係を保つ「愛」の次元へと飛躍しなければならない。「神を直観するのは心情であって理性ではない。これがすなわち信仰である」。パスカルは精神の秩序を越え出て、この心情の秩序に導かれたとき、神と自己の確実性をみいだせた。ここにパスカルの本領がある。
[伊藤勝彦 2015年6月17日]
ジェズイットとジャンセニストとの間の神学論争によって『田舎の友への手紙(プロバンシアル)』が生まれた。1656年1月23日、『プロバンシアル第一の手紙』をルイ・ド・モンタルトの匿名で発表。これに引き続き翌1657年3月24日までに全部で18の手紙を発表した。初めは恩寵問題が争点になっていたが、第五の手紙あたりからイエズス会の弛緩し、腐敗した道徳観に攻撃の的が絞られ、その「良心例学」casuistiqueの考えが徹底的に批判された。これらの手紙は事の真相を暴露した文書として驚くべき効果を収め、新しい版が出るとたちまち売り切れ、人々は争って読むというありさまだった。文学史上では、これが古典主義の文体を決定したということが定説となっている。
[伊藤勝彦 2015年6月17日]
『『パスカル全集』全3巻(1959・人文書院)』▽『前田陽一他訳『世界の名著29 パスカル』(1978・中央公論社)』▽『田辺保訳『パスカル著作集』7巻・別巻2(1980〜1984・教文館)』▽『森有正著『デカルトとパスカル』(1971・筑摩書房)』▽『伊藤勝彦著『人類の知的遺産34 パスカル』(1981・講談社)』▽『野田又夫著『パスカル』(岩波新書)』▽『伊藤勝彦著『パスカル』(講談社現代新書)』
国際単位系(SI)の圧力および応力の単位。固有の名称と記号で表されるSI組立単位の一つである。1平方メートル当り1ニュートンの大きさと定義されている。記号はPa。10マイクロバールにあたる。高度を測るのに初めて気圧計を使ったパスカルにちなんで名づけられた。1960年に作成された国際単位系の表では、圧力の単位はニュートン毎平方メートルであり、パスカルと併用される。
[小泉袈裟勝・今井秀孝]
フランスの科学者,宗教思想家,文学者。中部フランスのクレルモン(現在のクレルモン・フェラン)に生まれる。父のエティエンヌ・パスカルÉtienne Pascal(1588-1651)は税務関係の地方行政官であったが,数学その他の科学にも造詣が深く,当時の教養ある法服貴族の一典型といえる。早く妻を亡くしたエティエンヌは,1631年官を辞して一家でパリに赴き,メルセンヌの主宰する科学アカデミーに出入りするかたわら,子どもの教育に専念する。息子のパスカルは早熟の天才でとくに数学に才覚をあらわし,早くから父とともに科学者の集りに出席したが,16歳のときにデザルグの影響の濃い《円錐曲線試論》を発表(1640)し,射影幾何学における〈パスカルの定理〉を明らかにした。40年再び官についたエティエンヌとともに一家はルーアンに移る。そこでパスカルは父の徴税業務を軽減する目的でおそらく史上初の計算機を考案製作した。また真空に関するトリチェリの実験の報が伝えられると,当時学界で論議の的であった真空の存在を確証するために種々の実験を試み,〈トリチェリの真空〉が大気の重さ,さらに一般的には流体の平衡に基づいて生ずる現象であることを明らかにし,いわゆる〈パスカルの原理〉を確立した。しかし科学研究と並行して,46年パスカルは家族とともに当時の宗教界に深い影響を及ぼしたサン・シランの弟子たちの感化を受けて宗教的自覚を体験し,後にジャンセニスムと呼ばれる傾向に接近する(第1の回心)。
47年健康を害した彼はパリに戻り,医者のすすめで気晴しの機会を求めたが,それは結果として宗教的情熱の減退をもたらすことになった。とくに51年父が亡くなり,その後妹のジャクリーヌ・パスカルJacqueline Pascal(1625-61)が,彼の意志に反してポール・ロアイヤル修道院に入ると,彼は一見宗教に無関心な〈世俗時代〉を送ることになる。しかしこの間メレA.G.chevalier de Méréなどの社交界の人士との交友を通じて,人と人との自然で節度ある交わりを理想とする〈オネットムhonnête homme(紳士,教養人)〉のあり方に開眼し,〈幾何学的精神〉とは異なる〈繊細の精神〉で人間を観察することを学ぶ。同時に科学研究も精力的に続行し,〈大気の重さ〉と〈流体の平衡〉に関する論文を仕上げ(刊行1663),さらに賭博の賭金の分配のしかたをめぐってメレから受けた質問に端を発してフェルマーとともに確率の問題を論じ,その成果として《数三角形論》(刊行1665)を著した。