ドイツの建築家、構造家。ケムニッツ生まれ。ベルリン工科大学で建築を学び、1950年にはバージニア大学の奨学生としてアメリカに渡る。1952年以降ベルリンでフリーランスの建築家として活動し、軽量構造の研究を行う。1954年「吊り屋根構造」をテーマにした論文で博士号を取得。1955年膜構造による初めての作品となるカッセル野外音楽堂を発表。1957年にはベルリンに軽量構造開発研究所(EL)を開設。これ以降、旧西ドイツのシュトゥットガルト大学、アメリカのマサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学から客員教授として招待される。1961年、生物学と建築との関係を研究するため、「生物学と建築」というワーキング・グループを結成。これは建築家、生物学者、エンジニアからなる研究共同体で、自然界に広く目を向け、その構造から知見を引き出そうとするものだった。1964年にシュトゥットガルト大学教授に就任し、同大学の軽量膜構造研究所(IL)を設立、所長を務める。1968年にはアトリエ・ワルムブロンを設立し、軽量膜構造に関するコンサルティングを行う。
このころの作品としてはスイス博覧会パビリオン(1964、ローザンヌ)、モントリオール万国博覧会西ドイツ館(1967)などがある。西ドイツ館は、設計競技案として選ばれたもので、ケーブルネット構造(金属のケーブル線で複雑な曲面屋根をつくり、その上に屋根面となる膜をかけたもの)を主体とし、格子シェル(格子状の部材によって面を覆う構造システム)を採用した構造体である。この当時はコンピュータによる力学的な解析はできなかったため、こうした構造物の検討はすべて模型実験による設計によって進められた。これらの成果や研究が基礎となり、1970年代に入るとオットーは、ミュンヘン・オリンピック・スタジアム(1972)、マンハイム多目的ホール(1975)といった代表作を生み出す。
ミュンヘン・オリンピック・スタジアムは、1967年に設計競技で当選したギュンター・ベーニッシュ・アンド・パートナーズの計画案をもとに、オットーが構造デザインの立場からサポートして建設された。同スタジアムは緑の大地との融合をテーマに、吊り橋による橋梁技術と膜構造技術を組み合わせ実現した巨大プロジェクトで、従来の古典的で静的な建築観を覆すような、ケーブルネット構造や膜構造の可能性を一躍世界に知らしめる作品となった。モントリオール博西ドイツ館の設計時には不可能であったコンピュータ解析が大幅に導入され、また屋根材料には影ができないように考慮してアクリル板が使用された。
マンハイムの多目的ホールは、1972年に当選した地元の設計事務所案をもとに、オットーとオブ・アラップ社が協力した建築である。特徴は、屋根面全体を覆う木造格子シェルであり、それまでの研究の集大成として実現したものである。少ない材料で力学的に効果をもつ構造が明快な形で追求され、50センチメートル間隔の格子を架け渡し、軽快で大規模な無柱空間の実現を可能にした。
その後ドイツ高速鉄道・リニアモーターカー公団との協同で、新しい鉄道の開発等にもたずさわる。また建築家の坂(ばん)茂との協同により、ハノーバー国際博覧会日本館(2000)を完成させた。同館は、格子シェルによるマンハイムの多目的ホールの延長線上の建築として位置づけられる。ここでは木造の代わりに紙管パイプの格子シェルが使われ、それが曲面屋根を形成し、その上部に塩化ビニル膜をかけて屋根を構成した大規模建築である。
オットーは、一般には「膜構造の構造家」としてとらえられているが、建築家にも構造家にも入りきらない幅広い思考を展開し、作品も従来の建築観におさまらなかったため、近代建築の系譜では異端として扱われてきたことは否めず、大きく評価されることはなかった。しかし、太陽エネルギーの利用やガラスばりの温室の導入を通して、エコロジーへの実験的思考を体現した自邸の設計や、自然との調和を考慮した建築の創案など、サステイナビリティ(持続可能性)に直結するテーマを早くから扱っていた。その点で、きわめて先駆的な視野をもっていた建築家である。また、使用材料の観点から「レス・イズ・モア(より少ないことはより多いことである)」をテーマとし、いかに少ない材料で効果的に空間を生み出せるかに腐心した。そうした点で、最小の部材により最大の効果を目指したバックミンスター・フラーの思想にも通じる、現実的なテクノロジーと美学を一貫して追求した技術者でもあった。
[南 泰裕]
『F・オットーほか著、岩村和夫訳『自然な構造体』(1986・鹿島出版会)』▽『「特集モダン・ストラクチュアの冒険」(『建築文化』1997年1月号・彰国社)』
