オットー(読み)おっとー(英語表記)Otto von Freising

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オットー」の意味・わかりやすい解説

オットー(Frei Otto)
おっとー
Frei Otto
(1925―2015)

ドイツの建築家、構造家。ケムニッツ生まれ。ベルリン工科大学で建築を学び、1950年にはバージニア大学の奨学生としてアメリカに渡る。1952年以降ベルリンでフリーランスの建築家として活動し、軽量構造の研究を行う。1954年「吊り屋根構造」をテーマにした論文で博士号を取得。1955年膜構造による初めての作品となるカッセル野外音楽堂を発表。1957年にはベルリンに軽量構造開発研究所(EL)を開設。これ以降、旧西ドイツのシュトゥットガルト大学、アメリカのマサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学から客員教授として招待される。1961年、生物学と建築との関係を研究するため、「生物学と建築」というワーキング・グループを結成。これは建築家、生物学者、エンジニアからなる研究共同体で、自然界に広く目を向け、その構造から知見を引き出そうとするものだった。1964年にシュトゥットガルト大学教授に就任し、同大学の軽量膜構造研究所(IL)を設立、所長を務める。1968年にはアトリエ・ワルムブロンを設立し、軽量膜構造に関するコンサルティングを行う。

 このころの作品としてはスイス博覧会パビリオン(1964、ローザンヌ)、モントリオール万国博覧会西ドイツ館(1967)などがある。西ドイツ館は、設計競技案として選ばれたもので、ケーブルネット構造(金属のケーブル線で複雑な曲面屋根をつくり、その上に屋根面となる膜をかけたもの)を主体とし、格子シェル(格子状の部材によって面を覆う構造システム)を採用した構造体である。この当時はコンピュータによる力学的な解析はできなかったため、こうした構造物の検討はすべて模型実験による設計によって進められた。これらの成果や研究が基礎となり、1970年代に入るとオットーは、ミュンヘンオリンピックスタジアム(1972)、マンハイム多目的ホール(1975)といった代表作を生み出す。

 ミュンヘン・オリンピック・スタジアムは、1967年に設計競技で当選したギュンター・ベーニッシュ・アンド・パートナーズの計画案をもとに、オットーが構造デザインの立場からサポートして建設された。同スタジアムは緑の大地との融合をテーマに、吊り橋による橋梁技術と膜構造技術を組み合わせ実現した巨大プロジェクトで、従来の古典的で静的な建築観を覆すような、ケーブルネット構造や膜構造の可能性を一躍世界に知らしめる作品となった。モントリオール博西ドイツ館の設計時には不可能であったコンピュータ解析が大幅に導入され、また屋根材料には影ができないように考慮してアクリル板が使用された。

 マンハイムの多目的ホールは、1972年に当選した地元の設計事務所案をもとに、オットーとオブ・アラップ社が協力した建築である。特徴は、屋根面全体を覆う木造格子シェルであり、それまでの研究の集大成として実現したものである。少ない材料で力学的に効果をもつ構造が明快な形で追求され、50センチメートル間隔の格子を架け渡し、軽快で大規模な無柱空間の実現を可能にした。

 その後ドイツ高速鉄道・リニアモーターカー公団との協同で、新しい鉄道の開発等にもたずさわる。また建築家の坂(ばん)茂との協同により、ハノーバー国際博覧会日本館(2000)を完成させた。同館は、格子シェルによるマンハイムの多目的ホールの延長線上の建築として位置づけられる。ここでは木造の代わりに紙管パイプの格子シェルが使われ、それが曲面屋根を形成し、その上部に塩化ビニル膜をかけて屋根を構成した大規模建築である。

 オットーは、一般には「膜構造の構造家」としてとらえられているが、建築家にも構造家にも入りきらない幅広い思考を展開し、作品も従来の建築観におさまらなかったため、近代建築の系譜では異端として扱われてきたことは否めず、大きく評価されることはなかった。しかし、太陽エネルギーの利用やガラスばりの温室の導入を通して、エコロジーへの実験的思考を体現した自邸の設計や、自然との調和を考慮した建築の創案など、サステイナビリティ(持続可能性)に直結するテーマを早くから扱っていた。その点で、きわめて先駆的な視野をもっていた建築家である。また、使用材料の観点から「レス・イズ・モア(より少ないことはより多いことである)」をテーマとし、いかに少ない材料で効果的に空間を生み出せるかに腐心した。そうした点で、最小の部材により最大の効果を目指したバックミンスター・フラーの思想にも通じる、現実的なテクノロジーと美学を一貫して追求した技術者でもあった。

[南 泰裕]

