シュワーベン(読み)しゅわーべん(英語表記)Schwaben

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン
しゅわーべん
Schwaben

南西ドイツの地方名。英語ではスワビアSwabia。歴史上、シュワーベンは中世ドイツのシュワーベン公国をさす。地名は、紀元1世紀ごろこの地に居住したゲルマン系のスエビSuevi人にちなむが、この地名が一般に用いられるのは11世紀以降のことである。それまでは、3世紀から5世紀にかけてこの地に移住し定着したゲルマン系のアレマンネン(アラマン)人にちなんで、アレマンニアAlemanniaとよばれた。アレマンニアの範囲は、東はレッヒ川、西はエルザスアルザス)、北はネッカー川中流、南はアルプスを境界とし、今日のバーデン・ウュルテンベルク、バイエルン南西部、スイス北東部を含む地域である。

 上述のアレマンネン人は、フランク王国クロービスによって496年征服されたが、その後自立的傾向を回復し、再度フランクの支配下に入ったのは746年のことである。カロリング朝末期になると土着貴族台頭し、その一人のブルヒャルト1世が917年シュワーベン公を称した。その死後、926年ザクセン朝の国王ハインリヒ1世は、コンラート家(フランケン地方出身)のヘルマンに公位を与え、以後、非土着貴族が公に任ぜられ、部族公国の解体が進められた。1079年ザリエル朝の国王ハインリヒ4世は、女婿のシュタウフェン家のフリードリヒに公位を与え、これより同家が公位を相続し、その後のシュタウフェン王朝全盛の社会的基盤を形成した。1268年同家の断絶とともに、群小貴族乱立の時代に入るが、ウュルテンベルク伯、バーデン辺境伯アウクスブルク、コンスタンツ各司教が有力な存在であり、また多数の帝国騎士、帝国都市が生まれた。彼らはシュワーベン都市同盟(1376)、シュワーベン同盟(1488)などを結成し、ドイツ政治のイニシアティブ(主導権)を握った。1524年夏には、この地方を主舞台としてドイツ農民戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦争は翌年6月まで続いた。19世紀の哲学者ヘーゲル、シェリング、作家のシラー、詩人のヘルダーリンウーラントメーリケなどがこの地方の出身であるが、それは、シュワーベンの自由の伝統、牧歌的自然に負うものであろう。現在も家畜の飼育や酪農業が盛んである。

[瀬原義生]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュワーベン」の意味・わかりやすい解説

シュワーベン
Schwaben; Swabia

ドイツ南部の歴史地名。現在のバーデンウュルテンベルク州の南部,バイエルン州の南西部およびスイス東部とアルザスを含んだ地域。地名は1世紀頃居住したスエビ族に基づくが,この地名が一般化したのは 11世紀以降で,それ以前は西ゲルマンアラマンニ族にちなんでアラマニエンまたはアレマニエンと呼ばれた。アラマンニ族は,フランク王国のクロービス1世によって 496年に征服され,フランク王に服属する部族公によって統治されたが,メロビング朝衰微とともに自立傾向を示し,次いでカロリング朝カルル・マルテルが 730年再び征服してフランク王の直接支配するところとなった。同朝崩壊とともに土地貴族が台頭し,ブルヒアルトはシュワーベン公を称した (917) 。その後の支配者の地位は転々としたが,ザリエル朝のドイツ王ハインリヒ4世が 11世紀末にホーエンシュタウフェン家のフリードリヒにシュワーベン公領を与えたことが,その後のホーエンシュタウフェン朝台頭の基礎となった。 1268年ホーエンシュタウフェン朝は没落し,この地にはウュルテンベルク伯,バーデン辺境伯,アウクスブルク,コンスタンツ司教などの小領主が並立し,1290年代にはハプスブルク家のヨハン・パリチダによる公領再興の企図もあったが消滅し,14世紀には南部のスイス自由連邦が独立してシュワーベンの地域は縮小した。なお,ホーエンシュタウフェン家と対抗したウェルフェン家,のちにプロシア王家となったホーエンツォレルン家など,いずれもシュワーベンの貴族であった。

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