イスラム科学(読み)いすらむかがく

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イスラム科学
いすらむかがく

中世アラビア語文化圏の科学をいい、アラビア科学ともよぶ。アラビア語文化圏は、同時にイスラム(回教)文化圏であったから、いずれの呼び方をしてもよいが、「イスラーム」というアラビア語は「神の意志に従う」という宗教的意味の語であり、イスラム文化圏の哲学や法学などは回教の聖典であるコーランQur'nの教えから一歩も離れることができないところからすれば、人文科学や社会科学などをも含めた広い意味の科学を考えるときはイスラム科学というのが適当であろう。宗教と直接関係のない狭い意味の科学、つまり自然科学を主たる対象とするときはアラビア科学というのが適当である。[矢島祐利]

イスラム科学の始まり

ラテン語を学問用語とするヨーロッパのキリスト教文明はローマ帝国の分裂(395)、さらに西ローマ帝国の滅亡(476)ののち急速に後退し、ビザンティウム(のちにコンスタンティノープルと改名、現イスタンブール)を都とする東ローマ帝国(ビザンティン帝国ともいう)がわずかにギリシアやローマの文化をその滅亡(1453)に至るまで細々と伝えたにすぎない。
 一方、7世紀にアラビア半島の一角におこったムハンマド(マホメット)に率いられる政教一致の新体制は、ムハンマドの死後もカリフ(後継者)たちによって引き継がれて、まずイラク、イラン、シリア、さらに8世紀にはスペインにまでその勢力圏を広げた。そこでは、コーランが書かれている言語であるアラビア語が公用語とされたので、しばしばアラビア語文化圏の語が用いられる。その文化にはさまざまな学問が含まれており、数学、天文、物理、化学なども発展した。
 ムハンマド以前のアラビアには砂漠の英雄をたたえた詩などはあったが、学問らしいものはなかった。イスラム教徒が最初に吸収したのはペルシアの学問であった。ここにはギリシアやインドから学んだ学問があったからである。ついで、より直接的にギリシアの学問を取り入れるようになる。
 シリアのダマスカスに都を置いたウマイヤ朝第2代のカリフ、ヤズィード1世Yazd (在位680~683)の王子ハーリドKhlid ibn Yazd(704ころ没)はギリシア系の学者を招いて錬金術を学んだという。伝説的ではあるが、このころ学問への動きが始まったとみてよかろう。このウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝第2代のカリフ、マンスールAl-Manr(在位754~775)は新都バグダード建設のためペルシア人の占星術師アブー・マシャルAb Ma‘shar(886没)をよんで土地占いをやらせた。現代風にいえば都市計画をたてさせたのである。アブー・マシャルの占星術書はのちにラテン語に訳されてヨーロッパで読まれた。[矢島祐利]

翻訳・輸入の時代

このマンスールの時代にはペルシアの古都ジュンディシャープールからギリシア系の医学者がバグダードへよばれ、カリフの宮廷医を務め、医学書をアラビア語に翻訳する仕事に従事した。ジュンディシャープールはササン朝ペルシアのときに西方で異端を宣告されたネストリウス派(景教)キリスト教徒を受け入れていたので、ギリシアの学問を身につけた学者がここに多数いたのである。
 ギリシアからの翻訳が盛んになったのはカリフ、マームーンAl-Ma‘mn(在位813~833)の時代で、医学に限らず数学、天文、哲学などに及んだ。それらはイスラム教徒の学問のため行われたのであるが、そのなかには重要な歴史的意義をもつものがある。たとえばギリシアの数学者アポロニオスの円錐(えんすい)曲線の書はアラビア語訳のおかげで今日に伝わった部分がある。[矢島祐利]