ザクセン朝第2代のドイツ国王(在位936~973)、初代の神聖ローマ皇帝(在位962~973)。オットー大帝Otto der Großeとよばれる。王朝の創始者ハインリヒ1世のあと、父王の指名と諸部族の選挙により王位についたが、国内では部族大公の独立化の傾向が強く、外敵の侵入の脅威も大きかった。オットーは、北方ではシュレスウィヒのマルク(辺境領)を置いてデーン人の侵入に備え、東方ではザクセン東境に二つの辺境領を設置、ゲロとヘルマン・ビッルンクをマルク・グラーフ(辺境伯)に任命して、原住ウェンド人の支配にあたらせたほか、マグデブルクの大司教座を新設(968)、その下に多くの司教座を配して、ウェンド人のキリスト教化を推進した。また、マジャール人の侵入をアウクスブルク近郊のレヒフェルトLechfeldにおいて決定的に打ち破り(955)、その脅威を根絶した。この勝利はオットーの名声を内外に高めた。西方では、ロートリンゲンを奪回しようとするフランス王の企図をくじき、逆にフランス国内の政争に調停者として介入するほどの実力を示した。
国内では、ロートリンゲン大公ギゼルベルト、フランケン大公エーベルハルトなどの反抗を鎮圧、ロートリンゲン大公には娘婿コンラート、シュワーベン大公には息子リウドルフ、バイエルン大公には弟ハインリヒと血縁者を配し、ザクセン、フランケンを皇帝の直轄とし、王権の確立を図った。だが、リウドルフがコンラートと結んで反乱を企てる(953~954)に及び、この政策の限界を悟り、教会勢力との提携によって世俗諸侯を抑える政策に転換。弟のマインツ大司教ブルンにロートリンゲンの統治をゆだねたのをはじめ、側近の聖職者を大司教、司教、帝国修道院長として配置、多くの所領と特権とを与えて、国家統一の支柱とした。これは帝国教会政策とよばれ、ザクセン朝、初期ザリエル朝の諸王によって継承されたが、のちに叙任権闘争を惹起(じゃっき)する原因ともなった。
オットーの王権確立の最後を飾るのはイタリア政策である。すでに951年イタリア王の寡婦アーデルハイトの保護を名目に第1回の遠征を行い、彼女と結婚しランゴバルト王の称号を得たが、国内の反乱により兵を収めた。961年、イタリア王を自称するベレンガールに対する教皇ヨハネス12世の救援要請を受け、再度イタリアに遠征、翌年ローマで教皇から皇帝として戴冠(たいかん)された。神聖ローマ帝国の誕生であり、オットーはその皇帝位をビザンティン帝国にも承認させるため、長期間の外交交渉を続け、972年ビザンティン皇女テオファーノを息子オットー2世の妃に迎えることで目的を達した。オットーは学芸の保護にも力を用い、オットー朝ルネサンスを招来した。後世「大帝」とよばれるゆえんである。973年5月7日メムレーベン宮で没した。
[平城照介]
ドイツの技術者。ケルンの商人であったが、1861年フランスのルノアールの発明したガス機関の新聞記事を読み、日ごろ技術や自然科学についてもっていた興味を刺激され、蒸気機関よりも能率のいいガス機関をつくろうと思いたった。ケルンの技師で技術の経験豊かなランゲンEugen Langen(1833―1895)と共同し1864年にN・A・オットー商会を設立、1866年、自由ピストン機関の製作に成功した。この機関は1867年に開催されたパリの万国博覧会での比較試験で、ルノアールの機関よりもガスの消費量がずっと少ないことが証明され金賞を得た。1872年にドイツガス発動機会社を創立し、その初代社長となった。ランゲンは副社長となり、ダイムラーを迎え入れてガス機関の開発に専念。1877年、4サイクルガス機関を完成し特許をとった。1862年フランスのド・ロシャAlphonse Beau de Rochas(1815―1893)の考えた4サイクル方式を現実のものとした。1878年パリで行われた万国博覧会でその能率の高いことで人々を驚嘆せしめた。これが「オットー機関」といわれるガス機関で、最初に実用になった内燃機関であった。
[中山秀太郎]
ドイツのプロテスタント神学者、宗教学者。ゲッティンゲン、ブレスラウ、マールブルクの諸大学で教えた。カントやシュライエルマハーの思想を継承しつつ、宗教の本質を非合理的、神秘的な「聖なるもの」または「ヌミノーゼ」(戦慄(せんりつ)すべく、かつ魅惑する神秘)と名づけた体験にみる、独特の理論を展開した。またモロッコ、インド、日本を旅行して、東洋、とくにインドの諸宗教を研究し、東西宗教の比較研究に大きな貢献をした。その思想は、第一次世界大戦後からのヨーロッパの宗教復興の気運を背景に、広くかつ深い影響を残した。