『F・オットーほか著、岩村和夫訳『自然な構造体』(1986・鹿島出版会)』『「特集モダン・ストラクチュアの冒険」(『建築文化』1997年1月号・彰国社)』


オットー(1世)
おっとー
Otto I
(912―973)

ザクセン朝第2代のドイツ国王(在位936~973)、初代の神聖ローマ皇帝(在位962~973)。オットー大帝Otto der Großeとよばれる。王朝の創始者ハインリヒ1世のあと、父王の指名と諸部族の選挙により王位についたが、国内では部族大公の独立化の傾向が強く、外敵の侵入の脅威も大きかった。オットーは、北方ではシュレスウィヒのマルク(辺境領)を置いてデーン人の侵入に備え、東方ではザクセン東境に二つの辺境領を設置、ゲロとヘルマン・ビッルンクをマルク・グラーフ(辺境伯)に任命して、原住ウェンド人の支配にあたらせたほか、マグデブルクの大司教座を新設(968)、その下に多くの司教座を配して、ウェンド人のキリスト教化を推進した。また、マジャール人の侵入をアウクスブルク近郊のレヒフェルトLechfeldにおいて決定的に打ち破り(955)、その脅威を根絶した。この勝利はオットーの名声を内外に高めた。西方では、ロートリンゲンを奪回しようとするフランス王の企図をくじき、逆にフランス国内の政争に調停者として介入するほどの実力を示した。

 国内では、ロートリンゲン大公ギゼルベルト、フランケン大公エーベルハルトなどの反抗を鎮圧、ロートリンゲン大公には娘婿コンラート、シュワーベン大公には息子リウドルフ、バイエルン大公には弟ハインリヒと血縁者を配し、ザクセン、フランケンを皇帝の直轄とし、王権の確立を図った。だが、リウドルフがコンラートと結んで反乱を企てる(953~954)に及び、この政策の限界を悟り、教会勢力との提携によって世俗諸侯を抑える政策に転換。弟のマインツ大司教ブルンにロートリンゲンの統治をゆだねたのをはじめ、側近の聖職者を大司教、司教、帝国修道院長として配置、多くの所領と特権とを与えて、国家統一の支柱とした。これは帝国教会政策とよばれ、ザクセン朝、初期ザリエル朝の諸王によって継承されたが、のちに叙任権闘争を惹起(じゃっき)する原因ともなった。

 オットーの王権確立の最後を飾るのはイタリア政策である。すでに951年イタリア王の寡婦アーデルハイトの保護を名目に第1回の遠征を行い、彼女と結婚しランゴバルト王の称号を得たが、国内の反乱により兵を収めた。961年、イタリア王を自称するベレンガールに対する教皇ヨハネス12世の救援要請を受け、再度イタリアに遠征、翌年ローマで教皇から皇帝として戴冠(たいかん)された。神聖ローマ帝国の誕生であり、オットーはその皇帝位をビザンティン帝国にも承認させるため、長期間の外交交渉を続け、972年ビザンティン皇女テオファーノを息子オットー2世の妃に迎えることで目的を達した。オットーは学芸の保護にも力を用い、オットー朝ルネサンスを招来した。後世「大帝」とよばれるゆえんである。973年5月7日メムレーベン宮で没した。

[平城照介]


オットー(Nikolaus August Otto)
おっとー
Nikolaus August Otto
(1832―1891)

ドイツの技術者。ケルンの商人であったが、1861年フランスのルノアールの発明したガス機関の新聞記事を読み、日ごろ技術や自然科学についてもっていた興味を刺激され、蒸気機関よりも能率のいいガス機関をつくろうと思いたった。ケルンの技師で技術の経験豊かなランゲンEugen Langen(1833―1895)と共同し1864年にN・A・オットー商会を設立、1866年、自由ピストン機関の製作に成功した。この機関は1867年に開催されたパリの万国博覧会での比較試験で、ルノアールの機関よりもガスの消費量がずっと少ないことが証明され金賞を得た。1872年にドイツガス発動機会社を創立し、その初代社長となった。ランゲンは副社長となり、ダイムラーを迎え入れてガス機関の開発に専念。1877年、4サイクルガス機関を完成し特許をとった。1862年フランスのド・ロシャAlphonse Beau de Rochas(1815―1893)の考えた4サイクル方式を現実のものとした。1878年パリで行われた万国博覧会でその能率の高いことで人々を驚嘆せしめた。これが「オットー機関」といわれるガス機関で、最初に実用になった内燃機関であった。

[中山秀太郎]


オットー(Rudolf Otto)
おっとー
Rudolf Otto
(1869―1937)