しかし,やがて心の空白を自覚するに至り,ついに54年11月23日の夜,〈第2の回心〉と呼ばれる宗教体験を得て信仰に身を捧げることを決意した(その記録として《覚書》がある)。以後彼はポール・ロアイヤル運動の同調者となり,ジャンセニスムの牙城として教権と俗権の双方から圧迫されていたポール・ロアイヤル修道院とその関係者を支援する。とくに56-57年には,《プロバンシャル》の名で知られる18通の論争書簡を執筆し,アウグスティヌス伝来の厳格な恩寵観を擁護すると同時に,ポール・ロアイヤルの最大の敵イエズス会のたるんだ道徳観を攻撃して,世論に一大センセーションをまきおこした。その最中,ポール・ロアイヤルの寄宿生であった彼の姪に奇跡が生じ,このできごとに神意を読みとった彼は奇跡の意味に関する考察を行うが,それはやがて自由思想家に対してキリスト教の真理を明らかにする《キリスト教護教論》の構想に転化した。晩年のパスカルは病気に悩まされながら,サイクロイドの求積問題を解決して微積分学の先駆的業績をあげたり,慈善事業の資金作りのためにパリに最初の乗合馬車の会社を設立するなどの活動も行ったが,主力は《護教論》の執筆に注いだ。しかし著述は完成せず,その準備ノートだけが残され,《パンセ》として死後出版された。
パスカルの活動は多岐にわたるが,そのいずれにおいても当時の思想状況に鋭い問題提起を行っている。科学者としては,一方では,権威を認識の根拠とするスコラ自然学を排して実験と推論を重んずる実証主義的態度を打ち出すと同時に,他方ルネサンスのアニミスティックな自然観に顕著であった象徴主義を拒否して,科学研究を現象の原因と結果の連鎖の探究に限定した。しかし宗教と人間論の領域においては逆に,人間の原罪と神の恩寵の絶対性とを強調する復古主義的神学を奉じて,ヒューマニズムと合理主義とに妥協しようとする近代主義的傾向に断固反対し,また自然は超越的実在を指示するあいまいな記号であるとする象徴主義的見方に基づいて,人間存在の意味を探究した。それはあたかも,彼が近代の出発点にあってすでに,近代合理主義と人間中心主義の行きつく先が世界の意味の喪失であることを見抜いていたかのような印象を与える。彼の著作活動には一貫して,自分の信念を他者の精神と心情に及ぼしたいという説得の意志が働いており,また彼はそれを可能にする言語表現を探究し実現した。こうして彼の思想と表現に深い統一性を与えているのは,説得術と文章の技巧という二重の意味でのレトリックであるといえるし,またそれだからこそ彼は文学者としてもきわめて高い評価を得ているのである。
→ジャンセニスム
執筆者:塩川 徹也
圧力,または応力の単位で,記号はPa。1Pa=1N/m2と定義される。すなわち,面積1m2に対し,1Nの力が均等に作用するときの圧力,または応力をいう。体重50kgの人を地球の重力に抗して支える力は,地球の重力の加速度を9.8m/s2とすると,50kg×9.8m/s2=490Nである。もしこの人が,かかとの面積1cm2のハイヒールをはいていて,それに全体重をかけたとしたら,そのヒールのかかとにかかる圧力は490N/0.0001m2=4900000Paと非常に大きい値になる。その人がふつうに両足で立っているとすれば約24500Paとずっと小さくなる(足の面積の成人男子,女子平均はそれぞれ212.2cm2,185.8cm2なのでほぼ200cm2として計算した)。大気圧はふつう1atm,あるいは1013mb,あるいは760mmHg程度であるが,これをパスカルで表すと,1013hPaになる。国際単位系(SI)の中の固有の名称をもつ組立単位である。世界気象機関(WMO)では,1984年7月1日以降hPaを気圧表示の単位として使用することに決めている。パスカルという名称は,フランスのB.パスカルの名にちなんだものである。
執筆者:大井 みさほ
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1623~62
フランスの科学者,哲学者。早熟な天才として多くの数学,力学上の業績をあげたが,ジャンセニズムの影響を受け,1654年社交界を捨てポール・ロワイヤル修道院に隠退,厳しい禁欲の生涯を送った。遺稿『パンセ』のほかにイエズス会に対する反論の書『田舎人への手紙』がある。
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圧力の単位.記号 Pa.国際単位系(SI単位)の基本単位.
1 Pa = 1 N m-2.
1969年ころからこの単位名および記号が,国際的に承認された.