[田丸徳善 2018年1月19日]
ザクセン朝第3代のドイツ国王(在位961~983)、神聖ローマ皇帝(在位967~983)。972年ビザンティン帝国皇女テオファーノTheophanoと結婚、翌年父オットー1世の死によりドイツの統治を引き継ぐ。父の政策を継承して部族大公の自立化を抑え、ボヘミア王と結んだバイエルン大公ハインリヒ・デア・ツェンカーの反乱を鎮圧、大公位を奪い、ボヘミア王に改めて臣従を誓わせた。デンマーク王ハラルドにもドイツの宗主権を承認させ、ロートリンゲンに侵入したフランス王ロタール2世を駆逐して、これを確保した。
その後イタリア経略に転じ、南部イタリアからビザンティンとイスラムとの勢力を一掃しようとしたが大敗、海路ローマに逃れ、再度の遠征を企てたが、実現をみずにイタリアで客死した。
[平城照介]
ローマ皇帝(在位69.1~4)。「69年内乱」の際の4皇帝の1人。ネロ帝の遊び仲間で、帝の愛人ポッパエア・サビナの夫。58年以来ルシタニア州総督に任ぜられ、体よくローマを追われていた。68年、隣州の総督ガルバのネロ打倒と登極に協力し、ともに首都に帰還したが、予期に反して養子とされなかったため、近衛(このえ)軍と結託してガルバ帝を殺害(69年1月15日)、即位してネロの後継者をもって任じた。だが、彼を承認したのは東部諸属州のみであり、西部の支持を得た下ゲルマニア州総督ウィテリウスは、オットーの共同統治の提案を退け、イタリア侵入の構えをみせた。両軍はクレモナ近郊のベトリアクムBetriacumで会戦(69年4月14日)、敗北したオットーは同16日自害した。
[栗田伸子]
南ドイツ、フライジンクの司教。ホーエンシュタウフェン朝の年代記作者。オーストリア辺境伯と皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスとの間に生まれる。ホーエンシュタウフェン朝のコンラート3世とは異父兄弟、フリードリヒ1世には叔父にあたる。『年代記、または二つの国について』『フリードリヒの治績』の2書において、叙任権闘争期および初期ホーエンシュタウフェン朝時代の歴史を叙述した。地上の国と神の国を対立させてとらえるアウグスティヌスの歴史観を継承し、教皇権と皇帝権との協調を理想とする立場から、この理想がフリードリヒ1世によって実現されることに期待を寄せた。とくに前者は、中世のキリスト教的歴史叙述のうち最高の作品と評価される。
[平城照介]
ザクセン朝第4代のドイツ国王(在位983~1002)、神聖ローマ皇帝(在位996~1002)。父オットー2世の死後3歳で王位を継ぎ、初めは母后が、彼女の死後は祖母アーデルハイトが摂政として国政をとった。一時、一族のバイエルン大公ハインリヒ・デア・ツェンカーが位を奪おうとしたが、成功しなかった。994年以降親政を開始、996年第1回ローマ遠征を行い、従兄弟(いとこ)ブルンをグレゴリウス5世として教皇位につけ、その手で皇帝として戴冠(たいかん)された。彼は母から古典的教養を仕込まれたためもあって、古代ローマ帝国の復興を夢み、積極的なイタリア統治を試みたが、若年で病死したため、その企ては挫折(ざせつ)した。
[平城照介]
ドイツの技術者。初めケルンで商業を営むが,1862年ころから蒸気機関に代わる小工場用の原動機としてガス機関の製作を志す。64年E.ランゲンとともにN.A.オットー商会を創設,66年にはフリーピストン機関の改良,製作に成功した。この機関は大気圧機関で,J.ルノアールのガス機関よりガス消費量が約1/3と少なく,67年パリ万国博覧会では金賞を受賞した。72年G.ダイムラーとW.マイバハを迎えドイツ・ガス原動機製作会社を設立,この機関の改良を続けたが,好成績を得るにいたらず,結局放棄する。代りに,ボー・ド・ロシャAlphonse Beau de Rochas(1815-93)の4サイクル機関の理論(1862特許)によって,内燃機関の開発に向かい,76年,現在,オットー・サイクルとして知られる4サイクル方式の内燃機関を製作,翌年には特許を得た。この機関は,爆音の激しかったルノアール機関に比べてはるかに静かであったところから,〈無音オットー〉と呼ばれ,78年のパリ万国博覧会でも評判を集めた。オットーの内燃機関の特許は,競争相手が多数異議申立てを行い,結局最終的には無効とされたが,内燃機関そのものの改良は進められ,1880年代初めには出力100馬力ものも市販され,当時産業用原動機として全盛の蒸気機関に代わって工場に進出し始めた。オットー機関は現代の内燃機関の理論と構造の原型となったものである。