ドイツのプロテスタント神学者、宗教学者。ゲッティンゲン、ブレスラウ、マールブルクの諸大学で教えた。カントやシュライエルマハーの思想を継承しつつ、宗教の本質を非合理的、神秘的な「聖なるもの」または「ヌミノーゼ」(戦慄(せんりつ)すべく、かつ魅惑する神秘)と名づけた体験にみる、独特の理論を展開した。またモロッコ、インド、日本を旅行して、東洋、とくにインドの諸宗教を研究し、東西宗教の比較研究に大きな貢献をした。その思想は、第一次世界大戦後からのヨーロッパの宗教復興の気運を背景に、広くかつ深い影響を残した。

[田丸徳善 2018年1月19日]


オットー(2世)
おっとー
Otto Ⅱ
(955―983)

ザクセン朝第3代のドイツ国王(在位961~983)、神聖ローマ皇帝(在位967~983)。972年ビザンティン帝国皇女テオファーノTheophanoと結婚、翌年父オットー1世の死によりドイツの統治を引き継ぐ。父の政策を継承して部族大公の自立化を抑え、ボヘミア王と結んだバイエルン大公ハインリヒ・デア・ツェンカーの反乱を鎮圧、大公位を奪い、ボヘミア王に改めて臣従を誓わせた。デンマーク王ハラルドにもドイツの宗主権を承認させ、ロートリンゲンに侵入したフランス王ロタール2世を駆逐して、これを確保した。

 その後イタリア経略に転じ、南部イタリアからビザンティンとイスラムとの勢力を一掃しようとしたが大敗、海路ローマに逃れ、再度の遠征を企てたが、実現をみずにイタリアで客死した。

[平城照介]


オットー(Marcus Salvius Otho)
おっとー
Marcus Salvius Otho
(32―69)

ローマ皇帝(在位69.1~4)。「69年内乱」の際の4皇帝の1人。ネロ帝の遊び仲間で、帝の愛人ポッパエア・サビナの夫。58年以来ルシタニア州総督に任ぜられ、体よくローマを追われていた。68年、隣州の総督ガルバのネロ打倒と登極に協力し、ともに首都に帰還したが、予期に反して養子とされなかったため、近衛(このえ)軍と結託してガルバ帝を殺害(69年1月15日)、即位してネロの後継者をもって任じた。だが、彼を承認したのは東部諸属州のみであり、西部の支持を得た下ゲルマニア州総督ウィテリウスは、オットーの共同統治の提案を退け、イタリア侵入の構えをみせた。両軍はクレモナ近郊のベトリアクムBetriacumで会戦(69年4月14日)、敗北したオットーは同16日自害した。

[栗田伸子]


オットー(Otto von Freising)
おっとー
Otto von Freising
(1111/1115―1158)

南ドイツ、フライジンクの司教。ホーエンシュタウフェン朝の年代記作者。オーストリア辺境伯と皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスとの間に生まれる。ホーエンシュタウフェン朝のコンラート3世とは異父兄弟、フリードリヒ1世には叔父にあたる。『年代記、または二つの国について』『フリードリヒの治績』の2書において、叙任権闘争期および初期ホーエンシュタウフェン朝時代の歴史を叙述した。地上の国と神の国を対立させてとらえるアウグスティヌスの歴史観を継承し、教皇権と皇帝権との協調を理想とする立場から、この理想がフリードリヒ1世によって実現されることに期待を寄せた。とくに前者は、中世のキリスト教的歴史叙述のうち最高の作品と評価される。

[平城照介]


オットー(3世)
おっとー
Otto Ⅲ
(980―1002)

ザクセン朝第4代のドイツ国王(在位983~1002)、神聖ローマ皇帝(在位996~1002)。父オットー2世の死後3歳で王位を継ぎ、初めは母后が、彼女の死後は祖母アーデルハイトが摂政として国政をとった。一時、一族のバイエルン大公ハインリヒ・デア・ツェンカーが位を奪おうとしたが、成功しなかった。994年以降親政を開始、996年第1回ローマ遠征を行い、従兄弟(いとこ)ブルンをグレゴリウス5世として教皇位につけ、その手で皇帝として戴冠(たいかん)された。彼は母から古典的教養を仕込まれたためもあって、古代ローマ帝国の復興を夢み、積極的なイタリア統治を試みたが、若年で病死したため、その企ては挫折(ざせつ)した。