1 Pa = 9.86923×10-6 atm = 7.50062×10-3 Torr.
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(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)
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…彼の《随想録》(1580,88)は,深く広い思索を,くだけた気ままな文体で,気の向くままに書きとめたかたちをとっており,新しい魅力ある散文芸術様式として後世に大きい影響を及ぼしたからである。パスカルの《パンセ》(1670)は,モンテーニュとはまったく異質の思想を語りながら,《随想録》の影響ぬきには考えられない。モンテーニュは早い段階で英訳され,イギリスにおけるエッセー文学の隆盛の一つのきっかけとなった。…
…高等法院はなかったが,クレルモン・フェラン(1731年クレルモンとフェランが合併)には租税法院が置かれており,これが王国の機関としては最も重要なものであった。哲学者パスカルの父親エティエンヌ・パスカルはその評定官であり,パスカル自身もクレルモンで生まれている。彼が空気の重さを証明する実験を行ったのは,ピュイ・ド・ドームの山頂においてであった。…
…後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なおD.ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。…
…この機械は現在,復元されている。フランスの哲学者,数学者B.パスカルは,父親の煩雑な税務計算を助けるために,42年に歯車式の加減算機を作り,その後10年間に数十台を試作・製作した。ドイツの哲学者,数学者G.W.ライプニッツも,1671‐94年にかけて加減乗除のできる計算機を試作している。…
…他方,決疑法の機能は良心による正しく賢明な判断を助けることであり,後者を不用にするのではない。決疑法は福音書までさかのぼり,キリスト教倫理の重要な部分をしめるが,17世紀の中ごろ,空疎で,いたずらに精密な議論にふけって道徳の弛緩を招く傾向が目だち,パスカルの批判に服した。現代では逆に決疑法は状況倫理の唱導者から〈律法主義〉〈厳格主義〉として批判される。…
…それを〈トリチェリの真空〉と呼ぶ。この直後,フランスではB.パスカルが(義兄ペリエに依頼して)有名なピュイ・ド・ドームの実験を行って(1648),真空と大気圧の研究成果を確認している。17世紀中葉流行となったこのような真空実験で,もっとも著名なのはドイツのO.vonゲーリケによるそれだろう。…
…また,この言葉からバスの語が派生した。 哲学者のパスカルが17世紀後半に入って最初に考案したといわれ,その計画は1662年にパリ市内で実現され,営業が認可された。この乗合馬車は19世紀に発展したものと同じ性格をすでにもっており,パリの街区から街区へと決められた路線を定時運行し,五つの路線をもち,運賃は5ソルと高価なものだった。…
…密閉された容器を満たす静止した流体においては,その中の一部の圧力を増加してやると,いたるところで圧力が同じだけ増加するという法則。B.パスカルが提出したものである。流体が運動しているときは成り立たない。…
…また,地球を含めた惑星の公転の軌道が,完全な円ではなく,太陽をひとつの中心とする楕円である(ケプラー)とされたことも,それまでの完全性の観念を突破したものであった。
[パスカル]
さて,バロック思想が,反宗教改革と動的宇宙像という二つに対応する側面をもったものであるとき,それら二つの側面を兼ね備えたものとして浮かび上がってくるのは,広い意味でジャンセニストだったパスカルである。《パンセ》のなかにみられる〈この無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる〉ということばや,〈二つの無限〉の中間者としての人間の自覚は,そのことをよくあらわしている。…
…フランスの思想家パスカルの遺著。《瞑想録》との訳語もある。…
…サン・シランを師と仰ぎ,その弟子A.アルノーを理論的指導者とするポール・ロアイヤルはカトリック宗教改革運動の一翼を担うが,他方ジャンセニスムの本拠地とみなされ,教権,俗権の双方から数々の弾圧を受け,1709年修道院は閉鎖され,運動は終りをつげた。しかしその間,ポール・ロアイヤルはその運動の担い手と関係者の中から,アルノー,パスカル,P.ニコル,ラシーヌといった著名な思想家,文学者を輩出し,フランス古典期の文化に大きく貢献した。また付属学校は教育史上名高く,そこでの教育経験から生まれたいわゆるポール・ロアイヤルの《論理学》と《文法》は近年注目を集めている。…
…ついでこの考えを発展させ,人は動的,自発的努力によって受動的な感受性に打ち勝つべきであると力説した(《思考の分解》1805,《心理学基礎論》1812)。最後に彼は,パスカルの三つの秩序に対抗する三つの生(動物的生,人間的生,霊的生)の区別を説き,神への没入(実践的には犠牲と愛の生活)の重要性を教えた(《日記》1815‐24,《人間学新論》1823‐24)。【中川 久定】。…
…国際単位系では1m2に1Nの力が一様にかかっているときの圧力の強さが単位になる。これをパスカルと呼びPaで表す。圧力の単位としてはこのほか,バール(bar。…
…図1のような三角形状の数の配列をパスカルの三角形という。パスカルの三角形の構成方法を説明するために,次のような記号を導入しよう。…
※「パスカル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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