レヒフェルトの戦 (レヒフェルトのたたかい)
ドイツ国王オットー1世がマジャール人の侵入を撃退した戦い。955年バイエルンに侵入したマジャール人は,さらにシュワーベンに侵入を企て,アウクスブルクを攻撃したが,アウクスブルク司教の指揮する守備軍の抵抗により,陥落させることができなかった。救援におもむいたオットー1世は,アウクスブルク近郊のマジャール人の宿営地を包囲攻撃し,8月10日から12日までの3日間にわたり,これに壊滅的打撃を与えた。主戦場はアウクスブルク南西のレヒフェルトLechfeldではなく,同市南東のグンツェンレエGunzenleeではなかったかといわれる。この戦い以後,マジャール人の侵入は跡をたち,彼らは本拠地ハンガリー平原で,平和的な定住生活に入り,西欧文明に同化した。またこの勝利はオットー1世の王権を大いに強化し,コルバイ修道院の修道士ウィドゥキントの年代記によれば,オットー1世は,962年ローマでの皇帝戴冠に先だち,すでにこのとき軍隊によって皇帝に推戴されたという。
執筆者:平城 照介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「レヒフェルトの戦」の意味・わかりやすい解説
レヒフェルトの戦【レヒフェルトのたたかい】
955年ドイツ王オットー1世が,東方より中欧に侵入したマジャール人を,アウクスブルク南方近郊のレヒフェルトLechfeldで撃破した戦い。敗れたマジャール人は以後ハンガリーに定着,西欧文明に同化した。
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世界大百科事典(旧版)内のレヒフェルトの戦の言及
【オットー[1世]】より
…[帝国教会政策]と呼ばれるこの政策はザクセン朝および初期ザリエル朝の諸王によって継承された。対外的には東方スラブ人に対する押えとしてザクセン東方にマルク(辺境領)を設置し,9世紀以降侵入を繰り返していたマジャール人をアウクスブルク近郊の[レヒフェルトの戦]で決定的に打ち破り(955),以後侵入は跡を絶った。西方では政情不安なフランスに調停者としてしばしば介入し,南方ではイタリア王ロタール2世の寡婦アーデルハイトの救援要請にこたえて,951年第1回のイタリア遠征をおこない,彼女と結婚してイタリアに対する権利を基礎づけた。…
【ザクセン朝】より
…チューリンゲン,ザクセンの東方国境に多数の城塞を建設して,スラブ人の侵入を防ぎ,北方ではシュレスウィヒのマルク(辺境領)を設置してデーン人に備えた。最も大きな脅威であったマジャール人の侵入に対しては,ウンストルート近傍で大打撃を与え(933),ついでレヒフェルトの戦(955)で決定的勝利を収めた。西方では,西フランク王国の混乱に乗じてロートリンゲンの奪回(ロートリンゲン大公はコンラート1世の王位を認めず,西フランク王国に合体していた)に成功し,しばしば西フランク王国の政情に介入して調停者の立場をとった。…
【戦争】より
…これによって騎手は馬上に固定され,長槍を水平に構えて突進する衝突戦が可能となった。ドイツ王オットー1世がマジャール人の侵入を迎え撃った[レヒフェルトの戦](955)では,東方遊牧民騎馬隊に対抗できるだけの騎兵をすでに西欧側は備えていた。ノルマン・コンクエストに際し[ヘースティングズの戦](1066)で,ノルマン騎士軍がそれまで伝統的歩兵戦を固守していたアングロ・サクソン軍を蹂躙(じゆうりん)し,中世的戦法を確立する。…
【ドイツ】より
…962年に[オットー1世](在位936‐973)は皇帝の冠を戴き,ローマ・カトリック教会に対する庇護権をもつ[神聖ローマ帝国]が成立した。オットー1世は東から侵入しつつあったマジャール人に対して辺境伯領Markを設置し,レヒフェルトの戦(955)でその進出をはばみ,帝国の統一に努力を傾けた。しかしながら部族が割拠するドイツ国内の統治に当たってオットー1世がとった[帝国教会政策]は後のドイツの命運をも定める大きな意味をもっていた。…
※「レヒフェルトの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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