改訂新版 世界大百科事典 「アラビア科学」の意味・わかりやすい解説
アラビア科学 (アラビアかがく)
アラビア科学が世界史において重要な意味をもったのは中世においてであるから,いわゆる〈アラビア科学〉とは中世アラビア科学のことをさし,〈イスラムによって統一された地域--東は中央アジアから西はイベリア半島,南は北アフリカにわたる--において,8世紀後半から15世紀にかけてアラビア語で文化活動した人々の科学〉と定義しうる。ここでまず注意すべきは,このアラビア科学は人種的にアラブ人の科学を意味してはいないということである。むしろ人種的にアラブ人である科学者,哲学者はきわめて少なく,ペルシア人の貢献が最も大きい。そのほかユダヤ人やトルコ人も寄与するところがあった。また宗教的にもイスラム教徒だけではなく,ネストリウス派や単性論派のような異端キリスト教徒,サービア教徒,ユダヤ教徒などもこの発展に力をかしている。アラビア科学はこのように人種的にも宗教的にも多様な人々が,イスラムの統一の下にアラビア語を共通言語としつつ協力しながら,先進文明圏のさまざまな文化遺産を吸収し融合し発展させた科学なのである。それはまず古代オリエント(バビロニア,エジプト)の科学の地盤の上に,ビザンティンを経由したギリシア・ヘレニズムの科学を吸収し,またササン朝ペルシアを通してイランの科学的伝統を受け入れ,さらにはインドや中国の科学のいくつかもとり入れて形成された,当時における最高水準の普遍的科学であった。
このアラビア科学の発展は,次の三つの時期に区分することができる。(1)アッバース期:8世紀後半~9世紀,(2)全イスラム期:10世紀~11世紀,(3)アンダルシア・モンゴル期:12世紀~15世紀。
第1の〈アッバース期〉では,アラビアの科学文化の中心は圧倒的にバグダードに集中した。ペルシアやシリアやインドから優れた学者がこのアッバース朝の首都に雲集し,多くの第一級の科学文献がギリシア語やシリア語からアラビア訳され,アラビア科学は華やかに咲きいでた。ギリシア科学の精華の大部分を翻訳したフナイン・ブン・イスハークやサービト・ブン・クッラをはじめ,アラビア錬金術の祖であるジャービル・ブン・ハイヤーンやアラビア代数学の出発点をつくったフワーリズミー,正確な観測によりルネサンスにいたるまで西欧天文学にも大きな影響をもったバッターニー,さらにはイスラム圏のみならず,中世全体を通じて最大の臨床医家だったラージーなどが,この期に属する代表的な学者である。
第2の〈全イスラム期〉では,かつてアッバース家によって滅ぼされたウマイヤ朝の王族がスペインに逃れて建てた後ウマイヤ朝においてしだいに文化が興隆し,その勢いは東イスラム圏と覇を競うほどになり,さらにエジプトではファーティマ朝が栄え,ここでも大いに科学文化が振興された。この時代には東はバグダード,ブハラ,ガズナ,西はコルドバ,南はカイロを中心に,アラビア科学が全イスラム的規模で百花繚乱と咲き乱れる黄金時代がつくられた。この絶頂期の科学は,ビールーニーとイブン・シーナーとイブン・アルハイサムによって代表させることができよう。この3人はそれぞれ異なった意味でアラビア科学の最高をきわめた。《インド誌》という地理書や《マスウード典範》のような天文学の書物をものしたビールーニーは優れた分析的批判的精神をよく表しており,これに対し16世紀まで西欧でも権威の書であり続けた《医学典範》や体系的な哲学書《治癒の書》を著したイブン・シーナーは,徹底した総合的組織的精神の権化であり,さらに高度の数学と注意深い実験を駆使して光学を論じた《視覚論》を書き,西欧光学史の原点となったイブン・アルハイサムは,精密な数学的実験科学の精神をみごとに体現している。
第3の〈アンダルシア・モンゴル期〉では,すでに東イスラム圏は振るわず,科学はかえって南スペインのアンダルシアにおいて栄えるが,しかしこの時代には西欧の国土回復戦争(レコンキスタ)がはじまり,アンダルシアのイスラム教徒はやがてイベリア半島を追われ,その文化の拠点をマグレブをはじめとする北アフリカに移す。他方,中央アジアにつらなる地方は,モンゴルやティムールの支配下に入り,そのもとでなお科学活動を続ける。それはアラビア世界が東西から政治的に圧迫されつつも,なおその科学文化の最後の光芒を放つ晩期である。この時期を代表する学者として3人をあげれば,イブン・ルシュド(ラテン名アベロエス)とナシール・アッディーン・アットゥーシーとイブン・ハルドゥーンであろう。イブン・ルシュドは,12世紀にアリストテレスの著作の全貌がようやく西欧世界にわかりかけてきたときに,すでに膨大なアリストテレス注釈を書き,ラテン世界にアベロエス派なるものをつくり出して甚大な影響を与え,近代科学思想の形成に大きく貢献した。彼の著作《矛盾の矛盾》は,神学者ガザーリーの哲学批判《哲学者の矛盾》に対する再批判で,イスラム正統神学のギリシア的学問への攻撃を前にして,科学的合理性の最後の抵抗を示している。13世紀のナシール・アッディーン・アットゥーシーはイブン・シーナー以後の最大の総合的知識人であったが,とくに天文学に優れ,モンゴルのフレグの下でマラーガの天文台長として活躍した。その著《天文学の記憶》はプトレマイオスの天文体系を批判し,新しいモデルを提出したが,この彼の学説はさらに後に発展させられてコペルニクスの天文理論の一部をも先どりするに至った。また14世紀に北アフリカで活躍したイブン・ハルドゥーンは,有名な《歴史序説》を著して,イスラム世界における独自の社会哲学を提示した。
このように15世紀まで発展し続けたアラビア科学が,なぜその後衰えてしまったのだろうか。その理由としては,思想的・経済的・政治的という三つの要因が考えられよう。まず第1に思想的な文脈における原因として,イブン・ルシュド以後はガザーリー的正統神学の路線がイスラム思想の主流となり,科学思想はその圧迫下にしだいに衰弱し十分な発展を遂げがたくなったことが挙げられる。そしてそれ以後のイスラム思想は,ギリシアの流れをくむ合理的科学ではなく,イブン・アルアラビーやスフラワルディーに代表されるような神秘主義の方向に大きな発展をみることになるのである。第2の経済的原因としては,15世紀以後いわゆる〈大航海時代〉に入ると,ヨーロッパ人はアフリカの南端を周航して東方に達するインド航路を開拓し,直接東方諸国と経済的関係を結ぶに至ったことが挙げられる。このことは東西の中継貿易にもっぱら依存していたアラビアの富を急速に没落させ,その富を基盤として成り立っていたアラビアの宮廷科学も衰微することとなったのである。第3の政治的原因は,15世紀以降アラビア世界がオスマン帝国の支配下に入ったことである。このトルコ帝国は建築や法律や軍事のような実践的現実的なものには大きな関心を寄せこれを発展させたが,哲学や科学のような純粋に理論的な学問にはなじまなかったと思われる。それはちょうどギリシアの純粋科学や哲学が,現実志向の実践的なローマ帝国において,継承発展をみなかったことに似ているといえよう。
→ギリシア科学 →中世科学
執筆者:伊東 俊太郎
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