独自な活動と発展

このようにして8世紀から9世紀にかけて翻訳時代をほぼ終わったイスラム科学は、やがて独自の活動期に入り、いろいろの分野で研究が進められた。その成果のなかには現代のわれわれにとっても重要なものが少なくない。以下、いくつかの点に触れたい。[矢島祐利]
アラビア数字
われわれが日常使っている1、2、3、……、10のような数字はアラビア数字といわれる。今日の形に落ち着くまでには多くの変化があったが、アラビア起源のためこの名がある。その便利さは、それ以前のローマ数字、……、や漢数字の一、二、三、……、十と比較すれば明らかである。ローマ数字や漢数字はそれぞれの数に固有のものであるから、大きい数を表すには(十)、C(百)、M(千)など新しい記号を導入しなければならない。これに対してアラビア数字では1から9までの数字とゼロ記号0があれば、どんな大きな数でも表記できる。
 ゼロの発見については古代インド、また古代メソポタミアまでさかのぼるが、ローマ数字などとは根本的に違う位取りによる表記、すなわち位置記数法はアラビア数字を仲立ちにして発達し、長い年月を費やして使いやすい形に整理されたのである。[矢島祐利]
代数
未知数をxと置いて、これと既知数との関係を方程式に書き、それを解く計算法を英語でalgebraといい、日本語で代数とよんでいる。この「アルジェブラ」という語は、アラビア語に由来する。それは、9世紀の数学者で、天文学者のフワーリズミーの著書の題名の『アル・ジャブルとアル・ムカーバラの算法』isb al-jabr wa al-muqbalaの一部分「アル・ジャブル」の転訛(てんか)である。フワーリズミーは二次方程式まで解いているが、当時は負数というものは考えることができなかったから、正根だけ出している。また、今日使うような方程式の形で表しているのではなく、それとまったく同じ手続を文章で表現している。そして既知数はa、bなどで表す現代風のものでなく、数字方程式に限られている。この計算法はすべてフワーリズミーが考え出したわけではなく、ギリシアやインドの数学を土台にして彼がまとめたのである。[矢島祐利]
占星術と天文学
アッバース朝のカリフ、マンスールが新都バグダード建設に際して占星術師アブー・マシャルをよんで土地占いをさせた話を前に述べた。それ以後にも占星術師として有名な人、また著書の伝わっている人は少なくない。占星術すなわち星占いは今日では天文学と区別されて、一方は迷信、他方は科学であるというのが常識である。しかし中世ではこれらの区別はなかった。
 人間の運命が天文現象と密接に結び付いているという考えは非常に古い。それらしいものはメソポタミアから発掘された紀元前1000年、またはもっと古い粘土板にすでに現れている。古代ギリシアにもあった。アラビアの占星術はギリシアからきたものである。カリフの宮廷には占星術師が召し抱えられていて、王子誕生などというときには、その出生時の日月五星の配置を考えて運勢を占う。なんらかの判断をするためには、天体の位置を割り出す知識をもっていなければならない。その時々の天体の位置を知るのには天文表を使うので、早くからこれをつくることが行われた。
 マンスールの時代にインドからバグダードに天文学者をよんだ。その学者がインドの天文書『シッダーンタ』Siddhntaを持参し、これをアラビア語に訳す仕事がカリフの宮廷で進められた。フワーリズミーはこの書によって天文表をつくっている。そののち多数の天文表がつくられているが、15世紀前半にサマルカンドの天文台でつくられた恒星表の『ウルグ・ベク星表』はアラビア科学の有終の美をなすものといえよう。
 イスラムの天文学はインドの天文学から学んだ部分もあるが、ギリシアのプトレマイオスの天文書がアラビア語に訳されて研究された。この書はギリシア語で『数学的集成』、のちには『大集成』という表題で伝わり、アラビアでは、その意味を示す『アル・ミジスティ』という題でよばれた。これがのちにラテン化されて『アルマゲスト』Almagestとなった。この書は今日もこの名で知られ、アラビア経由の歴史を物語っている。
 マンスールの時代に、地球の子午線に沿って緯度1度の長さを測る測量が行われた。北極星を見ながら北へ進んで、その高度が1度増すまで移動した距離を実測するのである。これによって地球の大きさを決定することができるが、これはギリシアの天文学者エラトステネスの方法に従ったものである。