執筆者:木本 忠昭
ドイツのプロテスタント神学者,宗教学者。ゲッティンゲン大学などを経て,マールブルク大学の組織神学教授。宗教の本質と真理を学問的に把握することを課題とし,人間の内的直感や予感を方法としてその解明に向かっていった。ルター,カント,シュライエルマハー,フリースJ.F.Fries,デ・ウェッテW.M.L.De Wetteの影響を受け,主著《聖なるもの》(1917)などで宗教を他の事物から説明せず,それ独自の事態として理解し,そこに〈聖なるもの〉〈ヌミノーゼNuminose的なもの〉の存在を認めた。聖なるものの言い尽くしがたさや神的なものの非合理的,神秘的側面を明らかにした点にその特徴がある。さらにそれを宗教史の中に跡づけ,キリスト教のほかにインド宗教の研究にも向かった。
執筆者:近藤 勝彦
ドイツの貴族バーベンベルク家出身の聖職者,歴史記述者。国王コンラート3世の異父弟,フリードリヒ1世の伯父。1138年いらいフライジング司教となり,シュタウフェン王家の国政に深くかかわる。43年から46年の間に大作《年代記》を書く。《二つの国の歴史》とも呼ばれ,アウグスティヌスの影響が顕著なこの歴史叙述は,混迷の現世的事象と神の国との対比を通じて展開される一つの普遍的救済史である。彼が晩年に書いたもう一つの歴史作品《フリードリヒ1世伝》はシュタウフェン家の前史とこの王の事績とを56年まで記述したもの。それは宮廷礼拝堂司祭ラーエウィンRahewinの手によって60年まで書き継がれた。
執筆者:山田 欣吾
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…とりわけ,ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの結婚を通じて,シチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198‐1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。 1208年,フィリップが私怨によって暗殺され,中心を失ったシュタウフェン家の勢力を再び興したのは,フリードリヒ2世であった。…
…ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(ノルマン朝シチリア王ルッジェーロ2世の息女)の間にパレルモに生まれる。1196年ハインリヒ6世はこの幼児をドイツ国王に選ばせたが,翌97年同帝の予測せぬ死により情勢は激変,ドイツにはウェルフェン家のオットー4世とハインリヒ6世の弟フィリップ(シュタウフェン家)の二重王権の対立状態が現出する。その間フリードリヒは教皇インノケンティウス3世の後見のもと,シチリアで多才で早熟な若者に成長。…
…ドイツの〈シュトゥルム・ウント・ドラング〉の劇作家。ゲーテの《ゲッツ》にならった《オットー》(1775),ルソーとシェークスピアの影響の下に天才の情熱と自由への渇望をえがく《双生児》や《シュトゥルム・ウント・ドラング》(ともに1776)などがあるが,ロシアにおもむいた後の小説《ファウストの生涯と行動と地獄落ち》(1791)では,天才主義から離れ,古典主義的教養思想への接近を示している。【長屋 代蔵】。…
…中世前期には教会の全体像が薄れ,まず個々の民族,修道院,司教区等の年代史が作成されたが,11世紀以降の各種改革運動が教会全体の実態とあるべき姿とに対する関心を高めると,教会全体の年代史も作成された。フライジングのオットーは,アウグスティヌスの《神の国》に似た立場から《両国史》8巻を書き,中世的教会観からの脱皮を望む15~16世紀の人文主義者らは,種々の批判的教会史研究を著した。プロテスタントのフラキウス・イリュリクスMatthias Flacius Illyricus(1520‐75)は,これをさらに進めて,古代教会の伝統を継承しているのがルター派であることを立証する著作に努めた。…
…旧約聖書《創世記》から論じ起こし,オリエント,ギリシア,ローマの諸文明を経由して,ヨーロッパ文明の成熟への道程を描いているが,神話的記述と,最近年についての現実的記述の段差が,ことに強い印象を与える。フライジングのオットーの《年代記》(《二つの国の歴史》ともいう。12世紀中葉)がよく知られている。…
…しかし,古代末期の知識人層は一般に地上のローマ帝国の永続を信じるローマ理念から脱却しきれず,ルティリウス・ナマティアヌスら異教徒にせよ,オロシウスらキリスト教徒にせよ,現今の老齢化が死に至るものであるとは予知せず,なお帝国の若返りを信じていた。