[平城照介]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オットー」の意味・わかりやすい解説

オットー
Otto von Freising

[生]?
[没]1158.9.22. モリモン
ドイツのスコラ哲学者,神学者,歴史家。生年は 1111~14年。オーストリア辺境伯レオポルト3世の子で,神聖ローマ皇帝コンラート3世の異母兄,フリードリヒ1世 (赤髯王)の叔父にあたり,政治にも影響を与えた。 1127/8年パリに遊学,32/3年に戻ってモリモンのシトー会修道院に入り,38年その院長になると同時にフライジングの司教となった。叙任権闘争 (→叙任権論争 ) によるキリスト教界の危機意識に立ち,アウグスチヌスの『神の国』を模範としながら書いた『二つの国の年代記 (二国論) 』 Chronica sive historia de duobus civitatibusは,中世ヨーロッパにおけるキリスト教的歴史叙述の傑作とされており,時の,地上の,悪魔の国と,永遠の,天上の,キリストの国の盛衰を世界史を通して描いている。地上の国を現実の帝国と同一視した彼は,力と知が東方から西方へ伝播した歴史的過程を衰退とみながら,コンスタンチヌス1世 (大帝) の改宗以来の帝国を,2つの国が1つになった教会の歴史とし,神聖ローマ帝国に地上の神の国をみている。フリードリヒ1世に捧げられたこの年代記は 46年までであるが,のちオットー・フォン・ザンクト=ブラジエンにより 1209年まで書継がれた。ほかにホーエンシュタウフェン家,なかんずくフリードリヒ1世の歴史を扱った"Gesta Friderici I"がある。

オットー
Otto, Rudolf

[生]1869.9.25. パイネ
[没]1937.3.6. マールブルク
ドイツの神学者,哲学者,宗教史家。エルランゲン,ゲッティンゲン両大学で学んだのち,ゲッティンゲン (1897~1914) ,ブレスラウ (14~17) ,マールブルク (17~29) の各大学で教える。かたわらプロシア議会議員 (13~18) ,憲法制定議会議員をつとめた。宗教の心理と歴史をおもに扱い,宗教の本質を合理的哲学から区別した。主著"Die Anschauung vom heiligen Geiste bei Luther" (1898) ,"Naturalistische und religiöse Weltansicht" (1904) ,『聖なるもの』 Das Heilige (17) ,"West-Östliche Mystik" (26) ,"Die Gnadenreligion Indies und das Christentum" (30) ,"Reich Gottes und Menschensohn" (34) 。

オットー
Otto, Frei

[生]1925.5.31. ジークマール
[没]2015.3.9. シュツットガルト
ドイツの建築家。1952年ベルリン工科大学卒業。1964年シュツットガルト大学教授。構造体にプレキシガラスパネル,ポリエステルシートなどの膜,ケーブル,そして木を用いる張力構造によって広大な内部空間と変化に富む外観を可能にした。静的建築物に動的なものを導入し,従来,仮設的に用いられていた「テント構造」を恒久的建築物に採用,いわゆる「膜構造」技術を完成したとされる。代表作に,ミュンヘン・オリンピック競技大会のメインスタジアム(1972),マンハイムの多目的ホール(1975),ミュンヘン動物園の鳥の家(1976)などがある。2000年,ドイツで行なわれたハノーバー国際博覧会の日本館を坂茂とともに手がけた。2006年高松宮殿下記念世界文化賞,2015年プリツカー賞受賞。

オットー
Otto, Nikolaus August

[生]1832.6.10. ホルツハウゼン
[没]1891.1.26. ケルン
ドイツの発明家。4サイクル機関を開発,蒸気機関に代る動力機関実用化への道を開いた。 1861年彼の最初のガソリン機関を開発,67年パリ万国博覧会で金賞を獲得。 76年から内燃機関に4行程サイクル方式を導入,安定的でしかも効率の高いガソリンエンジンを実用化するのに成功した。しかし4サイクル機関の特許は 62年にすでにフランスで出願されていたため,特許紛議が起った。

オットー
Otto, John Conrad

[生]1774.3.15. ニュージャージー,ウッドバリー
[没]1844.6.26. フィラデルフィア
アメリカの医師。初めて血友病を記載し,特別の家系の男子だけが患者となり,女子は発病しないが,その男児にはこの病気が遺伝すると述べた (1803) 。また,血友病の出血を止めるために硫酸ナトリウムを内用することを提唱したほか,てんかんの研究も行なった。

オットー
Otto von Bamberg

[生]1062頃
[没]1139
ドイツ,バンベルクの司教。聖人。叙任権論争では教皇に同情しつつも中立の立場を取り,1121年ウュルツブルクの会議では平和の回復に努力し,22年ウォルムスの政教協約によってこれを達成した。ポメラニアの布教に努めた。ポメラニアの使徒といわれる。祝日は7月2日。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報