 一般にアラビアの天文学者は観測に優れており、現代でいう地球の回転軸の軌道面に対する傾きを測った学者もいる。地軸の傾きは、夏には太陽が高く、冬には低いことと関係する問題であり、地図上の赤道から南と北へ約23度半のところにある回帰線と関係している。イスラムの天文観測機器にアストロラーベがある。アストロラーベによる観測結果を整理し、天体の現在の位置を定めるには数学の知識が必要となり、このために三角法が研究された。その起源についてはインドの数学が関係しているが、アラビアで発見された定理がいくつかある。またイスラム教徒は1日5回聖地メッカへ向かって礼拝をしなければならない、という宗教上の掟(おきて)がある。そのため旅先など見知らぬ土地で、およその時刻と太陽の高さからメッカの方向を知る方法が研究され、そのために導入された三角関数もある。
 イスラム天文学の置き土産(みやげ)ともいうべきものがある。天文用語で英語のzenith(天頂)、nadir(天底)などはアラビア語からの転訛である。また恒星の名のなかにはアラビア語に由来するとみられるものがいくつかある。アルゴル(ペルセウス座β(ベータ)星)、アルデバラン(おうし座α(アルファ)星)、リゲル(オリオン座β星)などがそれである。[矢島祐利]
錬金術と化学
錬金術は安価な金属を金に変えようとするものであるから、魔術のようなものであって、今日では科学ではないとだれでも指摘できる。ところが中世はそうではなかった。これらの関係は占星術と天文学のそれによく似ている。占星術から天文学が生まれた、という表現をするならば、錬金術は化学の母である、といってもよい。
 錬金術の起源は占星術ほど古くはないが、西暦の初めごろ地中海の沿岸地方、おそらくはエジプトあたりに生まれたものと考えられている。錬金術の英語alchemyの起源をめぐってそうした説がある。
 錬金術という日本語は「金」をつくることばかり連想させるが、実はそうではない。たとえば「テュレの紫」という、ある巻き貝からつくられる美しい染料があるが、高価なのでなにか代用品はできないか、という研究もアルケミーすなわち錬金術であった。
 金をつくるには、なによりもまず黄金色を出すことが必要であると考えられた。このため錬金術師はいろいろの物質を混ぜ合わせて、るつぼの中で溶かしてみた。水銀と硫黄(いおう)がもっともよく用いられたのは、これらの化合物が変化に富んだ色彩を現すからで、この二つは錬金術には欠かせないものであった。錬金術師たちは果てしない探索のなかでいろいろの物質をつくりだしており、そのなかには魔術ではなくて、本物の化学の部分が少なくない。
 イスラムの錬金術の書物はいくつか伝わっているが、錬金術が秘術とされたことから、たとえば水銀といわずに隠語を使ったり、初心者にはわからないように記述したりしてあり、理解しにくい点も多い。また伝承や翻訳の過程でさまざまなものが混入していることもあって、その真相を知ることを困難にしている。しかし、そうしたなかから近代の化学が成長したことは確かである。アルコール、アルカリなど、化学物質の名にアラビア語起源のものがあるのはその証拠といえよう。[矢島祐利]
物理と技術
イスラム科学には物理という専門分野はなかったが、光学に優れた研究がある。その研究者は、カイロのファーティマ朝のカリフ、ハーキムAl-Hkim(在位996~1020)の下で活躍した天文学者、数学者のアルハーゼン(アラビア名イブン・アル・ハイサム)である。彼は光線が空中から水中へ入る際の屈折について実験を行い、現代でいう入射角と屈折角とは比例する、という結果を得た。これは入射光線があまり傾いていなければ近似的に正しい。正確な屈折の法則が発見されたのは17世紀であることからしても、彼の研究の優秀さが知られる。
 また、彼は光線が球面や円柱面のような曲面に当たったときの反射光の経路を計算した。これは現代では幾何光学という光学の分野である。これらの研究をまとめた著書『光学の書』Kitb al-manirは、のちにラテン語訳されて、ヨーロッパの学問に大きな影響を与えた。
 そのほか物理の関係としては、鉱物の比重の測定の数値などが残っている。
 技術面では水時計の精巧なものがつくられていた。12世紀のアッ・サアーティAl-Stは時計づくりの名人で、名は「時計師」を意味する通称である。彼のつくった時計がダマスカスの城門にあったのでこの門は「時計門」とよばれたという。灌漑(かんがい)用水をくみ上げる水車を意味するフランス語のノリアnoriaは、アラビア語のナワーイルnawrからきているという。水車そのものはローマ時代からあったが、この技術がイスラムで発達したことが知られる。13世紀のイブン・アビル・カーシムIbn abal-Qsimはシリアのハマヘオロンテス川の水をくみ上げる水車をつくった。[矢島祐利]
『G・サートン著、平田寛訳『古代中世科学文化史』(1951・岩波書店) ▽矢島祐利著『アラビア科学史序説』(1977・岩波書店) ▽矢島祐利著『アラビア科学の話』(岩波新書)』

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