[中世から近代へ]
中世においては,フライジングのオットーが《ダニエル書》の四世界帝国説に従って歴史叙述を行い,西ローマ帝国滅亡に神の審判をみて地上の権力のはかなさを説いたが,同時に彼は476年は狭義のローマ帝国の終焉(しゆうえん)にすぎず,帝権はフランク人に移行したとする。ローマ教皇,神聖ローマ皇帝,ビザンティン皇帝が並び立つ中世にあっては,このような〈帝権の移行〉〈帝国の更新〉という観念に基づくキリスト教的古代との連続感,およびキリスト教的摂理史観が支配的であり,ローマ没落原因論が展開される余地はほとんどなかった。…
…
[発達の歴史]
ガソリンエンジンの先駆となったのは,燃料としてガスを用いるガス機関であり,1860年ころルノアールJean Joseph Étienne Lenoir(1822‐1900)によってつくられた。N.A.オットーも1876年4サイクル火花点火式のガス機関を製作しているが,毎分回転数が200回程度で,馬力当りの重量も数百kgと重いものであり,燃料もガスであるため定置用に限られていた。83年G.ダイムラーは高速化により軽量化した小型4サイクルガソリンエンジンをつくり,85年二輪車を,86年四輪車を走らせた。…
…熱機関
[発達と利用の歴史]
初期の内燃機関は負圧を利用するいわゆる大気圧機関であり,また無圧縮式であったため熱効率も低かったが,機構的には蒸気機関からピストン・クランク,ピストンリング,はずみ車など多くのものを取り入れて進歩し,1860年ころにはフランスのルノアールJean Joseph Étienne Lenoir(1822‐1900)により,複動蒸気機関によく似た無圧縮式電気点火ガス機関が商品化された。すでに1838年にW.バーネットにより動力ピストンによる混合気の圧縮が提案され,また62年にはフランスのボー・ド・ロシャAlphonse Beau de Rocha(1815‐93)により4サイクル方式の理論が提唱されているが,それとは無関係にN.A.オットーは76年単動1シリンダーのガス機関をつくった。これが4サイクルエンジンの最初のもので,ガス交換用および火炎点火用すべり弁はかさ歯車を介してクランク軸の1/2の回転数で駆動された。…
…実際の危険ではない想像上の危険でも,人は恐れを感じるが,いずれの場合でも,対象がはっきりしている時には恐れ,対象が漠然としている時には不安とよぶのが通例である。根源的恐れとしては,宗教的体験による情動として,R.オットーが,その著《聖なるもの》(1917)で,宗教的感情を分析し,神の力や意志,または聖なる力を意味するラテン語のヌーメンnumenから,ヌミノーゼNuminose感情という言葉を作り,その基底に相反する1対の感情が存在することを明確にした。それが畏怖(トレメンドゥムtremendum)と魅惑(ファスキナンスfascinans)であり,心理学者のユングは,人間が心の深奥にある元型にふれる時に,この根源的恐れと魅惑を感じると述べている。…
…それゆえ,絶対に聖なるものに対してわたしは滅びるという自覚が,罪意識の原点である。《詩篇》22篇の〈われは虫にして人にあらず〉,《ヨブ記》16章・19章,ルターのいう〈震撼させられた良心〉,R.オットーのいう〈戦慄すべき神秘〉がこれにあたる。そのため,キリスト教の罪観念は一般的価値としての善悪の観念によっては測られないものがある。…
…ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。ネーアーCaspar Neher(1897‐1962),オットーTeo Otto(1904‐68),フォン・アッペンKarl von Appen(1900‐ )らである。叙事演劇の舞台ではスライドによって説明的なタイトルや解説を,舞台下半分をおおう引幕に投影したりした。…
…ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。ネーアーCaspar Neher(1897‐1962),オットーTeo Otto(1904‐68),フォン・アッペンKarl von Appen(1900‐ )らである。叙事演劇の舞台ではスライドによって説明的なタイトルや解説を,舞台下半分をおおう引幕に投影したりした。…
※「オットー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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